八
馬から下りて、青年は門番に声を掛ける。やがてセグダ家兵に呼ばれて出てきたセグダ家の第二公女は、王立学院では目にしたことのないドレス姿だった。
「邸内じゃ、私は公女でしかないから」
物珍しそうな目で見る青年に、公女はそう言うと首をすくめた。
二人は並んで歩き出す。
「呼び出してごめんなさいね。……どうしても、あなたに父の話を聞いてもらいたくて」「セグダ家当主なら、参考になる話が聞けると思う。本当にありがたいよ」
彼女にしては珍しく、歯切れ悪く、うん、と唸る。しばしの沈黙が流れ、
「あなたの論考のため、というより……私の問題なのよね」
やがて、セグダ家第二公女はそう言う。青年は目を瞬かせ、詳しく話を聞こうとしたが、既に目的地に着いてしまっていた。
公女はそれ以上何も言わず、扉を叩く。中から返事があると、青年は一人部屋へと通されたのだった。
……ようこそセグダ家へ。娘から話は聞いている。私から君にできる話は少ないが、私が見たものを、できるだけ事実に沿って話そうと思う。
だが、その前に君に承知してほしいことがある。
……セグダ家は、聖家の中でプリア家に次いで有力な家だと言われているのは、君もよく知っていると思う。まあ、間違ってはいない。私達の領地は広く、民の生活も安定している。息子達の大聖堂内における地位もまずまずだ。だが、それでもやはり往年のプリア家には遠く及ばない。私が先代からこの家を継いでからそれはずっと変わらない。特に〈ポーテ・ジュールの反乱〉前後には――つまりプリア家の最盛期だが――大聖堂内において、私はずっとプリア家の顔色を伺いながら保身に注力していた。
君に言うのも気恥ずかしいが、君もよく知っている通り、娘は保身に走らず、正しいことを行える強い人間だ。だが私は違う。
――そう、私はとても矮小で、愚昧な人間だ。だが今夜だけは、恥を捨てて君に話そうと思う。明日になれば、いつも通りに戻るんだろうがね。……どうかそれを承知の上で聞いてほしい。
君の父君に初めて会ったのは、彼が陛下――当時は殿下か――に侍従として仕え始めて間もない頃だ。私はその頃、王立学院で哲学を学んでいる学士だった。そして当時、陛下はお付きの教授の授業とは別に、王立学院に来られ、私達と一緒に教授の授業を受けることがあった。シニョール・テルセはそれに随伴し、共に講堂で座っていたんだ。学士の多くは、彼の存在を疎んじていたように思える。王立学院の高尚な講義の場に、学士でもない、王族でもない者が現れたことが不快だったわけじゃないだろう。恐らく、君も察しているかと思うが、多くの学士はツィースという存在そのものに漠然とした不快感を持っていた。〈教化〉以前には王都でもツィースをよく見ていてね。当時、ツィースは、彼らの縄張りである砂漠を経由して遠い土地の布や煙草を王都内に流通させていた。彼らと取引をする聖家の中には、異教徒が貴重な品々を独占的に取り扱っているのを良く思わない者もあった。そして信心深い者にとっては、聖なる書に従わぬ彼ら異教徒が王都内を闊歩し、富を手にしているのが不愉快だった。特にそういった当主を持つ家の者は、ツィースというだけで白い眼を向け、心無い言葉を投げかける者も多かった。
私の家は俗世での商売もほとんどしていなかったからか、私自身はあまりそういった感情は持っていなかったと思う。とは言え、彼を庇ったところで他家の者といざこざを起こすことになるだけだろうから、彼への嫌がらせを見て見ぬふりをしていた。
君を前にこんなことを言って申し訳ない限りだが、できるだけ事実に沿って話を続けたいと思う。
……そんな者に囲まれながらも、シニョール・テルセは冷静に義務を果たしていた。私は援護こそしないものの、その姿に関心していた。多くの学士は、講義に現れた彼を直接攻撃することはなかった。隣にはシニョール・テルセの友人である王太子陛下がいらっしゃったからね。その代わりに、王太子に誰がやったのか特定できないよう、シニョールに嫌がらせをする者があった。
