ふりこ
【一、樹上人の緒言】
Homo sapiensの姿が消えてから一億年後。
〇〇議長(音写困難)は、樹上人特有の昆虫を思わせる外骨格をきしませ、席から厳粛に立ち上がった。彼はその前肢に付属する鋭い鉤爪で音程調整装置を起動して他種族の可聴範囲に合わせ、樹上人語――社交に最も適しているとされる言語――を、この惑星史上最も偉大な聖堂に響き渡らせた。
「有史以来、私たち三大種族は、この太陽系第三惑星のかつての支配者『人間』の莫大な遺産の独占権を巡って、不毛な争いを続けてきました。それは、他種族の頭脳を第三惑星から永久に消し去り、自種族が第三惑星唯一の知的生命体の名を恣にせんとする戦いの歴史であり、そのために知を歪曲し、あまつさえ未来に残されるべき尊い可能性さえ、ただたまたま他種族の手に収まっているというだけで野蛮にも破壊してきた歴史でした。しかし、私たち三大種族は幼少期を過ぎ、無事に青年期を迎えました。私たちは武器を捨て、第三惑星知的生命体同盟の樹立を達成したのです。海底人はその卓越した掘削技術で『人間』の遺跡を発掘し、地中人は第三惑星で最も優れた頭脳で遺跡を研究して社会に役立て、私共樹上人は天賦の社会性を活かして両者の仲を取り持つことで、これまで三大種族が成し得なかった豊かで安定した社会を実現して、今日で丁度百年。今こそ、かつて為政者らによって圧殺された古生物学の研究資料を、胸を張って披瀝するときです。それでは、海底人代表××氏、お願いします」
【二、海底人の発表】
樹上人に代わって、戦車のような防護服で無数の鱗を覆い隠した海底人代表が、幾万の知の巨人たちの前に罷り出、海底人語――待遇表現が最も発達しているとされる言語――で発表した。
「海底人代表××でございます。本日皆々様のお目にかける研究は、戦争の主導者たちにとっては慄然たる毒薬も同じゅうございました。それは軍の戦意を喪失せしめ、敵兵への憎悪を失わせかねないものだったのでございます」
海底人代表は、壁に、三つの古生物の復元画を貼り出した。一つは角質化した皮膚の隙間から体毛を覗かせる四足獣、一つは波打ち際で魚を捕らえる鰐のような怪獣、一つは蛇のような細長い体に退化しかけの短い四肢のついた奇獣であった。
「右から順に、樹王類、海王類、地王類の、知られる限り最古の種。すなわち、三大種族それぞれの遠い遠い御先祖でございます。これらは全て、哺乳類と呼ばれる古生物のグループから派生したことが、近年の研究で明らかになりました。しかし、実は早くも戦時中に、地中人のある研究者がそのことを指摘していたのです。更に、今日我々が未だ気付きえていないことをも。この三つのグループが、哺乳類の中でも、単一の種族から分岐したというのです」
彼女は壁に、先の三つとは別の、一つの化石の写真と、その復元画を貼った。それは、鋭利な鉤爪と牙を持ち、体毛に覆われた、強靭な四足で大地を踏みしめる、堂々たる肉食獣であった。
「これは今から六五〇〇万年前に生息していたとされる古代生物でございます。『原王類』と称することにいたします。樹王類、海王類、地王類に共通する解剖学的特徴を、彼ら原王類は有していました。そうです。この三グループは、みな原王類の子孫にあたるのです。この古代の肉食哺乳類の子孫のうち、森林で木の実を食する生活に適応した者らの中から樹王類の祖先が、海中を泳いで魚を狩る生活に適応した者らの中から海王類の祖先が、そして地中で虫や木の根を齧る生活に適応した者らの中から地王類の子孫が現れたのでございます。時は流れ、三グループは更に多様化し、その中から時を同じくして頭脳を発達させ、言語を獲得した種が現れたのは、奇跡としか申しようがございません。我々三大種族は、この古代生物から派生し、不可思議な手に導かれるままに誕生した三兄弟なのでございます。各種族の得手不得手は異なりましょう。さればこそ、我々は争うべきではないのです。かつて栄えた『人間』は、不幸にして兄弟に恵まれませんでした。彼らは一人っ子でした。だから、発展には限界があり、最盛期を迎えた後はゆるやかに衰退して、最後には滅亡したのでございます。しかし、私たちには兄弟がいます。この第三惑星に、それも同時代に生を受けた三つ子の兄弟として、欠点を補い合い、共に更なる知性を備えた存在――誤解を恐れずに言えば、限りなく『宇宙の主催者』に近い存在――へと進化する。それこそ、我々の進むべき道ではございませんか!」
樹上人らは鉤爪を打ち鳴らし、海底人らは側頭の発声器官から高周波数の音波を発し、地中人らは身をうねらせ、おのがじし平和を寿ぎ、未来の更なる発展を誓いあった。
海底人代表が席に就くと、議長は言った。
「それでは、地中人科学院院長の△△氏の見解を伺い、本日の祝典の結びといたしましょう」
