六
母の部屋に最後に入ったのは、彼女がポーテ・ジュールに向かう前夜だった。学院から急いで戻ってきた青年は、出迎えた彼女が武装しているのを見て全てを悟った。彼女は青年の顔を見ると、いい子ね、と微笑んで座るよう促す。いい子、というのは母がよく使っていた誉め言葉だった。成人した後にはその言葉が気恥ずかしく思えたものだが、今ではどこか舌足らずな発音を思い出すたび懐かしくなる。
大人しく椅子に腰かけた息子に、母はいつも通りのバラ茶を差し出した。
「ポーテ・ジュールに行くわ」
「……父上は」
「きっと大丈夫」
「……そんなの分からないじゃないか」
ぼそりと呟く青年に、母は初めて動揺を見せた。カップを持つ手が震える。磁器のこすれる耳障りな音を聞きながら、青年のささくれだった神経はますます刺激されていった。
「手紙の一つも送ってこないんだから、分かるわけがない」
遠征の折、父は決して手紙を書こうとしなかった。あったとしても、副官が簡潔に近況を述べた書簡を送ってくるくらいだった。留守の間はさんざん心配そうにしている母は、それでも帰ってくる夫に明るい声で、手紙くらい書いてくれればいいのに、とだけ言うのだ。幼い頃は納得がいかず、よく泣いて手紙をせがんでは、後見人に嫌味っぽく窘められていたのを覚えている。
「だから手紙を書いてって頼んでいたのに」
腹の底から声を出した息子を抱きしめて、大丈夫だからね、と口にした母は優しく気丈に振舞った。あの時にはもう、青年を置いて死ぬ決心をしていたのだろうか。
「私が迎えにいくから大丈夫、あなたは陛下のところにいるのよ」
プリア家の狙いはテルセ家だ。青年を殺し、テルセ家断絶を目論んでいてもおかしくはない。すでに王家からは使いが出されていた。迎えに来た者は、青年が部屋の外で待たせている。母は青年を胸にしまい込むように抱きしめながら、もう行かないと、と呟く。
「隊を待たせているわ」
ぎこちなく体を起こし、母の冷えた唇がこめかみに落とされる。ミエタの風習とは異なるその愛情表現は、母がもの慣れないまま何度も示したものだった。僕も一緒に行く、という幼い我儘は喉元にまで達していた。だが最後に吐き出す勇気もなくて、青年は母の懐から身を起こすとその部屋を後にする。
背後で、母が何かを呟いた気がした。
それは、青年の知らない言葉だった。
「最近、寝不足のようだとシニョール・トゥーラン・スエルトが心配していた」
副指導教官との面談が始まるなり、そんな言葉が掛けられた。
「論考が大詰めなんです。寝不足なのは当たり前でしょう」
まさか後見人がそんな話を零しているとも思わず、青年は首をすくめる。副指導教官はこちらをじっと見つめている。その何もかもを見透かすようなまなざしに、青年は渋々認めることになった。
「ポーテ・ジュールの話を聞いたら、あんまり眠れなくなってしまって」
教官は、無言で立ち上がると部屋の隅に行く。編み籠の蓋を開けると、中からカップを手に持って戻ってきた。
「あなたのお母様から教えてもらった」
カップから立ち込める、甘酸っぱい香りに目を丸くする。緑のバラの茶だ。一口飲むと、喉元から込み上げてくる懐かしさにこめかみがうずいた。
「マエストロ、お聞きしたいことがあるんです」
教官はこちらを無言で見つめ、続きを促す。
「マエストロではなく、母の友人として教えてください。あの夜――ポーテ・ジュールに母が向かう前、大聖堂では何が起きていたんですか? 論考はほとんどまとまっています。だけど、どうしても、ポーテ・ジュールに行く前のことが分からないんです。なぜ陛下はすぐに王国軍を派遣できたのでしょう? どうして母を止めてくれなかったんでしょうか……王妃として、教えていただけませんか」
しばしの沈黙の後、教官――王妃は口を開く。
「あの時は私自身、体調が優れなかったから、全て正しく記憶しているとは思えない。だけどあなたが望むのなら、できるだけ正確に思い出すよう努めましょう」
王立学院内で王妃としてものを喋るのは私の流儀にも反するし、この学院の規律にも反する。ここで話したということは、他の誰にも話さないでほしい。
