01 唐突
『芋虫は蝶になる前の準備段階として、さなぎになります』
『あ! 蝶が出て来た!』
――リリリリリ。
星の夢が自宅のリビングで昆虫特集の番組を眺めていると、部屋の隅の黒電話が甲高い音を鳴らした。
「あー、はい、もしもし……」
せっかく休んでたのに、と桃色の長い髪を後ろに手でまとめ、気だるげな声で受話器に話しかける。
『こんばんは、夜遅くに申し訳ありません……』少しばかり低い、女の声だ。『わたし最原朱美といいます』
「はあ」
夢はその名前に聞き覚えはなかった。声も聞いたこともない。電話番号は勤め先くらいにしか教えていないはずだが。
声に訝しむような感じが出ていたのか、朱美は『すいません』と謝った。
『えと、夢さん……で間違いないですか?』
「うん、そうだけど」訂正が面倒で、しかも変に思われそうなので、読みはどうでもよかった。「朱美……さん? でいいのかな? 朱美さんはなんで私に?」
悪い予感が頭をよぎる。だが、それは杞憂だったようだ。
『夢さんの遠縁にあたる戎線ミチエさんが先日亡くなりまして……わたしはミチエさんの顧問弁護士だったんですが。その遺産相続先――しかも十割、つまり全部――に、夢さんを指名しているんです』
「……は?」
突拍子もない話に、夢は間抜けな声を出すのが精いっぱいだった。
朱美でもだったが、夢は戎線という苗字もミチエという名前にも聞き覚えはない。もちろん遺産をもらう理由もよく分からなかった。
『わたしもなんで夢さんを――あ、いえ、何でもありません、ごめんなさい。ひとまず、予定が空いてる時にこちらまで来てくださいませんか?』
数日後、昼。
「ここだよね。戎線って書いてるし」
夢は指定された立派な屋敷を訪れた。インターホンを鳴らすと、すぐに引き戸が開く。
「夢さん!」
出てきたのは聞き覚えのある声の女だった。
おかっぱの黒髪、目はわずかに赤みがかかっている。首には引っかかれたような傷跡が黒く残っていた。服装は白シャツで、右の胸元には三日月と塔の刺繍がされていた。
「朱美さん?」
「はい、私が朱美です。お待ちしておりました! こちらへどうぞ」
ぺこりとお辞儀する朱美。
言われるままに夢は、いかにも日本風な建物の奥へ進む。老人が若いころからずっと住んでいそうな――実際そうなのだろう――雰囲気だが、汚れなどは全く見えず、掃除がよく行き届いているとすぐに分かる。
「おい!」
不意に甲高い声が響いた。
夢が振り向くと、そこにはわずかに色の薄い黒髪の少年が立っていた。
まだ小学生低学年くらいだろうか。苔色のだぼだぼのシャツを着て、やはりだぼだぼのジーンズを穿いている。左腕には、シャツの上から黒いスカーフをきつく縛っていた。
「すいません!」朱美が慌てて声を上げる。「これからわたしは夢さんと話があるので部屋に戻っておいてください!」
「パパが言ってたぞ! そいつはお金を盗む泥棒だって! だからオレがやっつけてや――」
――とっ。
少年がいきなりカッターナイフを取り出すが、すぐによろめき、動きを止める。
「そんな物騒な物取り出さないでよ……心臓に悪い」
少年のシャツには鉛筆が数本突き立っており、それによって壁に縫い留められていた。
「ゆ、夢さん……ごめんなさい! えっと……」
夢はゆっくりと少年に近づき、手から水色のカッターナイフを取り上げる。
「これに懲りたらもうそんなもの使っちゃダメだよ」
「か、返せ!」
カッターナイフは持ち手の部分に金色で『J.HALO』と書かれている。見た目もスタイリッシュで格好いいし、それなりに高そうだ。少年にとっても大事なものなのだろう。
「君、名前は?」
「誰がいうもんか――」
少年はそっぽを向いたが、すぐに朱美が補足する。
