四
帯剣の儀が話題に出たからだろうか、久しぶりに昔の夢を見た。
寝室のドアを控えめに叩く音に、目を覚ます。頭の奥が鈍く痛んだ。
「シニョール、朝食をお取りくださいませ」
住み込みの下女に、ぼんやりと返事をする。かつて養父母が二人きりで住んでいた屋敷には、現在でもわずか三人――下女と青年、そしてその後見人――しか住んでいない。青年が寝ぼけ眼で食堂に行くと、後見人は既に朝食を取り終えたところだった。
「昨夜は遅かったようだな」
「紹介していただいたシニョールに会いに行ってきたんです。話し込んでいたら、遅くなってしまって」
後見人は、ああ、と頷く。
「プリア騎士団長の頃から仕えていた方だから、貴重な話も聞けただろう。参考になりそうか?」
「ええ、かなり。ポーテ・ジュールの反乱について詳しく知る方も紹介してもらえました」
「……そりゃあいい」
後見人が短くそう言うのに、思わず苦笑する。あの反乱については目の前の男も詳しく知っているはずだ。かの港での一件により、プリア家は失墜し、現聖王は大聖堂を掌握した。そして前騎士団長は死に、テルセ公子は天涯孤独となり、トゥーランが騎士団長の座を手に入れた。あらゆる形勢をひっくり返した反乱をつぶさにその目で見ていたはずの後見人は、その事件を語ることはない。そのため、青年も仕方がなく、他の人に話を聞くしかないのだった。
出された朝食を口に含もうとして、ふと手を止める。昨日聞いた話を思い出したのだ。
「あなたは――僕のことが、嫌いだったんですか?」
後見人はちらりとこちらを見てくる。後見人は、大聖堂内の役職を除いて青年にあらゆることを世話してくれていた。その青年への献身のほとんどが、両親から直々に頼まれたためであることは、青年も承知している。だが、青年のことはせいぜいが無関心なだけであって、嫌われているとは思ってもいなかったのだ。それなのに昨夜のような話を聞いては、少し気になってもくる。が、
「お前のことではなくて、テルセ家に来た子どもが気に食わなかったのさ」
後見人はそれだけ言うと、青年の頭をくしゃりと撫でて食堂を出て行った。
パンを口に含み、青年は考える。
――今の言い方じゃ、まるで僕に嫉妬してるみたいじゃないか、と。
参謀――元、ですがね――から話が来て、随分驚かされました。まさかテルセ騎士団長の御子息がお越しになるとは! テルセ家に来たばかりの頃はガリガリで、すぐにでもくたばっちまいそうだったのに、今じゃこんなに立派になって。――まあ、もう少し筋肉がついてもいいくらいですがね。
ほら、ここに座ってください。新鮮な果物を食ってくださいよ。どれも俺が作ったものなんです。聖家じゃ、新鮮な果物なんざ滅多にお目にかからないでしょう。かぶりついたら甘い汁でベトベトになるような瑞々しさなんて、ご存じないのでは? あそこの卓に上るのは、木から切り離されてすっかり水分の抜けきった果物ばかり。大聖堂では晩餐会の護衛をすることも少なくなかったんですが、まあほとんどが腐りかけの食い物ばかりでしたね。薄暗いところに置いてりゃそれなりに見えてはいましたが。聖騎士団はもとをただせば俗世から飛び出してきた奴らばかりなもので、そういったしなびた食事に耐えきれなくなれば自分の足で自分の古巣たる市場に戻り、もうちっとマシな食材を手に入れることが出来ました。ところが聖家の面々はそうも行かないものだから、下男下女をさびれた市場に使わせて、しなびた食材をかき集めてるんでしょう。そんでもってその食材が調理されるのを悠長に待ってりゃ、そら食べ物だかゴミだか分からんようなものを口に入れるしかないわけだ。
だから俺は、聖騎士団を辞した暁にゃ陛下からいただいた金貨で果物を作って、新鮮なままをたらふく食べてやるんだと画策していました。実際にポーテ・ジュールの反乱を機に退官した後は、こうやって昔の夢を叶えてのんびり楽しんでいるわけです。
