七
その夜、後見人が寝室に戻ったのを見計らって青年は一人大聖堂に足を運んだ。昼間副指導教官に渡された札を門番に見せると、名も問われずに通路を示される。かつてこの施設が真に祈りの場だった頃には主祭壇の置かれていた広間を横切り、細い通路を通って奥の間に入る。そしてやはり、かつては祭具室として使われていた長方形の部屋が目前に広がる。もとは殺風景な部屋だったと思われるが、その部屋の主が一国を統べるようになってから様々な装飾が施されるようになった。長方形の部屋の天井に描かれる星空の中では、フロウによく似た銀髪の妖精が微笑んでいる。
その部屋の中央にあるのが玉座で、今夜青年が話を聞く人物はその傍に立っていた。冷たい空気に頬を赤らめ、暗闇で息を潜めている。
「陛下」
青年が声を掛けて跪くと、聖王は慌てた様子で立ってくれ、と声を上げた。
「人払いしているから、君を不敬だと謗る者もいない。楽にしなさい」
ためらったが、その必死な声に負けて立ち上がる。聖王は青年からやや視線を外しながら言葉を続けた。
「君には合わせる顔がない。……君の後見人も、この三年間頑なに君を大聖堂に連れてくるのを拒んでいた。僕が君の父君を殺したようなものだからね。今夜もひょっとしたら来ないかもしれないと思っていた」
「あの人には、今夜のことを話していません」
聖王はその言葉で、やっと青年に顔を向ける。
「確かに彼は僕の後見人ですが、僕はもう子どもじゃありません」
聖王はその言葉に、ようやく微笑んで見せた。
「随分逞しくなった。……覚えているかな、昔君の父君が君を連れて裏庭に来たことを」
大聖堂の〈裏庭〉とはすなわち、聖王の私邸を指す。
「君はまだ喋れない小さな子どもで、父君からぴったり引っ付いて離れようとしなかった。君の父君は口では困ったと言っていたけれど、随分嬉しそうにしていた……君のことを、とても愛らしく思ってたんだろうね」
聖王は呟くようにそう言うと、玉座に腰かける。がらんどうな祭具室には、真夜中の静寂だけがあった。青年はその足元に座ると、ぎゅっと手を握り締める。
「あなたと父の話を聞きにきました」
……妻に君の父君について話すよう頼まれたものの、何を話そうか迷っていたんだ。彼とは長い付き合いだったから、話すことは沢山ある。だけど君に聞かせるのに最もふさわしいものを考えていたら、最終的には彼が僕に、二度だけ見せた涙について伝えるべきだと思った。――今、驚いた顔をしたね。そう、僕が彼の涙を見たのは、前にも後にもその二度だけだ。彼はそれを弱みだと考えていたのではないかな。そして、僕や君に見せたくないと思っていたんだろうね。
僕が彼と初めて会ったのは、〈教化〉が行われた最初の年だから、今から三十年以上前になる。怖いもの知らずだった僕は、下僕が止めるのも聞かずにツィースの死体を埋める穴が掘られていた場所まで行った。すると目の前に広がるのは見るも無残な遺体ばかり。しかも異臭が鼻についた。それまで大聖堂の中に閉じ込められていた僕にはあまりに強烈な景色で、めまいを感じてしゃがみ込もうとしたら、その拍子に足元の何かを蹴飛ばしてしまった。すると微かにうめき声が聞こえた――それが君の父君との出会いだ。
彼はその時、とても衰弱していた。ただ幸運だったのは、すでに死に瀕していたからそれ以上酷い目に遭わされなかったことだ。殴られても蹴られても反応が薄いから放っておかれていたんだろう。酷い話だ。最も――だからこそ、僕が彼を蹴飛ばしてしまった時にも息をしていたんだけれど。
偶然に重なった偶然が、幼い僕の全くの気まぐれだ。僕は目の前の情景に衝撃を受けていて、足元で息をする彼が奇跡のように思えた。僕はとにかく善行によって救われたかった。そこで僕はおためごかしに彼を救い、侍従にすることにした。