「戎線ハロウくんです。えっと、英語のハロー、太陽のほうの」
「なるほど」
鉛筆を全部壁から抜いてハロウを解放するが、カッターナイフを返せと喚きたてて暴れだした。朱美が「どうしようどうしよう」と呪文のように呟きながら左右に動きまわる。
「一つ交換条件があるんだけど、どう?」
「条件? そんなもの!」
「自分の立場を考えようね」
鉛筆を人差し指の上で回しながらすごんでみると、ハロウは小さな悲鳴を漏らして三度も頷いた。遺産をもらう側だからあまり手荒なことはしたくないのだが、夢は被害者でもあるし少しぐらいお天道様も見逃してくれるだろう。
「ここに来る前、伝手を使って戎線家について調べたんだけど、どうやら『玉術』っていう一種の魔法が使えるみたいだね。君の玉術について教えてくれない?」
ハロウは首を振ろうとしたが、目にハイライトがない夢に顔を覗き込まれて素直に喋った。
「『捷報錯謬』。詳しいことは知らないけど、殴ったら相手が幻覚を見るんだって……」
「そっか。どうもありがとう、ハロウ君」
今度はにっこりと優しい笑みを湛えてカッターナイフを返す。反撃するには絶好のチャンスだったが、ハロウはまったく動かなかった。
「すみません夢さん……それじゃあ――」
「ん、誰か帰って来た?」
夢の耳がわずかな足音を捉える。そして数秒後に、がらがらと引き戸が開いた。
「朱美さん。勝手な真似はしないでいただきたいと言っただろう!」
入ってきたのは、ハロウと同じ髪色の、三十代前半ほどの男だ。髪型は綺麗に整えられた七三分けで、目は細く鋭い。紺色のスーツを着用していて、商談前のビジネスマンのようだ。声色は強く、怒っているらしい。
「パパ……仕事って言ってなかった?」
ハロウがそう呟いたが、男は怒りで聞こえていないようだ。
朱美が少し固まるが、すぐ「しかし遺書には遺産を夢さんへ渡すと書かれてありました」と反論する。
「そんなもの捏造に決まっている。会ったこともないうえに、遠縁だ。それも途轍もない遠縁。ただの赤の他人と同じじゃないか。そんな女を何故指名する? 理由がないだろう!」
「しかし事実です! 筆跡鑑定でも本人の筆跡だと――」
「脅して書かせれば住む話だ。そうしたんだろう、部外者?」
夢は話をのんびり聞いていたが、男の言う『部外者』が自分の事だと気づいて「いや」と首を振る。
「私とミチエさんは面識ないのは確かだし、そもそも私は最近までミチエさんの存在すら知らなかったんだよね。どうやって脅迫するの?」
「ははは、盗人猛々しいとはこのことだな」男はひとしきり笑った後、夢と朱美を睨みつける。「出ていけ、不法侵入で訴えるぞ。そしてこの家の所有者は私だ! 勝手に他人を入れるな!」
こりゃ分が悪いのかな、また今度連絡ください、と夢はつぶやいて、手を振って家の外に出た。
男はその背に声をかける。
「遺産相続は諦めろ。辞退しないのなら、背後に気を付けることだな。まあ、玉術も使えないなら気を付けても意味はないだろうが」
「忠告ありがとう」
挑発に乗らなかったので手ごたえがあまりなく、男はわずかに悪い気分のまま家の自室へ入っていった。
朱美がため息をついて壁を向くと、鉛筆が突き立っていたはずの穴は、すべてなくなっていた。
夢の名前とか、やや違和感を持つ方がいるかもしれませんが、実は星の夢自体は少し前から誕生しておりました。それを主人公に据えただけなので微妙な感じになってます。ごめんなさい。
戎線ハロウ
まだまだ子供な男の子。性格は絵にかいたようなわんぱく少年で、誰とでもすぐ友達になれる。
実は成績が非常に優秀で、特に数学は高校生レベル。
唯一苦手なのは跳び箱で、着地時に足をひねって骨折したことが軽いトラウマ。
名前の由来は『Halo』(光輪、光の輪)。