――〈ポーテ・ジュールの反乱〉、か。参謀から頼まれたとあっちゃ、断るわけにもいかない。だからあなたをここに招いたのですが……実のところ、あの時のことはあまり思い出したくないのです。
なぜって? もちろん……嫌なものをみたからですよ。
ここまで話したのなら仕方がない。これまで胸の内にしまっておいたものは、ここで発散するとします。それに俺は、あなたにも覚えておいてもらいたいんです。俺達が犯した罪を。
さっきも言った通り、俺達聖騎士団員はほとんどが俗世――「聖家」に対しての、俺達の自嘲を込めたような呼称です。それを真似して、聖家の奴らもたまに使っていましたが――の出身でした。俺は娼婦の子で、姦淫により生まれた人間です。母親が死んでからは路頭をさ迷っていましたが、運よくある教会に拾われて読み書きを覚え、アスクエラにも入学させてもらいました。まあ、教会も何も善意でやってたわけじゃないんです。アスクエラに入って、役人にでもなってくれりゃ大聖堂内部とつながれますし。何より、ひょっとしたら給金を「寄付」させられるかもしれないって打算があったのでしょう。周りのトゥーランは皆、似たような境遇にありましたよ。実際に給金の何割かは出身の教会に「寄付」していた奴もいました。知る限りでは、トゥーラン副官――今は「騎士団長」だった――だけは、どの教会ともつながっていないトゥーランでしたね。
そんな中で俺が幸運だったのは、教会の神父の中に、本当に善意から子ども達を世話してくれている奇特な爺さんがいたことでした。教会では読み書きや学問が出来ない奴らは厳しく罰せられていました。その老神父は、罰を恐れて勉強する俺達に夜遅くまで付き添い、いろいろなことを教えてくれたものです。勉強の合間、爺さんはいつも遠い昔の話をしては善き人であれと繰り返しました。他人を思いやれる人であれ、己に恥じない人であれと。
――今になっても俺が毎週の礼拝を欠かしていないのは、彼の影響でしょう。礼拝の中で、俺はこれまで犯した罪を告げ、悔悟しています。爺さんの言葉を一割も守れなかった俺が出来ることといえば、それくらいなのでね。聖騎士団員として仕えていた時、俺は大勢の人を殺しました。奸計に嵌めて陛下の政敵を陥れたこともある。あなたもご存知かと思うが、大聖堂なんてのは清らかさの欠片もない。淀んだ空気の中で思考も停止して、だんだん人を貶めるのも、その命を奪うのもさほど大事じゃなくなっていく。礼拝でいくら罪を悔いたところで、一歩礼拝堂の外を出てしまえばいつも通り。それでも礼拝を欠かさないのはなぜか? ……爺さんの恩を踏みにじったんだ、それくらいはしないといかんでしょう。
そして俺が礼拝の中で、繰り返し告白する罪の一つが、今からお話しする〈ポーテ・ジュールの反乱〉での一件です。
〈ポーテ・ジュールの反乱〉は、その十八年前にテルセ騎士団長がシニョーラ・プリアに毒を盛られ、死に瀕したことから始まったと言っていいでしょう。テルセ騎士団長の暗殺を指示したことをシニョーラ・プリアは隠そうともしていませんでした。何せ当時陛下の立場は弱く、そして言うまでもなく、陛下の私兵団に過ぎない我々は大聖堂内では人間として扱われていなかったのです。……驚いた顔をされているが、別に不思議なことでもないでしょう? さきほどから言っていますが、我々のほとんどが聖家の者ではないうえに、それを率いるのは聖家が蔑む異教徒なのですから。
あなたにとっては聞きたくない言葉でしょう。ですが、〈ポーテ・ジュールの反乱〉について論じられるのであれば目を逸らしてはならない事実です。テルセ騎士団長は大聖堂内で、畜生以下に扱われていたのだと。それこそ……俗世の者と比べ物にならないくらいに。
陛下は〈聖戦〉の功績によりツィースに姓を与え、騎士団長という地位に据えました。しかしそれは形式的なものです。陛下にはツィースを対等に見る心があったというだけで、配下の者がみな同じ心持であるはずもない。