ある学士は、陛下が席を外した隙に、シニョールに低俗な市井の書き物を渡していた。そこにはツィースが野蛮人として、通りかかる女すべてにさかっているというような描写があった。また別の学士は、彼にツィースの文化がいかに野蛮で単純なのかを主張する論考を渡していた。しかしそういった嫌がらせは、すぐに行われなくなった。シニョールは、そういったものを全て関心なさげに受け取り、中を読んでもなんの反応も示さなかったからだ。ペラペラとめくりながら、呆れたように鼻を鳴らすだけ。そういった嫌がらせは、相手の反応を楽しむ行為だ。その相手が関心を全く示さないのでは面白くない。次第に学士はそういった嫌がらせをしなくなった。
……その代わりに起きたのが、身体的な暴力だ。学士として在籍する聖家のほとんどは武術が不得手な一方、シニョールは当代随一の剣士と名高く、大聖堂内の剣術大会では常に優勝していた。もっとも、そういった目立った姿を、聖家の若者が疎ましく思っていたのは間違いない。とりわけ、シニョール・テルセが現れるまでは剣術で名を馳せていたプリア家の第一公子は、彼のことをたいそう憎んでいた。そして不運なことに、その弟が当時、王立学院に在籍していた。
そのプリア家公子は武術がてんでダメだったが、なにせ相手は皆に嫌われるツィースだ。卑怯な手で襲っても非難されないと見込んだのだろう、ある日学院の人気のない廊下でシニョールに後ろから殴り掛かった。
……なぜそれを知っているのか? それはもちろん、私がその場に偶然居合わせたからだ。その時私は一人で静かに考え事をする際、学院の南側の廊下の端に行くのが習慣になっていた。君も行ったことがあるかな? あそこは日当たりもいいし、さきほども言った通り、ほとんど人が通らない。大聖堂に行くのとは反対側の廊下だからだ。
私は今の君と同じ、論考の執筆中で、考えを整理しようといつもの場所に向かった。すると丁度角を曲がった瞬間、廊下の奥でシニョールが後頭部を殴られ倒れたところを目撃した。
したたかに殴られたシニョールは、うめき声さえも上げられずに蹲っていた。その後ろからプリア家の公子が馬乗りになって彼を殴り始めたものだから、私は足が竦んで動けなくなってしまった。しかし公子が容赦なく彼を打ち据えているのを見て、このままでは死んでしまうのではないかと心配になった。先ほども言ったが、私自身にはツィースへの嫌悪感はないから、いくら何でも殺されるところを見るのは忍びなかったんだ。
「シニョール・プリア」
私は公子に呼びかけた。すると夢中になってシニョール・テルセを殴っていた公子は、手を止めてこちらを見上げてきた。
「……そこまでにしておいたらどうです」
ぐったりしたツィースを見下ろし、公子は冷ややかに笑う。
「人語もろくに話せない山羊の味方をするのか?」
私は咄嗟に言い返すことができなかった。彼も人間だとか、彼は立派に王国の言葉を話しますよと言い返せたら良かったのだが……それにもし、プリア家に楯突いたら、それはもう私個人ではなく、セグダ家の問題に発展してしまう。それが何より恐ろしかった。
「……ツィースごときで、あなたのお手を汚すこともないでしょう。彼のことは私に任せて、どうぞお立ち去りください」
代わりに、そう言って彼を追い払った。プリア第三公子は一緒に暴力を加えていた下男を引き連れ、ふんぞり返って立ち去ったよ。私はその姿に苦笑せざるをえなかった。
私は近くの井戸で持ち歩いている晒しを濡らすと、気絶しているシニョールの傷口を拭った。シニョールは痛んだのか、ようやくうめき声をあげてこちらを見た。
「……大丈夫ですか」
視線が合ったから、仕方なく私はそう尋ねた。ツィースに情けを掛けているところを見られてしまうと、他の聖家に一体何を言われることやら。当時の私は、そう心配していたんだ。だから無駄な会話はせずに早めに切り上げてしまいたかった。
そんな気持ちを察したのだろう、シニョールは首を振り、ありがとうございます、とだけ言うとそれきり口を利かなかった。私の性根を見透かされて、随分居心地が悪かったのを覚えている。だから傷を軽く拭っただけで、早々に立ち去ることにした。私は彼に陛下を呼んでくると伝えた。
「いや、殿下は呼ばなくて結構です」
彼はそう断ると、少し休憩してから帰ります、とだけ付け足し、その目を閉じた。その場をすぐに立ち去りたかった私は、彼が目を閉じるやいなや、足早にその場を立ち去り、大聖堂に向かった。