〈ポーテ・ジュールの反乱〉――あの忌まわしい事件は、いつまで経っても忘れられない。シニョーラ・プリアが持つ偏見や差別が引き起こした、最悪の殺戮だった。
あなたも知っているかもしれないけれど、〈ポーテ・ジュールの反乱〉が勃発した時、私は体調が優れなかった。だから聖騎士団をポーテ・ジュールに派遣することが決定された時は、その場にいなかったの。まさかシニョーラ・プリアに押されて、陛下がポーテ・ジュールにテルセ騎士団長を送るとは思ってもいなかったけど。……あの人は、聖家にも珍しい、ツィースやフロウに偏見を持たない人よ。だけど一方で、自分にないものの想像が広げられないような節があった。彼はシニョーラ・プリアがツィースやフロウに抱く激しい憎悪や偏見といった感情は、いまいち理解できていなかった。シニョーラ・プリアがあれだけツィースのことを疎んでいたのに、どうして聖騎士団の派遣を求めたのか――普通なら、それに違和感を覚えるところだけど、彼はシニョーラ・プリアに押されて、そんなことも考えないまま、あの派遣を受け入れてしまった。
今でも彼はそのことを後悔している。どれだけ悔いても、あの二人は戻ってこないのだけれど。
ポーテ・ジュールに聖騎士団を派遣して十日、何にも知らせが来ないことに陛下は少し不安を見せていた。いつもならあのトゥーラン・スエルトが三日とあげずに報告を上げてきていたのに、あの時は一切何も来なかったの。陛下は密偵を使って情報収集を試みたけれど、何も出てこなかった。そんな時、プリア家からいきなり伝令が飛んできて、真夜中に謁見を求めてきた。ポーテ・ジュールに関して、緊急で報告したいことがあると。私は少し体調が回復していたから、一緒に謁見の間に居ることができた。真夜中に約束を取り付けておいてちっとも姿を見せないプリア家に、広間でイライラして待っていると、間もなくやってきたのはプリア家の私兵だった。
陛下に謁見を求めてきたのが、プリア家の当主でもその夫人でもない、プリア家の使用人だったのにはとても驚かせてもらったわ。プリア家には随分舐められたものね。
でも、何より驚いたのは、プリア家の謁見にぐったりしたトゥーラン・スエルトが連行されてきたこと。陛下と私達の目の前に転がされたトゥーラン・スエルトは、腹部に血まみれの布を当てられていたけど手当された様子もなく、すっかり青ざめて気絶していた。プリア家兵はそんな彼に一切の憐憫を見せず引きずってきたわ。私はすっかり腹が立って、傍にいる陛下越しに、トゥーラン・スエルトを引き渡すよう要求してしまった。それでもプリア家兵はニヤニヤ笑って首を振るばかり。しまいには、兵長が悠長に懐から羊皮紙を取り出して陛下に差し出す始末。目の前の状況に、陛下は眉をしかめていたけれど、口を閉じたまま差し出された文を読み始めた。
「テルセ騎士団長からの手紙です。ここにいるトゥーラン・スエルト副官が、ポーテ・ジュールにて隊を裏切り、団長に深手を負わせたと」
いち早く知らせを受け取ったプリア家が、自らも深手を負った騎士団長から手紙を預かり王都に向かったところ、道すがら逃亡していたトゥーラン・スエルトを捕らえて連行してきたといっていた。その顔はにやついたまま。身じろいで何かを言おうとしていたトゥーラン・スエルトは、彼の部下に蹴飛ばされていた。陛下はそんな姿に何の反応も見せないまま、黙って手紙を読み続けていた。
「この手紙は、テルセ騎士団長が自ら書いたのか」
最後に、陛下はゆっくりとそう確認した。プリア家兵長は、にやにやしたまま頷いてみせて、そして――首が飛んだ。一瞬遅れて血しぶきが飛んできて、私の目の前の床には血の海が広がっていた。そして次に見たのは、あの人が血まみれの剣を手に玉座から飛び降りるところだった。
「武器を捨てろ。両腕を上げて跪け」
陛下は広間に声を響かせながら、またもう一人、今度は武器を持ち上げようとした兵士の腕を斬りおとした。陛下の様子に我に返った聖騎士団員が次々にプリア家兵を取り押さえたわ。
さらに陛下は、自らも構えを崩さないまま傍で呆然とする従者に指示を出した。