最初僕の父……アンガル王は躊躇っていたけれど、晩年にようやっとできた溺愛の息子が言うことだ、すぐに彼を侍従にすることを認めた。プリア家かい? 彼らはプリア公子を僕の侍従にしたがっていたから、当然反対していたよ。だけど僕は全て無視して、彼を自分の部屋に入れ、彼が回復するまで面倒を看ることにした。
――やがて回復した彼は、はじめ王国の言葉を全く解さなかった。そんな人に初めて会った僕は、すっかり得意になってこの国の言葉を教えていたよ。彼は元々物静かな性格だったんだろうか、僕の話に耳を傾けて、あの灰色の瞳は波一つ立てずに傍にいた。当時の彼は、僕が何を言っているのかさっぱり分からなかったと思う。だから僕の話をひたすら黙って聞いていたんだろう。だけど僕は幼い頃から心にもない言葉を捲し立てる人達に囲まれていたから、そうやって何も言わずに傍にいてくれる彼をすっかり気に入ってしまった。彼を自室の脇の小部屋に住まわせて、朝から晩までずっと傍に置いていた。
彼は基本的に僕の傍から離れなかった――今思い返すと、あれは彼の生存本能だったかもしれない、大聖堂内でツィースは毛嫌いされていたから――けれど、たまに夜中、こっそり部屋を抜け出すことがあった。僕が気づいていない時もあっただろうね。初めて気が付いた日から、何度か彼に尋ねてみたけれど、彼にはあまり質問を理解してもらえなかった。その頃には、彼は目の前で起きていることを説明する分には何とか理解できるようになっていた。だけど、過去のことを話すのは彼にはまだ難しかったようで、僕の質問に彼は首をかしげるだけだった。そこでどうしても好奇心が抑えきれなくて、彼が寝台を抜け出したある夜、こっそり後をつけたことがある。
彼の自室には庭園に面する窓があって、彼はそこから抜け出していた。庭園には――君も見たことがあるだろうか、今でも立っているのだけれど、奥の方に真っすぐ立つ高木があるんだ。僕がこっそり後をつけていくと、彼はその木の陰に座り、低い声で何かを歌っていた。王国では耳慣れない旋律で、暗い印象だったよ。きっと彼の故郷の歌だろうと、僕は聞き耳を立てて歌詞を聞き取ろうとした。彼が何度も繰り返すのを聞いていたのだけれど、途中で気が付いたのには、どうやら彼は音の響きを真似しているだけのようだった。つまり……その時にはもう、彼の中からツィースの言葉は失われていたようだった。
旋律を思い出すように口ずさんでいた彼は、やがて諦めたようにうなだれた。その額をなでるのは綺麗な朝日で、それが余計に彼の悲しい姿を鮮明にさせた。僕は声を掛けられないまま、彼に気づかれる前に寝台へ戻るしかなかった。
僕が後をつけた頃を最後に、どうやら彼は寝台を抜け出すのをやめたようだった。代わりに、僕が発する言葉を真似するようになった。マエストロについて勉強している間も、横でじっと耳を傾けて、僕が書物を音読するのを小さな声で真似もしていたな。そうしていたら、ある日マエストロが彼の方を向いてこっそり手招きした。僕の方を見て、内緒ですよ、とにっこり笑うと君の父君に王国の言葉を教え始めた。時折僕の知らない言葉で説明を加えると、君の父君は故郷の言葉の響きに、何となく理解が深まる様子だった。
後になってマエストロが教えてくれたことなのだが、当時僕に古典学を教授していたマエストロは、その昔、どこかの教会で神父として所属していた時に、ツィースを相手に神の教えを説いたことがあったらしい。(もっとも、改宗はしてもらえなかったけどね、とマエストロは照れたように言っていた。)その時、異民族と意思疎通を図るために、マエストロは彼らの言葉で聖なる書の内容を語る必要があることに気が付いた。そこでツィースの言葉を研究して、体系的に整理していたんだ。彼はツィースの言葉を流暢に話せたし、その風俗にも詳しかった。それと同時に、彼は王国の言葉を教えるのにも秀でていた。というのも、ツィースは子ども達に王国の言葉を教えたがっていたらしい。ツィースと王国の北の地方との間では、交易が盛んで、ツィースにとっては取引に王国の言葉が欠かせなかったそうだ。