かつてツィースが北の砂漠で集住していたころ――もう三十年以上前のことです――先王によりツィースの地は蹂躙され、男は戦場で屍を晒すこととなりました。一方女子どもは王都に連れていかれ〈教化〉という名のもと、虐殺されたのです。ツィースは決して神を受け入れず、先王はそれに業を煮やしていました。また、我々とは異なる肌の色、目の色、風習、言葉……そのどれもに底知れぬ気味悪さを感じて、嫌悪していたのです。プリア家も、先王と同様、いや、もっと苛烈にツィースを蔑んでいました。中でもシニョーラ・プリアは凄まじく、さきほどの〈教化〉は彼女の主導の下執り行われたのです。その残虐さといったら……例えば、現王は戴冠後、直ちに〈教化〉の関与者を罰しましたね。ところが、陛下が罰さずとも、多くの者――とりわけ直接彼らに手を掛けた者達は、その残酷さに衝撃を受け、自ら死を希み、あるいは気が狂って既に死んでしまっていたのです。多くは、プリア家に逆らえず、仕方なしにツィースを殺した者でした。また、〈教化〉で殺された者達の死体は連日山を成し、一日中穴を掘り続けても埋めることができなかったとか。穴掘人の隣では野犬が死肉を喰らい、あたり一面には肉片が散らばっていたとも聞いています。
……テルセ騎士団長はそんな地獄を生き延びた子どもの一人です。つまりシニョーラ・プリアの手から逃れた獲物の一人で、彼女にとっては疎ましいことこの上ない存在だったのでしょう。
テルセ騎士団長が服毒のために一年間寝込み復帰した後も、シニョーラ・プリアの憎悪は落ち着くどころか、増々燃え上がっていたのです。
さて、あなたには不要でしょうが、少し前置きをさせてください。
ポーテ・ジュールは、当時はプリア家領下にある港町で、交易も盛んなことからたいへん栄えています。プリア家が現王に疎まれながらもそれなりの地位を保っていたのは、その港にこの国の富の多くが集まっていたためでした。ポーテ・ジュールは今でこそ司教が派遣され大聖堂の直轄領となっていますが、当時は独立の気風が強く、プリア家が何とか抑え込んでいると、そういうことになっていました。
そういうことになっていた、とはつまり、大聖堂ではそう考えられていた、ということです。実際にはポーテ・ジュールとプリア家は秘密裡に協定を結んでおり、プリア家はポーテ・ジュールを擁しながら王国から独立することを目論んでいたのです。
王国としては、プリア家はともかくポーテ・ジュールを独立させるわけにはいきません。何しろ国の富がポーテ・ジュールに集中していますし、あの港はアジュール運河の河口なのです。とりわけ国の基盤が脆弱な時に手放せば、国制の瓦解は目に見えていた。ポーテ・ジュールはプリア家と気風を異にしていましたが、王国から独立さえすれば、旧態依然の聖家なぞ恐るるに足らず。折を見て、プリア家も捨てるつもりだったのでしょうね。
ともあれ、プリア家は、機会を狙っていた。そして彼らに好機が訪れたのです。騎士団長を始末し、王国から独立する好機が。
まずシニョーラ・プリアは、王妃の体調が優れず御前会議を欠席した時を狙い、ポーテ・ジュール内で反乱の動きがあるため、聖騎士団を派遣するよう要請しました。先代まではほとんど機能していなかった御前会議は、もともと各地を聖王に代わり治める聖家が必要に応じて聖王の助力を請うために開かれていました。陛下はそれを復活させ、王家と聖家の関係強化に取り組んでいたのです。そしてその補佐として、陛下は王妃をいつも伴っていました。
――王妃は聡明な方で、陛下の執政を助けていらした。プリア家が力ずくで物事を推し進めようとすれば、王妃がそれをやんわりと躱していたのです。
あなたもご存知でしょうが、あのうだつのあがらない現王がいかに国を建て直せたのかといえば、もちろん、あのコアエル家出身の王妃あってこそです。ところが王妃は皇女を出産されてからずっと何十年もの間、体調を崩されていた。さらに不運が重なって、その御前会議では、王妃と同調して現王を助けていたコアエル家長が領内のいざこざで屋敷を離れられず欠席してしまった。そうなると、陛下は孤立無援の状態で会議に臨まねばならなくなりました。シニョーラ・プリアはそれを狙ったのです。