シニョールには断られてしまったが、またプリア家が戻ってきて暴行されても寝覚めが悪い。そこで大聖堂で待機している陛下専用の伝令兵経由で、彼が怪我をしているから迎えに行っていただきたいとだけ伝えた。
そしてその日以来、シニョールが陛下に同行して王立学院を訪れることはなくなった。
何十年と経った今でも、この時のことを鮮明に思い出す。きっと私の中で引っ掛かって来た記憶なのだろう。
そして同じように、君の母君に関しても、引っ掛かる記憶がある。もし、まだ君が私の話に付き合ってくれるのであれば、もう少し話したいと思うのだが……ありがとう。
次の話は、君の父君への暴行からずっと後の話だ。
〈聖戦〉終結後にシニョール・テルセが夫人を連れて戻ってきてから最初に開かれた園遊会で、シニョーラが初めて紹介されることになった。シニョールは初め拒否していた。御前会議でその園遊会の話になるたびに、彼はシニョーラの心労を慮り、もう少し落ち着くまで待ってほしいと各聖家に頼み込んでいた。それもそうだろう、フロウは森の奥深くに住んでいて、実際に会ったことのある者はほんの一握り、しかも王都からほとんど出ない聖家にとっては物珍しい相手だ。園遊会に出れば、好奇の目に晒されることになる。中には心無い言葉を掛ける者もいるだろう。
シニョール・テルセは夫人の負担を本当に心配していた。出席御前会議の前にわざわざセグダ家へ足を運び、シニョールに賛同するよう依頼してきたくらいだ。事前の訪問の際、私は彼の要請を承諾した。実際、御前会議でも彼の主張を助けた。他の聖家もそれに同調していたが、それでも頑なに拒んだのがプリア家だった。
「シニョール・テルセはご存じないかもしれませんが」
プリア家はそう強調すると、園遊会で夫人を皆に披露するのは王国において慣例となっており、例外はないと主張した。
「もっともこれまで異教徒の例はありませんがね」
プリア家が皮肉たっぷりにそう言ってしまえば、もうそれ以上私は反対意見を述べられるはずもない。シニョール・テルセはこちらを縋るように見ていたが、私はそれ以降彼を助けようともせずに黙りこくっているしかなかった。
陛下は彼の味方だったが、こう言っては何だが、園遊会という些末なことでプリア家と対立するのも馬鹿らしいと判断したのだろう。それで結局シニョール・テルセの機嫌を取るかのように、園遊会へのシニョーラの参加を依頼した。
「彼女だって、この国での友人を作る機会を持ったっていいじゃないか」
その言葉に、珍しくシニョールは腹を立てた様子だった。普段は余分なことを一切話さないのにも関わらず、
「友人だと? 彼女を対等に見る者がどれくらいいるか知りたいものだ」
そう小さく呟いていたのを聞いたほどだ。その言葉に陛下はバツの悪そうな顔をしたが、プリア家の手前何も言えずに次の議題へ移ってしまった。
――結局、シニョーラ・テルセはその次の園遊会に出ることになってしまった。当日、その場に慣れない緊張したシニョーラの面持ちに、私はシニョールの気持ちを痛いほど理解した。
シニョーラのその日の姿は、今でも鮮明に記憶に残っている。確かあの日園遊会に同席した絵描きが、その姿を残していたはずだ。君も気になるのであれば、一度見てみるといい。彼女は銀の髪をゆったりと結い上げて、白い小さな花を編みこんでいた。片耳に大輪のバラを挿し、艶やかな花弁はとても切り落とされたもののようには見えない。そして衣装は深い緑の生地に銀の糸でバラの花が刺繍されていた。後で聞いた話だと、フロウはそれぞれ出生時に自身の象徴とする草花を割り当てられるそうで、シニョーラは緑の花弁を持つバラがそれだったらしい。生地の色こそ大人びていたが、袖は惜しみなく布を用いて大きく膨らみを持たせ、愛らしい印象を与えた。シニョーラの顔には化粧気がなかったが、その唇には薄く紅を差し、色白な肌を際立たせていた。公子は皆、彼女に見とれていたよ。普段「森の猿」とフロウを揶揄していたような連中まで、彼女の魅力に鼻の下を伸ばしている始末でね。私の隣に座っていた妻が呆れていたよ。
「普段高尚な言葉を口にしているわりには、本能に忠実な僕ですこと」