僕の周りの大人は皆ツィースを疎んでいたから、僕にとっては驚きの事実だった。そう伝えると、マエストロは小さく笑んでこう言った。
「シニョールが思っているよりも、この世界は広いんですよ」
とにかくツィースのことをよく知っていたマエストロだったが、彼が王都に来た時の大聖堂内ではもう、ツィースの迫害が厳しくなっていた。特にプリア家やアンガル王の言動にいずれ自分の身も危うくなると感じて、ツィースとの過去を一切秘匿していたらしい。
だけど君の父君が僕の侍従として仕え、僕の彼の扱いを見て、過去を話しても大丈夫だと判断してくれたそうだ。
「私自身にはツィースへの嫌悪はないのです。だが周りがツィースへ向ける嫌悪が私に向けられるのが、怖くて仕方がありません」
マエストロはそう吐露すると、苦々しい笑みを見せた。そして、それから三人きりの時にだけ、君の父君に王国の言葉を教えるようになった。
……彼のおかげで、君の父君は何とか王国の言葉を会得することができたんだと思う。
そうやって間もなく王国の言葉を覚えた彼だったけれど、結局訛りはどうしても治らなかった。それでも十分意思の疎通は取れたし、マエストロとも雑談を交わせるまでに上達した。
彼が王国にすっかり馴染んだと、僕は勝手にそう喜んでいた。父や聖家、特にプリア家は相変わらず彼に嫌悪を隠さずにいたけれど、彼は今や王国の言葉を話し、王国風の生活をしている。違うのはその見た目くらいだ。……そんなふうに思っていた。
だけどある日、マエストロの授業内容が父に知られてしまった。父は激怒して、はじめマエストロを殺すと言い出したんだ。ツィースを庇いだてする者は反逆者だと父は言った。国の基盤を揺るがすものは、何一つ許せないのだと。だが僕が父の言葉の過激さに驚いて、周りの目も憚らず大声で泣き喚いた。すると途端に父は幼い息子の涙が哀れに思えたのか、マエストロを大聖堂から追放するに留めたんだ。
君なら、この話の滑稽さが理解できると思う。結局のところ、父の中にはツィースへの理論的な怒りなんてなかったんだ。息子の涙だけであっさり主義主張を覆すのだから。アンガル王もプリア家も、ツィースを虐げるのにいつも難しい言葉を並べていたけれど、見掛け倒しの理論でしかなかった。
こうして、君の父君はツィースとのか細いつながりを失い、再び一人になってしまった。
彼は何も言わなかったけれど、寂しさに耐えられなかったんだろうと思う。だからだろうか、帯剣の儀を迎える年になって、彼は〈大祭具室〉からツィースの剣を持ち出したいと言い出した。ツィースの武器は彼らを制圧した際にほとんど処分されてしまったのだけれど、中には精巧な作りに「芸術的価値」ってのを見出されて、王家の宝物庫である〈大祭具室〉に収蔵されたものもあった。彼が求めた剣もその一つだ。
僕は君の父君の望みを聞いた時、正直に言うと不安だった。彼もまた、マエストロと同じように殺すと言われるのではないだろうか、と。彼にとって帯剣の儀とは単に成人を迎える儀式ではない。王国の一員として、王国の枠組みに迎え入れられることでもあったんだ。それなのに、そんな行事にわざわざツィースの剣を持ち出したら、かえって父やプリア家の神経を逆なですることになる。色々工面してやったのに、なんて怒りも沸いていた。
当時僕は本当に愚かで、鈍感な奴だった。あんなに必死に馴染もうとしていた彼が、あの時ツィースの剣を所望した理由を深く考えられなかったんだから。つまるところ、僕は父やプリア家とさして変わらない考えを持っていたわけだ。