王妃不在の会議において、シニョーラ・プリアはポーテ・ジュールに聖騎士団の派遣を要請しました。陛下は聖騎士団が国王の私兵であることを理由に、その要請を一度は撥ねつけたと聞いています。代わりに王国軍を動かすべきだと。ところがシニョーラ・プリアは、王国軍を動かせば大事になり、内密に処理が出来ないと反論したのです。
結局、陛下はプリア家に押され聖騎士団を敵領へ差し出すことになった。言い方が悪いですかね? しかし当時、明らかに王家と対立関係にあったプリア家に自らの懐刀を差し出したのは失策だった。ああ……思い出すと、今でもむかっ腹が立ってくる。しかもポーテ・ジュールに、あのテルセ騎士団長まで派遣して。
ねえ、俺はもう復帰の予定もないから言っちまいますが――あの一連の悲劇の原因は、現王が現実を分かっていなかったってことにあるんじゃないかね。だってそうだろう。いくら王が命じたところで、人の心――異教徒への蔑視――はすぐに変わりやしない。あのうすのろ……おっと失礼、頼りない王の見ている前じゃ、そりゃ皆ものわかりのいいフリして頷いてるだろうさ。そんで嘘っぱちの涙を流して、ツィースへの懺悔を口にする。われらが陛下は、そんな取り繕った姿を見てさぞかし感動したことだろう。この国からはツィースへの偏見が払拭されたのだと。
だがあなたなら分かるでしょう。そんなのは、為政者の夢物語でしかないと。陛下はテルセ騎士団長をポーテ・ジュールに――ツィースに尊厳を認めないような者達のいる土地に――向かわせるべきじゃなかった。
シニョーラ・プリアは、騎士団長を差別しないどころか、人間としてなんて見ていなかった。ポーテ・ジュールで、あの緑の家で団長を殺した奴らも。……でなきゃ、どうしてあんな惨い殺し方……
失礼、取り乱してしまいました。話を続けましょう。
シニョーラ・プリアの思惑通り、陛下の命で、団長は副官と数人を連れてポーテ・ジュールに向かいました。プリア家は王国でも由緒ある大家の一つです。当然団長という、しかるべき地位の者を派遣し対応する必要があった。でもだからといって、団長と副官、騎士団の要である二人が陛下から離れるのはいかがかとお思いでしょう。こればかりは、公文書に載っていることでもあるまい。せっかくお越しいただいたんで、少しお話しておきましょうか。
騎士団長はともかく、どうして副官のトゥーランが帯同したのか。暴露しちまうと、あいつはまったく剣の腕が立たないし、つまるところテルセ騎士団長の伝書鳩でしかなかったからです。軍議にもほとんどトゥーランが代理で出ていってたな。弁が立つかは知らないが、あいつに陛下をお守りするだけの腕があるとは思わんね。おっと、ヤツはあなたの後見人だったか……失礼しました。ともかく、腕は立たないんで、陛下のもとには別の者を配置した方が安全だったんです。結局あの時は、参謀が残っていましたっけ。
俺はポーテ・ジュールに向かう隊に入れられました。
道中、都に家族を残している奴らは、よく手紙を書いていました。そういえば、テルセ騎士団長は、自分から手紙を書くことはなかったな。毎朝、聖騎士団では王都への伝令に私的な手紙も預けたんですが、団長が預けることは一度もなかったんです。受け取る頻度は随分と高かったのに。そう、それで――酒も入ってた時、思わず聞いてしまったことがありました。手紙に返事は書かないのですか、と。テルセ騎士団長は顔色一つ変えず、こう言ってましたっけ。
「無事に帰るのが何よりの返事だろう」
――さて、この言葉をどれくらい信用すればいいものか。
どうして疑うのか、ですって? ……あなたが聞いて楽しいものじゃないかもしれませんよ。それでもいいってのなら、お話ししますが……本当にいいんです?