わざと周囲に聞こえるよう皮肉るものだから、随分慌てたものだ。何せ鼻息荒くシニョーラを見ている者には、プリア家の飼い犬もいたからな。
当時のプリア家は本当に幅を利かせていて、園遊会という聖家のみに開かれているはずの催しにも自分達が使うごろつきを連れてきていた。かつてセクト家がプリア家と対立した際に雇い入れた、ならず者だ。奴らがセクト家に押し入り、財産を巻き上げた挙句に公子公女を再起不能なまでに痛めつけた話は大聖堂に知れ渡っていた。しかも彼ら自身、ポーテ・ジュールの商会とつながっていて、場合によっては各聖家の俗世での取引も潰されかねなかった。プリア家は、奴らを聖家の集まりに連れてきては、私兵団員でも何でもない――彼らを私兵団に引き入れては、さすがにプリア家の名に傷がつくと判断したのだろう――彼らの関係を知らしめていたというわけだ。
シニョーラ・テルセはそんな周囲からの視線に晒されながら、その夫の裾をつまんで耐えていた。シニョールもその様子を哀れに思ったのか、深紅のローブを脱ぐと、まるで彼女を隠すようにその細い肩に掛けていたな。
しかしシニョールがどうしてもシニョーラから離れなければならない時が出てきてしまった。シニョーラ・テルセはしばらく大人しく座っていたものの、飲み物を持って回っていた下女に何か言われると、急に立ち上がって会場から出て行ってしまった。会場の隅でその様子を見ていた私は、嫌な予感がした。だが恥ずかしいことに、しばらくは見て見ぬふりをすることにした。その時、私と妻の間には第一公女が生まれたばかりで、変ないざこざに巻き込まれたくなかったのだ。ところが妻もシニョーラ・テルセが去っていったのを見ていて、彼女の様子を見てきてほしいと頼まれてしまった。
後を追ってみると、ちょうど他の人たちから見えないところで、プリア家お雇いのごろつきがシニョーラに迫っているところだった。
ごろつきからもシニョーラからも見えづらいところに立っている私に、どちらも気が付いている様子はなかった。ごろつきはシニョーラを取り囲み、何とか外に連れ出そうとしている。シニョーラは伸びてくる手を必死に躱しながら、震える声で拒否の言葉を言い続けていた。
……まるで言い訳のように聞こえることは理解しているが、その時私は止めに入ろうとした。ところが、どうしてもセクト家の話を思い出して足を止めてしまった。――今彼女を助けたことで、私の子どもに何かあったら。そう思うと、動けなかった。
私が逡巡している前でも、シニョーラ・テルセはどんどん追い詰められていた。
「シニョーラ、なに高潔なこと言ってるんです?」
しまいには、ごろつきの一人がそう叫ぶのを聞いた。シニョーラは身を強張らせ、彼の方を見る。
「フロウは夫でもない男とも寝るんでしょう? いまさら、一人や二人増えたって」
――「森の猿」と蔑む者の中には、フロウの風習を知らないにも関わらず、そういう根も葉もないことを主張する者がいた。だがまさか、それを信じ、あまつさえ本人にそんなことを言う者があろうとは。私があ然としている前で、シニョーラは何か言い返そうとし、口を開閉させていた。
その時のことだ。
「何をしているんです?」
冷ややかな声で、あのトゥーラン・スエルト副官――当時だが――が私の横から声を上げた。
いつの間にか隣に居たシニョール・トゥーランは、明らかに下卑た行為をしていた男達に蔑みの目を向け、言い放った。
「シニョーラ・テルセは園遊会に出席されている方ですよ」
そして大股で近づくと、シニョーラをその背に庇うように引っ張ってくる。
プリア家のごろつきは、こちらを呆然と見ていたが、やがて先ほど下品な言葉を口にした奴が歯ぎしりする。
「誰に向かって口きいてんだ、娼婦の子のくせして」
シニョール・トゥーランは平然と答える。
「こっちは仕事なんでね。それと、俺の出自がこの場で重要なことですか? ねえ、シニョール・セグダ」
そこで初めて私の方を見たシニョール・トゥーランの目には、ごろつきに向けた苛立ちを同じものが浮かんでいた。
そう、私はシニョーラを庇うこともせず、傍観して場をやり過ごそうとしていた。彼女に直接酷い言葉を掛けたわけではないが、止めようともしない。私はプリア家の飼い犬を黙認しようとしていた。フロウへの差別に加担していたのも同然だ。私の怯懦を見透かすシニョール・トゥーランの視線に、恥ずかしくなって顔を伏せた。