結局のところ、僕は彼の痛みを理解できなかった……いや、理解しようとしなかったんだ。
彼は僕にとって、唯一無二の友人だった。さっきも言った通り、彼は僕におべっかを使ったり、媚びたりは決してしなかった。ツィースを虐殺した父を恨んでいたに違いないけれど、僕に対してはそういった言葉を向けることもなかったし、僕を嫌悪することもなかった。僕はそれにすっかり甘えて、彼を気遣うこともしなかったのを今でも後悔している。僕と彼は、そもそも対等な立場になかったのだから、友人として接するなら、もっと彼のことを考えるべきだったんだ。彼はいつアンガル王の気が変わって殺されてもおかしくなかったし、のんきな僕の知らないところで沢山の人に蔑まれていた。僕はその事実に蓋をして、都合のいいところだけを取り出して友人のように扱った。彼への差別は、周りの人のあらゆる言動に染みついていたのに、それに気づかないふりをしていた。そんな愚かな僕は、〈ポーテ・ジュールの反乱〉で大事な友を失ってしまった。
……話を戻そうか。
ツィースの剣は難しいけれど、その代わりに帯剣の儀の前に旅に出よう、と僕は提案した。成人を迎えれば、僕は次期国王として大聖堂に閉じ込められる。その前に大聖堂の外の世界を見たい、と友を説得した。君の父君は不満そうだったが、それでも僕の折衷案――実際はちっとも「折衷」ではなかったけれど――を受け入れた。
僕の提案は、ツィースの故郷への旅だった。
王国の北端に近づくにつれ、彼は緊張で顔を強張らせていた。一方で、僕はツィースなんているわけないのに、どうしてそんなに緊張するのかと不思議だった。〈教化〉や大遠征で、ツィースは殲滅された。つまりツィースの継承者なんているはずがないだろう、ってね。
ところが北の町、ノエテに着くと、なんと宿のすぐ近くの教会で、ツィースが守衛をしているという。これはよく考えれば当たり前のことだ。いくらアンガル王がツィースを滅ぼしたとは言え、そこに属していた人達すべてを殺せたわけではない。現に君の父君も殺されずにいた。当時、ツィースという民族は体を成していないにせよ、かつてその民族に属していた人はバラバラに生き残っていた。君の父君は同族の生存者の情報を聞いて、珍しく興奮を顔に浮かべていたよ。
そして案の定、彼はその守衛に会いたいと言い出した。僕はできれば会って欲しくなかったけれど――友達を取られた気分だった――同時に彼の望みをかなえてやりたいとも思った。そこで町の人に聞いて、仕事の終わる頃に町はずれの教会に行ってみることにした。
夕方、僕は彼と教会に向かった。その町の教会は随分と小さく、司教も大聖堂の勢力図からはみ出した好々爺という印象だった。聖職者には珍しく僕の顔も知らなかったようで、僕のことを「王都から来た坊や」と呼んだのを覚えている(隣では、君の父君が「坊やなんて愛らしいもんでもないだろ」って顔をしていたな)。雑談混じりに守衛のツィースを訪ねたのだと伝えると、その司教はかの守衛は砂漠生まれにしては真面目だと言って喜んでいた。そして、
「彼なら、もうじきあそこから出てきますよ」
と司教が教えてくれたところで、厩舎から話題に挙がっていたツィースが出てきた。
その教会の守衛は、君の父君と同じ肌の色をしていた。精悍な顔立ちが印象的で、怜悧な目は剣のような鋭さを持っている。
司教が声を掛けると、その人は少し面倒そうな顔をしてこちらに寄って来た。僕はちらりと横を見た。君の父君はいたって冷静そうだったよ。ただいつもより落ち着かない様子で、後ろ手に組んでいた手を何度も入れ替えて、俯きがちに立っていた。
「わざわざお前を訪ねてきたそうだ」
