第一話
いつだってベッドの上には彼女以外いないと思っていた。
あれは夏の蒸し暑い日だった。大学から帰って来た僕は、エアコン代の節約と本の返却のために図書館に来ていた。
図書館は非常に涼しかった。本は湿気が大敵だからか、外のねっとりとした空気と違い、べたつきのない爽やかな空間が図書館の中には作られていた。
僕は家から持ってきた本を返却すると、好きな作家の本を何冊か取って読み始めた。三十分くらい経った頃だろうか。僕の左斜め前に一人の女の子が座った。その時は丁度読んでいた本の場面が動く所だったので気にしなかったのだが、それから数十ページ読んだところで僕はふと顔を上げた。
彼女は図書館の机にうつ伏せになって寝ていた。くうくうと背中を少し上下させながら気持ちよさそうに寝ている。寝顔はこちらを向いていて、白い肌に長い睫毛、形のよい鼻と小さな顔から目を伏せていても、とても可愛らしい顔だと分かった。
そこから僕は好きな作家の本よりも彼女の方に集中が行ってしまった。主人公が窮地に立たされても、驚くような伏線が回収されても、彼女が時折見せるほんの僅かな表情の動きの方が僕の鼓動を早くした。
そしてそれから二時間ぐらいが経ってようやく彼女はその長い睫毛をゆっくりと上げた。「わ……」と僕は思わず小さな声を漏らした。彼女の瞳が深海のように美しく深い蒼だったからだ。
「…………」
目を覚ました彼女はパチパチと瞬きを繰り返して顔を正面に向けた後、ゆっくりと背を起こした。長い髪が零れる中、その隙間からちらりと見えた彼女の瞳と僕の目がピッタリとあった。
やべっ。
恥ずかしさを感じて思わず視線を本に戻す。そこからは彼女の姿を脇目でしか見ることができなかったが、眠りから覚めた少女は少し大きな伸びをすると席を立ってどこかへ行ってしまった。
僕はもうすっかり本を読む気が無くなってしまった。楽しみにしていた新刊だったのだが、中途半端な気持ちで半分以上を無駄に読んでしまった。
結局、僕は読みかけのまま、家に帰ることにした。勿論その本は他の数冊と一緒に借りたが、家に帰ってもどうせ読む気は起らないだろうなと思った。
単行本の入ったカバンを肩にかけて図書館から出ると、携帯を触ってバスを待つ彼女の姿が目に映った。彼女は白い薄手のシャツに薄緑のスカートを穿いていた。黒く長い髪が風に揺れ、彼女の周りだけが森林にできる静かで涼しい木陰のように見えた。
僕の家は図書館からバスを使うほど離れていない。だが、僕は暑いから、という理由でバスを使うことに決めた。別に誰かに聞かれる訳でもないのに、自然とそんな言い訳が頭に浮かんでいた。
バスは時刻表の時間を過ぎても中々来なかった。その間僕は周りの景色を見たり、時折ちらりと彼女の後姿を見たりした。彼女は何かをしているらしく、ずっと前を向いたまま、動きらしい動きもせずにじっと立っていた。
暫くして突然、彼女がこちらを振り返った。僕はその時イヤホンをして雲を眺めていたので、急に動いた彼女に驚き、思わず「わっ」と小さく零してしまった。
「あ、すみません」
驚かせたと思ったのか、彼女が澄んだ声で謝る。そしてそのまま手にしていたスマートフォンの画面をこちらに見せた。
「バス、遅れるみたいです」
話しかけられたことで早くなった心臓を押さえながら僕は懸命に平静を装って、画面に視線を向けた。どうやら運行中のトラブルで二時間ほど遅れているらしい。
「……あ、ありがとうございます」
画面から目を離し、彼女の方を見る。特に言葉を交わすこともなく、彼女は小さくこちらに会釈すると、スマートフォンをカバンの中に閉まってバス停を離れようとしていた。
どうする……。
僕は人生で初めて、知らない女性に声をかけるか迷った。声をかけたい理由はたくさんある。だが、声をかけてはいけない理由もたくさんある。
「あ、あの!」
僕が少し大きめでそう呼びかけると、彼女は一瞬立ち止まって、少し面倒くさそうに振り返った。
どうする……。
思わず言葉が出てしまい、緊張が全身に走る。彼女の蒼い瞳が鬱陶し気にこちらを見ている。
「あの……」
少し頬を引きつらせながら、震えた声で僕は咄嗟にこう言った。
「“運行中のトラブル”ッて。な、何だと思います?」