【三、地中人の示唆】
最後に這い出してきたのは、窓より降り注ぐ彼らには明るすぎる陽光を避けてベールを目深に被った、腕の生えた巨大なみみずのような地中人科学院院長であった。彼は愛嬌も何も無い朴訥な声色でもって、地中人語――思考を最も正確に陳述できるとされる言語――を用いて話した。
「戦時下において、自らの危険をも顧みず、未来の科学の発展のために資料を遺された先人とその御遺族に、最も深甚な敬意を評します。わたくしもまた、及ばずながら学問の発展に捧ぐる身。先程××氏が提示した情報について、我が見解を述べねばなりますまい。××氏は、たった今『不可思議な手』『宇宙の主催者』という言葉を使いました。しかし、そんなものはいません。わたくしたち研究者はそのことを知りすぎるほど知っています。この度の資料を見て、わたくしは改めて痛感しました」
院長は海底人のテーブルから原王類の骨格模式図を取り上げ、壁に貼り出した。
「原王類には、尾骨の形成不全、狭い骨盤、対向指など、後代のグループに見られない特徴が散見されます。これら特徴は同時代の怠獣類、貪獣類、不動獣類等と共通する特徴です。いやしくも古生物学を修める者ならまさか知らないはずはないでしょうが、これらはいずれも『人間』の子孫です」
観衆はどよめいた。
「かつて栄華を誇った知的生命体『人間』は、自らの生み出した文明の椅子に凭れ掛かりすぎ、少しずつ時間をかけて衰退していきました。いや、『衰退』と言っては語弊があるかもしれません。彼らにとって、過剰な頭脳はもはや無用の長物だったのです。樹上人が尾を退化させ、海底人が肺を退化させ、わたくしたち地中人が足を退化させたように、住む環境において不必要なものを縮小させるのは、合理的な進化です。それを『衰退』と呼ぶのは、知的生命体という、無数の可能性の中からたまたま『知性』という一つの機能を発達させる道を選んだだけの我々の自己狂信と言えます。『人間』は、文明に頼りさえすれば、頭部の肥大化した生体器官に大量の血液を送り込み、頚椎をその重荷で痛めつける必要などなくなり、あくまで自然な歩みとして、便利な道具に囲まれた世界に適応した、新たな種族へと進化していったのです。しかし、主人を失った文明はやがて朽ちてゆきます。彼らの生み出した機械には自己メンテナンス機能が搭載されていたようです。それでも、『人間』の手を離れてものの数千年も経てば、正常な機能を完全に喪失してしまいます。その世界は、脂肪を蓄え、筋肉を萎縮させた『人間』の末裔たちの生きられる世界ではもはやなくなってしまいました。彼らは、雨を絶たれた草木が枯れてゆくように、瞬く間に死滅しました。こうして『人間』の系譜は完全に絶たれた・・・と、わたくしたちは浅はかにも思い込んでいたのです。しかし、それは大きな誤りでした。『人間』は滅びなどしなかった。『人間』の子孫たちのうちで、一つの系統だけが辛くも生き残ったのです。活発に走り回り、強靭な膂力と鋭利な爪牙で他の獣を狩り喰らう、あの原王類。彼らこそが、文明が崩れ去ったあとに広がる新世界に順応した『人間』の新たな姿なのでしょう。そして、その原王類の子孫は、その後も環境の変化に合わせて形を変え、枝分かれを繰り返しました。『人間』の生きていた時代から一億年が経過したとき、『人間』の子孫は、再び高度な知性を必要とする状況にさらされました。その環境への適応に成功し、この惑星の新たな君主となったのが、わたくしたち三大種族だと考えられます」
観衆は、もはや言葉を発することも忘れて、すっかり静まり返っていた。
「何度でも言います。この世界には、生物を美しく設計する創造者も、際限ない知能の発達を望む主催者も存在しません。あるのは、いかなる環境においても死に抵抗し、何としてでもデオキシリボ核酸の塩基配列を後代に遺し伝えようとガムシャラに闘う生物のしぶとさ。それだけなのです。『人間』も例外ではありません。『人間』の祖先は知能を必要とする世界で、巨大な頭脳を持つ種族に変身を遂げました。怠惰を必要とする世界が到来すると、ひたすら懸命に機械に養われる存在に変身しました。機械が停止し、狩猟能力が必要な環境におかれると獰猛な肉食獣に変身し、樹の上では樹の上に、海の底では海の底に、土の中では土の中に適した姿に変身して、そして・・・、再び知能が必要になったとき、知的生命体へと回帰した。ふりこが同じ位置に戻って来るように、『人間』は再び知的生命体になったのです。生きるために。わたくしたち『人間』は、この一億年間、ただの一度だって進化を止めなかった。ただひたすらその時その時を生きて、生きて、生き抜いてきた。そして、今なお、こうやって力強く生きているのです」
2024/01/12起筆
2024/08/09描写追加