司教がそう言うと、相手はあからさまに顔をしかめた。それはまるで僕らが悪者のような態度で、何が悪いのか分からない僕は戸惑った。一方、普段相手の機微を敏感に察知していた君の父君はぼんやりとした顔で立っていたよ。それまで、あんなにそわそわしていたというのに、だ。自分と同じ色の肌と瞳を持つ人が剣呑な目つきで立っているのに対して、いつもはよく回る頭もどうすれば良いのか分からない様子だった。
すると突然、相手のツィースが何かを喋った。何を言っているのか分からなくて、僕と父君は顔を見合わせた。守衛はこちらの様子を見ながら――いや、君の父上の様子を見ながら、また何かを話した。だが、心地よいリズムのその言葉は耳を滑り落ちていって、何を言っているのかさっぱり分からない。
何も反応できずに、僕達の間に沈黙が落ちる。そしてやがて、守衛はあの冷たい表情のままため息をついた。
「口がない者はツィースではない」
――口とはすなわち、ツィースの言葉のことを指すんだろう。つまりツィースの言葉を忘れてしまった君の父君は、彼にとっては同族ではなかったと言いたかったらしい。
僕達は何も言えなかった。守衛はそんな僕達を気にもせず、馬の轡を引いてその場を去っていく。その背を見送りながら、僕はどうしても隣に目をやることができなかった。見たら僕の知らない彼の姿を見てしまう気がした。そしてそれを見たら最後、彼は僕の前からいなくなってしまう気がしていた。
ツィースの生き残りと出会い、そして拒否された夜、僕らはその町の古い宿に泊まった。身を刺す寒さに真夜中目を覚ました僕は、隣の寝台が空なのに気が付いた。夕方、彼が僕の元を去る想像をしたせいで、かなり不安になったのを覚えている。慌てて外に出てみると、その宿の中庭に彼の影を見つけた。そこには枯渇した井戸が朽ちていて、彼はその中をじっと覗き込んでいる。やがて肩で息を吸うと、井戸から顔を上げてその場に座り込んだ。
しばらくした後、彼は一度だけ、昔僕が盗み聞いたあの歌を口ずさんだ。それから――僕の見間違えでなければ――青い月光に照らされながら、一筋涙を流した。
見てはいけないものを見てしまった僕は、慌てて部屋に戻り頭から毛布を被った。
これが一度目に見た彼の涙だ。この時彼の涙を見てしまったことは、彼自身にも話していない。
恥ずかしいことに、僕はそれまで父の罪は己と関係ないと考えていた。僕自身は、君の父君を含め、誰にも酷いことはしていないと。確かに僕は何もしていないかもしれない。だが、父の非道な振舞いを看過していたし、君の父君やツィースの人々の痛みに気づこうとしない鈍感な奴だった。そしてこの王国に家族を殺された君の父君を、この国の中枢たる大聖堂に縛り付けていた。
僕は甘やかされ、他者の痛みに鈍感だった。いつも冷静な君の父君が隠していた涙を目にして、そのことに初めて気が付いた。大聖堂に戻る中、僕はどうやって罪を償おうかと考えた。彼が欲しがっていたツィースの剣を父に所望しようと思ったけれど、僕には要求する勇気がなかった。父はツィースに得体のしれない嫌悪感を持っていて、僕がそんなことを頼めば君の父君に影響されたのだと言い出すかもしれない……ひょっとしたら、彼を殺されてしまうかも。一方、ノエテの夜以来、彼は泣きもせず、夜中に寝台を抜け出すこともなく、淡々と日々を過ごしていた。僕はその様子に、いつの間にかツィースの剣のことは忘れてしまった。
それで結局、僕がその剣を彼に渡せたのは、父が亡くなり、あの〈聖戦〉を終えた後だった。
これが一度目の涙の話。これから話すのが、二度目の涙の話だ。二度目の涙――彼の泣いた姿を見たのは、君がテルセ家に来て間もない頃のことだ。
君がテルセ家に来て間もない頃、君はとても弱っていて外に出せる状況ではなかった。 大聖堂には、各聖家の公子が出生したらすぐに大聖堂で僕と面会し、公子としての地位を僕が承認するというしきたりがある。だけど当時の君はそれもできないくらい弱っていた。そこで君の父君と話し合った結果、君の父君だけがここに来て、本人不在のままテルセ家の第一公子を承認することにした。