「今すぐトゥーラン副官を治療するんだ」
トゥーラン・スエルトは、あっという間に運ばれていった。
「待機していた聖騎士団員にも集合をかけろ。王国軍も招集をかけるんだ。プリア家は王族に背いた。一刻も早く、ポーテ・ジュールに向かわせよ」
矢継ぎ早に指示を出した陛下は、どさりと玉座に身を預けると頭を抱える。私は思わず、どうするつもりなのか問うてしまった。
「あの書簡は偽物だ。偽の書簡を堂々と持ってきている上に、トゥーラン・スエルトがあんな状態ということは……彼は既にプリア家に拘束されていると考えていい」
沈んだ口調でそう言った後、彼は黙り込んでしまった。己がプリア家に屈したばかりに、彼の護衛にして友人を危険な目に晒している。そのことがよっぽどこたえたのでしょう。彼はその一晩中、私の方を見ようともしなかった。
一方、陛下に付き添いながら私は、こっそりあなたの母上に使いをやった。プリア家の憎悪は、ツィースの彼のみじゃない。あなたと母上にも向けられていた。この混乱に乗じてプリア家があなた達の命を狙っても不思議じゃなかったから、せめて大聖堂内で保護しようと思っていたの。
話を聞いて飛んできたあなたの母上は、あの緑の瞳いっぱいに恐怖を湛えていた。陛下の傍で状況を説明すると、あの子は唇を噛んでじっと俯いてしまった。
「まだ消息は分かっていないけれど、大丈夫、きっとすぐに分かるから」
そう言って励ましても、顔を上げようとしなかった。しばらくして、お願いがあるの、と小さい声で言ってきた。そのあどけない声に、とにかく何かしてあげたくって、すぐに頷いてしまったわ。
「あの子を、ここで匿って」
当然、あなたのことは大聖堂内の安全なところで匿うつもりだった。だけど彼女自身のことに触れようとしないのに不安になって、あなたはどうするつもりなの、と尋ねたわ。彼女はそこでようやくこちらに焦点を当てて、じっと見つめてきた。その瞳には私の強張った表情が映し出されていて、耐えきれずに顔を逸らしてしまった。
「かつて読んだ王国史には、家長の妻が夫の職位を継いで家名を守った話が載っていたのだけれど、合ってる?」
プリア家のことを言っているのだと、すぐに分かった。
「だけど、プリア家のその一度きりだけよ。他の事例は聞いたこともない」
「だけど一度でも、この国の歴史で起きたことよね」
彼女は薄く笑みを見せて、そう言い切ってしまった。私は何も言えずに、ただ頷くことしかできなかった。彼女はそれに満足そうに頷くと、身を翻した。
数時間後、彼女はあなたを連れずにやってきた。その代わり、陛下の前に現れた彼女は、深紅のローブを纏っていた。
「陛下も私も、あの子を止められなかった。彼女は王国民として理論的に振舞っていたし、私達は胸中の感情でしか彼女を止めることができなかったから」
窓の奥、もっと遠くを見つめながら王妃はそう呟く。その顔に浮かぶのは、確かに哀悼の気持ちだった。青年は掛けるべき言葉が分からず、口ごもってしまう。すると王妃から指導教官に戻った彼女は、淡い微笑みを浮かべながら青年の手を握り締めた。
「期待しているわ。これまでの王国史では、ツィースやフロウに関して一切触れられてこなかった。この王国にはずっとツィースやフロウが出入りしていたのにね。テルセ家という家を与えられて、聖家の中にいた彼女達ですら、これまで詳しく語られようとはしなかった。だけどそれは、語られなかったけれどこの王国の大切な要素なの。王国に女性がこんなにたくさん生きていて王国を支えていても、これまで史書に語られることはなかったのと同じように、語られていないだけで不可欠な構成素なのよ」
王妃として、その名前を王国史に刻んだ彼女は、そう囁く。
「これはあなただからこそ、語れる歴史よ。彼女達の存在を残そうとしてくれているあなたには、彼女達の友人として感謝してもしきれない。それと同時に、この国の王立学院に所属する教授として、あなたの勇気を讃えたい。あなたの論考は、きっとこの国のありのままを曝け出すことになる。ある人にとっては、不快で忌まわしい事実かもしれない。だけどこれからの王国について考えるとき、私達が過去に犯した過ちが教訓となり得る」