シニョール・トゥーランに呼ばれ、シニョーラ・テルセは小さくすすり泣く声を上げてこちらにやって来た。それに対して、シニョール・トゥーランはぶっきらぼうに言っていた。
「何を泣くことがあるんです。あなたは胸を張って、堂々としていればいいんですよ」
そして手に持っていた深紅のローブをシニョーラに掛け、落としてますよ、と相変わらず素っ気なく言いながらも、ローブ越しに彼女を慰めるように優しく肩を叩いていた。
――もっと優しく言ってやればいいのに、と私は思った。だが声も上げられない私にはそんな資格もないだろう。
その場に黙って立ちつくす私は、ごろつきの悪態と、シニョール・トゥーランの慰める声を聞きながら立ち尽くしていた。
私の腑抜け具合や愚かさを語るようで、本当に恥ずかしい限りだ。あれから何度かシニョーラにお会いしたというのに、ついぞ謝れないまま、ここまで来てしまった。
私は確かに、君のご両親に対して差別するようなことはしなかった。だが、周りの者を諫めることはせず、彼らを貶める言動を看過していた。私は結局のところ、他の王国の者と同罪だと認めざるを得ない。
今夜君に話したことは、今でも苦い思い出として私の胸に沈んでいる。娘から君の論考について聞いた時、ひょっとしたら君に話すことで気も軽くなるのではないかと思った。その期待から、娘に頼んで君を呼んだのだが……見込み違いだな。私の罪は、いくら語れど消えることはない。きっと死ぬまで持ち続けねばならぬものなのだろう。
さあ、話過ぎたら夜が明けてしまう。今夜は来てくれてありがとう。……こんな話を聞かせてしまったが、娘とは今後も仲良くしてほしい。
セグダ家当主の書斎を出ると、目の前に第二公女が毛布にくるまりうつらうつらとしていた。そっと声を掛けると、目をしばたかせながら立ち上がる。
「待っていなくても良かったのに」
眠そうに目をこすっているのを見て、思わず笑みを含みながらそう言う。同期はこちらを盗み見るようにしながら、ごめんね、と小さく呟いた。
「何で謝るんだ? むしろ僕が感謝しないと」
「……父はあなたの両親を貶める行為に加担していたんでしょう」
傍観は加担しているも同然だ、と女学士はきっぱり言う。そして途端に肩を落とすと、青年を見ながら、見損なった? と口にする。その落差に青年は思わず苦笑した。
「君の父上と君は全く別人格だ。例え君の父上が加担していたところで、それは君とは関係のないことだ。それに……君の父上は、偏見が蔓延る大聖堂内で、僕の両親の味方であってくれた。僕の洗礼式にも立ち会ってくれるくらいにはね」
――だからそんなに落ち込まないで。僕は君の父上を責めるつもりは全くないんだから。
青年はそう言う。ほっとした顔の同期に、
「論考、楽しみにしていて」
と軽口を叩けば、ようやく見知った同期の顔に戻った。
やがて二人は、長い廊下をゆっくりと歩き出す。廊下の窓からは、青い月光が差し込んでいた。
両親を弔った次の夜は、よく眠れなかった。中庭にあった炭は既に片づけていたが、寝台を抜け出したテルセ家の少年はひきつけられるようにそこへ向かおうとしていた。すると、窓の外に後見人が表の庭にある井戸の傍に立っているのを見た。
後見人はいつも顔に浮かべている皮肉気な笑みさえも掻き消し、わずかに苦痛を感じている様子で髪を梳いていた。少年は目を細め、その景色に目を凝らす。後見人の髪は黒いはずだ。それなのに、月光の下、梳るそれは青い光を吸い込んで銀色に輝いていた。
見慣れぬ後見人の姿に、声もなく立ち尽くす。いつも傍で皮肉を言っているトゥーラン・スエルト聖騎士団長が、遠くの存在に感じたのだ。置き去りにされた子どものような気持ちになり、不安が胸中を支配する。
少年は、耐えきれずにその場を逃げ出した。そして寝台に潜り込み、無理やりに目を閉じる。少しでも眠れば朝が来る。そして朝食を食べに行けば、黒髪の後見人がいつも通りの顔でパンを頬張っているはずだ。いや、そうでなければならない。
翌朝、少年の思い描いたように、後見人はパンを頬張っていた。もちろん、その髪は真っ黒だった。