そういった場では本来、聖家の筆頭が立会うのが慣習だ。しかし、君も知っての通り当時の筆頭はプリア家だったから、テルセ家の大事な儀式に呼ぶのは躊躇われた。そこで代わりにセグダ家当主にお願いして証人となってもらうことにした。セグダ家当主は開明的な方で、珍しくツィースにも平等に接せられる人物だったんだ。
ささやかな儀式を終えて、セグダ家当主が帰ってから、僕は彼を〈裏庭〉に招いた。そこで祝いの酒を飲みながら、久々にゆっくり話をしようと思ったんだ。彼は屋敷に残してきた君達が心配だから、少しだけ話したら帰ると言って、僕についてきた。
即位してからというものの、彼と二人きりになるのは久しぶりだったから、僕はつい楽しくなってしまっていた。彼は手をつけていなかったけれど、僕は酒を飲んでいて、いつもより量が多かった。浮かれた気持ちと酒の量のせいかな、話の中で、つい彼と君の母君にとって禁句を口にしてしまった。
「それで、君達の実子はいつ見られそうなんだ?」
口走ってすぐ、彼の目を見て、しまった、と肝が冷えた。いつも持っている鋭い光を失って、彼の瞳は虚ろなものを持っていた。
「……今日承認された赤ん坊が実子だ」
やがて苦々しく吐き出された言葉とともに、彼はすっと立ち上がる。
「ごめん、変なことを言った」
当時、君の父君は服毒で一年も臥せっていて、精神的にはまだ十分回復していなかったように思う。そのせいで気持ちを抑えられなかったのだろうか、随分と険しい顔をしていた。それでも僕の謝罪に頭を抱え、しばし息を整えるように深呼吸をする。そして感情を抑えた声で、分かっているなら初めから言うんじゃない、と吐き捨てた。
俺達の間に子どもは作れない、と彼は言った。
「あの子の帰る場所を取り上げるわけにはいかない。……これ以上何も、あいつに失わせるわけにはいかないんだ」
さらにそうやって口にして、彼は乱暴に目元を擦る。再び現れた目元の、微かに赤らんだ皮膚に、僕は涙の跡があることに気が付いた。
ごめん、としか僕は言えなかった。彼は黙って首を振ると、謝罪を受け入れたのかそうじゃないのか分からない様子で部屋を去っていった。
これが二度目に見た、彼の泣き姿の話だ。今でもあの時彼が見せた顔を思い出しては胸が痛む。ついぞ僕は彼の苦悩を理解できなかったのだと思い知らされるんだ。
ツィースとしての人生を奪われ続けた彼にとって、フロウの慣習を奪うことがどれだけ恐ろしかったことか。だけどそれと同時に、彼は常に、奪う側に転じたい欲求があったのではないかな。あの時彼が涙を拭った時、その欲求に苦しんでいたように思える。僕は謝ることしかできなかったけれど、友としてその苦しみに寄り添うべきだったのだと今でも後悔している。
こんな後悔も、彼がいない今となっては役立たずだ。僕ができることと言えば、君の成長を見守って、過去の死者が報われる道を探し続けることくらいだろうか。だけど……あの時彼にかけてやるべきだった言葉は、あの時あの瞬間に言わなければならなかったのに、今でもここに残っている。
……ああ、話過ぎてしまったかな。この調子じゃ、君の後見人が起きる前に帰ってもらえなくなってしまう。彼が気づく前に君を帰さないと、シニョール・トゥーランのことだ、きっと嫌味の一つや二つ、僕に言ってくるに違いない。彼は大胆だから、大勢の前でも平然と僕に嫌味を言ってくるんだ。
それでは、僕の話はここまで。――君の論考に、今日の僕の話が役立つといいのだけれど。
名前を呼ばれた。無視しようとしても、また名前を呼ばれる。いい加減にしてくれ。ささくれだった神経を何とか落ち着かせながら、おざなりに返事をした。
まだ振り向かない。