窓から差し込む橙色の夕日は、彼女の顔に温かく降り注ぐ。恐らくかつては無かったであろう皺に柔らかい影を纏いながら、青年に微笑み続けていた。
「もう一人、あなたに紹介したい人がいるわ」
「論考は進んでいる?」
久々に顔を合わせた同期は、開口一番青年の聞きたくない言葉を発した。青年は首をすくめ、まあまあかな、と呟く。女学士が声を上げて笑うと、傍を通った学士が眉間に皺を寄せて舌打ちしたのが見えた。そんな態度に文句を言いかけた青年の口を塞いで、
「放っておきなさいよ。あんな三流の学者」
彼女はいたって冷静だ。たっぷりとした金髪を払い、実力じゃ私に勝てないんだもの、とあっけらかんと口にした。青年は溜息をつく。
「君の堂々としたところが羨ましいよ。テルセ家の長になって三年も経ったけど、未だに周りの目が気になって仕方がなくて、卑屈に振舞ってしまう」
「ああいう奴らって、気にはなるけど、それにいちいち反応して縮こまっていたら相手の思う壺でしょうが。まったく、あなたのご両親こそあんな見られ方ごまんとしていたでしょうに。彼らの態度から何も学ばなかったのかしら?」
脳裏に浮かぶのは、父の書斎に置かれていたツィースやフロウに関する書物だ。青年が唯一、父の手にあったのを目撃した書物だった。王国の書物には珍しく、彼らの衣食住を詳細に描く挿絵がちりばめられたものではあったが、文章は偏見と侮蔑に満ちており、青年には読むに堪えられない代物だった。それでも父はその書物を熱心に開いていた。幼い頃に一族を失った彼にとって、故郷を知る手掛かりはそれぐらいしかなかったのだろう。あの情景を思い出すたびに、彼の必死な気持ちをあの書物に嘲られているようで心が締め付けられる。
「……僕は、あそこまで鈍くなれないよ」
多くを語らなかった父を思い出すたび、彼が王国の中で少しずつ失っていったツィースの心に思いを馳せてしまう。青年が帯剣の儀で感じた息苦しさを、父も持っていたのだろうか。見た目は全く似ていない親子だったが、中身はそっくりだったかもしれない。そう思うと、青年は父への憐憫と親近感を同時に抱いてしまう。
「ごめんなさい、ちょっと無神経だったわ」
はっとする。
「いや、平気だよ。ただちょっと、昔のことを思い出しちゃって……」
「どんなこと?」
青年はちらりと同期を見つめると、中庭を指さす。落ち着いて話をしたいという申し出に、彼女はすぐに頷いた。
「研究を進めていて、分からないことがいくつかあるんだ」
場所を移した青年は、さっそく口を開く。結論がまとまりかけている時、青年はこうして彼女に研究について話すことがある。女学士が自負しているように、彼女は王立学院内でも飛びぬけて優秀だ。こうした対話の中で研究の手掛かりを与えてくれることもあった。青年は彼女の輝く瞳に語り掛けるように口を開く。
「一つ目。どうしてあの時――ポーテ・ジュールに王国軍を送った時、陛下は偽書を見破れたのか」
「筆跡でしょう。私達だって、古書の解読でよくやっている」
即座に答えが返ってくる。
「僕達だって、短時間で特定できやしない。それこそ、何週間、何か月もかけて照合していくんだ。手紙をほんの一瞬見ただけで、筆跡が違うと分かるものか?」
「親しいんでしょう、あなたの父君と陛下は」
「僕は君と長い間一緒に研究していて君の字もよく見ているけど、一瞬で君の字を特定できる自信はないな」
彼女はなるほど、といったふうに頷く。
「加えて、父はとんでもなく筆不精だったんだ。公的な文書は副官任せで、私文書は書いているのを見たことがない。そんな人の筆跡が一目でわかるのだろうか」
彼女は好奇心に瞳をきらめかせ、続きを促した。
「二つ目。ポーテ・ジュールから、どうやってトゥーランは逃げてきたんだろう?」
「隙を見たんでしょう」
「彼は文官だ。そりゃ、僕らより剣術は得意かもしれないけれど……僕の父でさえも逃げられなかったんだぞ?」
女学士は訝しげに瞬きをしてみせた。そして今度ははっきりと困惑を顔に浮かべながら、青年をじっと見つめる。