ところで、副官のトゥーランはちょっと良い声をしていますよね。男にしては少し高めで、濁りのない声をしている。あいつは気取ったところがあるから、酒もほとんど飲んでなかったことだし、今も綺麗な声をしてるんでしょうな。
あなたもご存じでしょう。大聖堂内で、騎士団長の生前さんざん噂になったアレ……トゥーラン副官と騎士団長がデキてるってやつ。今でも信じちゃいないんですが、その……完全にも否定できないっていうか、半信半疑ってのが本心で。というのも、ポーテ・ジュールへの道中でも、あの二人はいつも同じ部屋に泊まっていたんです。ある晩、俺がほろ酔い気分で月を見に外に出た時のこと……あ、もちろん非番の時ですよ……夜遅く、あの二人の部屋の窓がわずかに開いていて、ぼそぼそと何かを話している声が降ってきたんです。思わず見上げてしまって、それで、つい好奇心に駆られて近くの木に登ってしまいました。
窓の隙間から聞こえるのは、あのトゥーランの澄んだ声で、内容はテルセ騎士団長を気遣う言葉と、王立学院に通うあなたの様子についての報告でした。そう、騎士団長は奥方からの手紙をトゥーランに読み上げさせていた。よりによって、奥方の手紙を、よからぬ噂の立っている相手に! しかもその直後、俺が耳を澄ませていたら突然窓を開けて、トゥーランの奴に睨まれたんです。
「盗み聞きとはいい度胸だな、トゥーラン・オエスト」
俺は西の教会出身だったもんで、騎士団ではトゥーランにオエストをつけて呼ばれていたんです。トゥーランが周りにうじゃうじゃいたんでね。ちなみにあいつは、とんだ強運で聖騎士団副官にまで上り詰めたもんだから、トゥーラン・スエルト副官。
「とっとと失せろ。明日の見張りに備えろよ」
後にも先にも、あのトゥーラン副官があんなに憤怒していたのは見たことがない! だから俺は疑っちまうんですよ、あれは二人の関係がバレそうで焦ってたんじゃなかろうか、と。奥方の手紙を共有するくらい、あの二人は深い仲だったんじゃなかったのかって……。
え、もしトゥーランとテルセ団長がそういう仲だったなら、妻の手紙を共有するのはおかしくないか? さあねえ、ただあの雰囲気はただならぬものがあったのは確かです。だからそう思ったってだけでさ。
結局、団長は奥方への手紙を託さないままポーテ・ジュールに着いちまいました。あの方の終の地に。
ポーテ・ジュールは、体に潮の香りがまとわりつくような街でした。実を言うと、俺が海を初めて見たのも、その時です。肌に感じる湿り気が慣れなくて、少し落ち着かない気分にさせられましたな。
「気持ち悪いな! いつもの恰好じゃやってられない」
手で海風を払うようにしながら、トゥーラン副官がそうぼやいていたのを覚えています。あいつもずっと王都暮らしだったので、港町の気候には慣れていなかったのでしょう。
俺達が宿所としたのは、出立前に話をつけておいた商会の、カーサ・ブランカでした。随分厳重に周りを鉄格子で囲い、用心棒まで雇っていました。さらに驚くことに、カーサ・ブランカは古術でも守護されていたのです。副官がカーサ・ブランカの会頭から受け取った書簡を見せると、用心棒の一人が鉄格子の一点を指しました。するとみるみる格子が溶け出して、人ひとり入れる空間が出来ました。
「あなたがやったんですか?」
思わずその用心棒に尋ねても、彼は何も答えようとしません。すると別の用心棒が、彼は生まれつき耳が聞こえず、話すこともできないのだと言いました。訓練の後、どうやら簡単な文字だけは読めるようになったとのことです。ではそう教えてくれた彼に守護陣の仕組みを尋ねても、これがよく分からないとのこと。
「カーサ・ブランカの会頭によれば、なぜかこいつだけが、(とその用心棒は耳の聞こえない用心棒を指しました)守護陣を一時的に解除できる権限を得ているそうなんです」
――思わず、隣にいた団員と顔を見合わせてしまったものです。たった一人だけが解除できる守護陣とは、一体どんな仕組みなんだか。
「王立学院と関係でもあるんでしょうか?」
ご存じの通り、この国で古の陣を張れるのは、古代の文字を正しく理解し、その方法を解読している学士に限られます。つまりカーサ・ブランカは学士にそんなことを依頼できるくらい大聖堂に近いってことになる。そんなこと、滅多にあるものじゃない。
「トゥーラン、これはどういうことだ?」
前では、騎士団長も同じく訝しく思っているようでした。カーサ・ブランカと逗留に関する調整を行っていたのが副官でした。