恐る恐る額に手を伸ばせば、石を投げられ傷ついたところは、すでに乾いた血で覆われていた。次に足元を見る。走っている最中に脱げた靴は見失い、砂埃と細かい傷で足は汚れていた。
その日はうだるような暑さだった。
空には雲一つない。自分が抜け出してきた園遊会ではきっと、嫌味なほど穏やかな時間が流れていることだろう。
さきほどプリア家の第一公子を殴りつけた拳を握り締める。じんじんと鈍い痛みが残っていた。その痛みに触発され、さきほどの情景が頭に浮かんでくる。プリア公子の顔は血まみれで、恐怖におびえていた。一方、自分の肩を掴んで窘める声は鋭い。少年を咎めるその声は、一向にプリア公子の非礼を指摘する様子がなかった。それにどうしようもない怒りがこみあげてきて、少年は制止をものともせずに逃げ出してきたのだった。
――もう一度、名を呼ばれる。
それでようやく、少年は振り向いて母に体を向ける。ただし、母から顔を隠すように俯いたままだが。
ぐいっと持ち上げられ、道の隅に移動させられる。ひんやりとした日陰に入ると、母がぎゅうっと少年を抱きしめた。しばらくしてから、少年の小さな額に、傷口を避けて唇が押し付けられる。
思わずかっとなって、その顔を払う。
「フロウがそんな真似したって、どうしようもないじゃないか!」
自分でも予想していなかったほどの大声で叫んだとたん、少年の中で何かがぷつんと弾けた。たがが外れたように泣き喚く少年は、涙で曇った視界の中に佇む彼女の表情を見ることができない。母は少年の心無い叫びを黙って受け止めていた。小さな拳でも、当たれば痛いはずだ。でも自分だって痛かったのだ。異教徒、汚い野良犬、とからかわれ石を投げられた。周りの公子公女もそれを囃し立て、テルセ家の第一公子を庇う者は誰もいなかった。ただ揶揄われただけのことなのに、頭が真っ白になって気づいたらプリア公子の顔を殴りつけていた。あんな小石よりも軽い言葉で、少年の胸はこんなにもかき乱されている。痛みに心臓が破れそうだった。
それでも、同じように痛みを感じているはずの母は呻き声一つ上げずに、少年の好きなようにさせている。
「……どうしようもなくないわ」
落ち着いたものの嗚咽を漏らす少年に、ようやく母はそう言う。それから、肩から羽織っていたスカーフを手に取ると、丁寧に少年の足についた砂を拭った。
「……どうして、僕のことを拾ったの?」
しゃくりあげながら、そう声を漏らす少年に、母は困ったように眉を寄せる。その理由は今の青年には分かる。だが、泣き喚くしかない少年とそれを宥めるしかできない母には分からなかった。何も分からなかった少年は、何も答えないフロウに絶望して、また大声で泣き喚いたのだった。
「僕をもとの場所に戻して! もう異教徒の子どもなんて言われたくない!」
銀髪を揺らして、母は黙り込んでしまう。それでも腕を突っぱねる少年に構わず彼を抱き上げると、その背中を優しく撫でながらテルセ邸への帰途についた。
「そんな寂しいことを言わないで」
母は、少年を叱りつけなかった。ただ、悲しい声で言っただけだ。
「今、あなたはここにいる。私も、あなたのお父さんもここにいる。私達の居場所はここなのよ。どこから来たかなんて、関係ない」
青い空から、痛いほどの陽の光が刺してくる。母は聞きなれない、それなのに懐かしい旋律をハミングしている。母の懐は温かく、規則的に動くてのひらに心地よさを塗りこめられていくかのようだ。涙が落ち着いた頃、ようやく少年は母へ投げかけた言葉がさきほど己に投げつけられたものと同様のものだったことに気が付く。母も傷ついたはずだ、と少年は思う。謝罪をしたかったが、その一方で、言葉にした瞬間、自身の罪が確定してしまうことに恐怖を覚えた。
さんざん悩んだ末、ごめんなさい、を口にする代わりに、少年は母の頬にそっと唇を押し付けた。