「……当時のポーテ・ジュールで気になることなら、私にも一つあるわ」
青年は片方の眉を跳ね上げ、続きを促す。
「カーサ・ブランカは、どうして古術を用いて屋敷を守れたのかしら?」
「王立学院の学士が施したんだろう」
「なんの見返りもなく?」
「……そりゃ、俗人とは違うだろう、我らは」
言葉を濁しながら返すと、同期は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ポーテ・ジュールの富豪相手に、なんの見返りも求めずに善行? そんな戯言、誰が信じるっていうのかしら。それに、私だったらあんな不完全な術、頼ったりなんてしないわね」
青年が首をかしげると、同期の女学生は呆れたように目を瞬かせる。
「だってそうでしょう? 王立学院で保管している書物には、守護陣の解除について一切記載がないんだもの。つまりあの術を再現する場合は、いつなんどき術が解除されるかとも分からないままビクビクしていなきゃいけない。そんな大事なところが抜け落ちているのに、他の記述だってどこまで信用できるのか分からないし。そんな中途半端な術で陣営を守るくらいなら、別の方法を選んだ方が断然良いに決まってるじゃない」
確かにな、と青年は心の中で同意する。守護陣の記述については、書物の管理責任者である副指導教官にもう一度確認させてもらった方がいいかもしれない。
二人はしばし黙り込み、午後の心地よい日光を浴びることに集中する。二人の頭の中は、当分整理できそうになかった。
「それで、論考にはどこまで載せるつもりなの」
同期からの問いかけに、青年は首をすくめる。同期の瞳が、意外そうに揺れた。
「あの内乱から三年も経ったわ。〈ポーテ・ジュールの反乱〉は、王国の正史に残すべき重要な出来事よ。分かったことは、なるべくたくさん残した方がいいと思うけど」
「うん、まあ、もちろんあの反乱の重要性については理解しているつもりだ。ただ、……細部まで残しておく必要はないんじゃないかなって」
父や母の最期に関する話を思い出すと、どうにもやりきれない。青年の歯切れが悪い言葉に、女学士は眉をひそめた。
「地方の小さな民話まで収集しているあなたが、細部を軽んじるとはね」
地方に散らばる民話の収集と体系化も行っている青年は、今回の論題のこともあり、王立学院内でも奇異な目で見られることが少なくない。だが彼の研究手法の緻密さやその洞察力の高さを知る彼女にとって、青年の評価はあまりにも不当なものに見えるらしい。もし、今回の論考で、誰もが重要事件と考える〈ポーテ・ジュールの反乱〉についてその精度の高い研究能力を発揮すれば、青年の評価も見直されるかもしれないのだ。青年の研究を高く評価するこの同期は、彼の煮え切らない態度に不服のようだ。
「いや……軽んじているわけじゃない」
目を伏せ、青年は口ごもる。何度か言語化しようとした思考は、結局まとまらないままだった。二の句を告げず、落ち着かないままに、手元で羊皮紙の切れ端をいじるしかなかった。
女学士が、小さくため息をつく。
「今の段階では、そういうことにしておきましょう」
そう言って立ち上がる。休憩を終えて、研究に戻るつもりのようだ。ローブを翻し中庭を出ようとした彼女は、ふと足を止めてこちらを見つめる。青年はそのまなざしを受け止めて、静かに言葉が紡がれるのを待った。
「……私、あなたに話を聞いてもらいたい人がいるの」
その言葉に、副指導教官の顔が脳裏に浮かぶ。彼女もまた、貴重な語り手を紹介してくれた。その名前を聞いて随分びっくりしたが、思い返せば彼女の学院外での身分を思えば不思議でも何でもない人物だった。今日の真夜中、大聖堂の玉座の前でその人は待っているという。
「君には助けられっぱなしだ」
青年の言葉に、女学士は首を振る。
「これは私のためでもあるから、そんなこと言わないで」
そう言って女学士が見た先にあったのは、彼女が腕に嵌めている革製の腕輪だ。中央にセグダ家の家紋である馬の疾走する姿が彫られている。青年は彼女の言わんとすることを理解した。
「じゃあ……明日の夜はどうだろう」
青年は同期に提案した。