「大聖堂の関係者に部屋を貸すくらいなんだし、王立学院と繋がりがあってもおかしくないでしょう」
副官はそれに対して、随分あっさりと答えていました。細かいことは気にするなと言わんばかりで、今回の遠征に漠然と不安を覚えていた俺達は呆れたように顔を見合わせました。ただ、確かに実際心配は無用でした。ポーテ・ジュールの反乱の折、かの港の商会でカーサ・ブランカだけは王国軍に協力的だったのです。だけど、王立学院は大聖堂から独立した機関で、大聖堂が命じたからといって王立学院がその研究成果をいち商会に差し出すとは考えにくい。今振り返っても、カーサ・ブランカには何か胡散臭いものを感じてしまいますね。
ともあれ、これから自分たちの本陣となるカーサ・ブランカの強固な守りには少し安心したものです。トゥーラン副官は守護陣を確認して、その強度の高さに驚きを見せていました。その報告を騎士団長は、それでも安心はできない、と俺達に言い渡しました。
「何事にも完璧というものはない」
しかし今の自分達を守るのは、かつて魔術に秀でた一族が発明した守護陣です。守護陣に関して記述されている書物は王立学院にて厳重に保管され、一部の人しか読めないことになっています。つまり解除の方法も知れ渡ってはいないわけです。そう滅多なことは起こらないだろうと、団内では騎士団長の言葉にも関わらずゆるんだ空気が流れていました。それでも俺達はいつも通り、交代で見張りにつくことにしたのです。
さて、俺が担当していた時間帯は、町が寝静まった真夜中でした。潮風のべたべたした感触に眉を顰め、松明を掲げながらカーサ・ブランカの外に怪しげな動きがないか見張っていた時のことです。
目の前に、どさりと何かが落ちてきました。驚いて駆け寄ると、まだ幼い女の子が口から血を流して倒れていたのです。私が慌てて抱き起こしたものの、既に息はありません。何が起きたのか分からないままでいると、ふいに後ろに人の気配が感じられました。振り向けば、そこには守護陣の唯一の門番が驚愕の色を浮かべて立っていました。開いた口からは言葉にならない呻き声を上げました。その言葉を認識できなかったものの、恐らく、その子の名前だったのではないでしょうか。
そしてその門番の喉を突いたのが、赤い羽根を尻につけた矢でした――そう、プリア家討ち入りの第一矢です。門番はどうっと倒れ、ぴくりとも動きませんでした。
門番の死の後、どうやら守護陣は決壊し、そこへどうっとプリア家の旗を掲げた兵が押し寄せてきたのです。
俺達はしばし抵抗したものの、最終的には捕らえられ、カーサ・ヴェーデ――プリア家の陣営に連れていかれました。
団長のおっしゃる通り、守護陣はちっとも完璧じゃなかった。だけど今でも、なぜあんなふうに壊れちまったのか分からんのです。何やら得体の知れない代物だってことだけは、他の団員にも急ぎ伝達されました。そして、あの反乱の後、大聖堂を飛び出したあなたを追ってテルセ邸に向かった奴らが見たのが、あの守護陣です。そんで怖じ気ついちまった奴らは、守護陣に踏み入ることができずに周りをうろうろするしかなかったそうで。
カーサ・ヴェーデは地下に牢獄を隠し持っており、俺達はそこに連れていかれました。じめじめとしたかび臭い牢で、たった三週間抑留されただけなのに体調を崩す奴まで出ました。だけど、騎士団長がされたことに比べればどうってことなかった。
騎士団長は、俺達とは別の牢につなげられていました。俺達が連れていかれた頃には、もう片腕が落とされて、手当もろくすっぽされずに放っておかれていたのです。団長は大量に血を流したせいか、意識も朦朧としているようでした。それでも残っていた手にあの手紙を握り締め、なんとか意識を手放さずに堪えていた。だけど……ねえ、信じられますか。あいつらは団長をいたぶり楽しんでいやがったんです。
俺達は牢に入れられてそれだけだったが、団長だけは毎日どこかへ連れていかれ、ボロボロになって帰ってきた。顔は傷だらけで、腕を斬りおとされた肩には蛆虫が湧いていた。片足は折られ、それでも一人で立たされ追い立てられていた。
食事も、あいつら、ろくなもん出していなかった。明らかに腐った食べ物を置いて、にやにや笑いながら食べてみろ、と団長に言うんです。本当に酷かった。俺達は何度も言ったんだ、このままだと死んでしまう、せめて手当をしてやってくれ、と。だがあいつらは決まってこう返してきやがった。じき死ぬってのに、何を気にすることがあるんだ、と。
「すみません」
初めて、話を遮ってしまった。
震え始めた青年を、話し手は哀れむように見つめる。やがてゆっくりと腰を上げ、戻ってきた時には、その手にぶどう酒を持っていた。
「少しは温まる」
そう言われて、青年は初めて自分が寒気を感じているのに気が付く。ほどよく温められたぶどう酒が喉を通ると、カッと体に熱が灯るのを感じた。
「酷な話をしてしまった」
首を振る。話し手は、この話をしたことに後悔しているようだった。だがこれは、どれだけ胸がいっぱいになって張り裂けそうになっても、聞かねばならないことなのだ。そうでなければ、青年が編む歴史に価値はない。
「どうぞ続けてください。父は……いったい、どうやって死んだのか。僕は聞かなければならないんです」
「無理する必要もないんじゃないか」
老兵のその甘やかな提案に、ともすれば頷いてしまいそうな自分を律し、青年は断固とした口調で言い放った。
「続きを」
――そりゃ、いつかは死ぬんだろうさ。その時にはもう、俺達も状況を何となく察していたし、いずれ俺達は殺されるのだろうと腹を括っていた。だが、ただ首を切られるのと、さんざん辱められて衰弱するのとじゃ訳が違う。何度も懇願したさ。その人も人間だ、尊厳を失わせないでくれ、と。あいつら、それにも嘲笑しやがった。いわく、異教徒に持つべき尊厳があるのかね、だと。俺らは我慢できなくって、牢越しに罵詈雑言を浴びせてやった。だけど、ちくしょう、腹が立ってきた。……俺らは結局無力な俗民だ。ただプリア家に恨まれていないってだけで、団長と同じ苦痛を逃れただけだった。俺らが喚いたところで、あいつらにとっては足元で鳴くコオロギのようなもの。大聖堂というあの貴き陛下の庇護あるところでは何とか人間の端くれみたいに扱われていた俺達も、その庇護から離れてしまえば、そんなもんだった。
ところで、もうお気づきかもしれませんが、実はこの時、トゥーラン、あの強運の持ち主、トゥーラン・スエルトの野郎は一人危機を脱し、王都に救援を求めていたんです。俺達はてっきり見捨てられたのかと思って、牢でさんざ悪く言ってたんですが――あいつには言わんといてくださいよ――幸いだったのは、トゥーランの話を聞いた陛下が、すぐに王国軍を救援に向かわせてくだすったことです。やれやれ、あいつは一体どんな手を使ったんだか……。いずれにせよ、何とか王国軍に助け出された俺達ですが、しかし団長にはそれでも遅かった。
もうどれくらい時間が経ったのか分からないくらい……団長も力なく壁にもたれかかって、果たして生きているのか死んでいるのか判別できなくなった時のことです。俺達は、ふいに頭上が騒がしくなったのに気が付きました。俺達は顔を見合わせ、緊張に震えました。救援が来たのか、あるいは――その時が来たのか。
やがて足音荒く、一人の女性が降りてきました。艶やかな黒髪を高く結い上げ、真っ赤な口紅が薄暗闇でも不気味なくらい鮮やかなその女性こそ、シニョーラ・プリアでした。後になって知ったのですが、シニョーラ・プリアはカーサ・ヴェーデの会頭の娘で、その財力を背景にプリア家と婚姻を結んだのだそうです。カーサ・ヴェーデはシニョーラ・プリアの実家だったので……いや、あの人は元々そうか……傍若無人に振舞っていましたよ。
あの女は、団長の牢に入ると、突然団長を蹴飛ばしました。団長はもうかなり弱っていて、うめき声も上げずに床に転がりました。シニョーラ・プリアはその首をひっつかむと、耳障りな声で喚いていました。あの混血め、鼠のように逃げ回りやがって、とか、山羊ごときにこんな目に遭わされるとは、とか何とか言ってましたっけ。そして……そしてやがて、その手を団長の首に置くと締め上げ始めました。俺達はシニョーラが纏う狂気に一言も発せられないでいた。団長は抵抗することなく、やがてその体が弛緩してぐったりと横たわりました――戦場でもなく、陛下から賜った屋敷でもなく、遠い港町の汚い牢で、団長は死にました。
団長は既に、生きているのも不思議なくらい弱っていました。あの時……あの女に殺された時……あまり苦しむこともなかったと思います。何の慰めにもならないかもしれませんが……。
シニョーラ・プリアは、しばらくせいせいした、とでもいうように団長の遺体を蹴飛ばしていましたが、やがて段々焦ったようにその周りを歩き始めたのです。どうやら王の懐刀を殺したことにより、王の怒りを買うことを恐れていたようでした。ただ殺したならまだしも、あんなふうに嬲り殺したわけですから、そりゃ恐れもするでしょう。人ひとりを殺したことに関しては、微塵も後悔なんざみせません。ただ犬を叩き殺して、飼い主に見つからぬようその死体をどこにうっちゃるかだけを思案しているようでした。
しばらく歩き回ったシニョーラ・プリアは、やがて足を止めると、部下に命じたのです――団長の遺体を切り刻んで、海に捨ててしまえ、と。
それからのことは……俺の口からはとても言えません。とにかく、シニョーラ・プリアのその命令は実行されました。俺達の目の前で。俺達も大勢の人間を殺してきましたが、まさか遺体をあそこまで踏みにじることはしたことがありません。あたりに漂う血の臭いと目の前の惨状に、何人かは嘔吐し、失神した奴もいました。俺は吐き気に悩まされながらも、それでも目を離しませんでした。あいつらの悪魔の所業を見落とすまいという一心です。あいつらは、異教徒たる団長を神の僕として殺したという。だが実際のところ、あいつらは我々の神を口実にして一人の人間を殺し、我らが尊ぶ存在を穢した。そして一人の人間を、あなたの父上の尊厳を奪ったのです。許せません。とうてい許せませんでした。
――団長は幾つかの肉塊になり、運ばれて行きました。あたりには静けさが戻り、団長が居たことを証明するのは錆びた鉄の香りだけとなった、その直後です。再び頭上が騒がしくなり、人影が牢獄に降り立ったのは。
それは、一人のフロウでした。銀髪を結い上げ、深紅のローブにはヒイラギの葉を象った金細工が光っていた――団長と同じ姿で、シニョーラ・テルセは立っていました。
「遅くなってしまってごめんなさい」
鍵を開けて、俺達を解放するとシニョーラ・テルセは暗い目で奥を――団長が監禁されていた場所を――見つめました。
「あの人は?」
あの目を見て、果たして真実を告げられる者がいるでしょうか。俺はその瞳に、どうしても残酷なことを言えなかった。この国は、この国の為に働いてきたあなたの夫を、嬲って切り刻んで捨てたのだと。そんなこと……この国で生きると決めたあのフロウに、告げられるわけがない。
「シニョーラ・プリアに連れていかれました。シニョーラ・テルセ、まずは俺達と一緒にここを出ましょう」
あの方は賢かった。俺の言葉を希望に縋って解釈する様子もなく、緑の瞳に涙を浮かべながら、それでもこちらを真っすぐ見つめたのです。
「カーサ・ブランカに、トゥーラン・スエルトが待機しています。あなた達は、そちらへ」
そして真紅の――大聖堂の守護を司るそのローブを翻し、階段を駆け上がっていきました。俺がシニョーラ・テルセを見たのは、それが最後です。
ポーテ・ジュールの反乱の折、俺が見たのはこれで全てです。団長が運ばれていった後、もうずいぶん前にくたばったあの神父の言葉が繰り返し思い出されました。善き人であれ、他人を思いやれる人であれ、己に恥じない人であれ。あの反乱の直後、大聖堂を辞した時にもあの人の言葉が脳内に響いてやみませんでした。
今でも考えます。あの時、真実を伝えればシニョーラ・テルセは一緒にカーサ・ブランカへ戻ってくれたのかと。だけどいくら想像したところで、最後に見たあの人の涙は記憶に焼き付いていて、いくら懺悔しても消えることはありません。
――少し休んでお行きなさい。あなたの今の顔を、トゥーラン・スエルトに見せたくないんです。あなたが真実を知って悲しむことを、あいつは何よりも恐れていたから。
温かな炎が暖炉に揺れている。少し汗ばむくらい温められた室内に、まだ幼いテルセ家の公子は父の膝に乗っていた。ほとんど喋ることのない父だったが、父が持つ赤銅色の剣を撫でながら息子が口にする質問に対して、真剣に考えながら答えてくれていたのを覚えている。
「じゃあ、ここに彫ってある葉っぱは何の意味?」
柄頭に彫ってある葉は何度も触れられたのだろうか、少し角が取れて触り心地が良かった。テルセ公子はその彫りを再現するかのように撫でて、父に尋ねた。
「オリヴァの葉だ。そういえば昔、戦のたびに母がオリヴァの枝を探してきていたな」
「どうして?」
薪が爆ぜる音がした。暖炉の炎を映し込んだ父の目は、どこか遠くを見ているようだった。父は考えに耽りながら、息子の頭をくしゃくしゃと撫でている。
「……父が無事に帰ってこられるように、あと、戦が無くなって皆が穏やかに暮らせるよう祈るために」
「じゃあ、この葉は平和を表しているんだね」
平和、とその言葉の響きを味わうように父は繰り返した。やがて小さく頷いて膝の上の子どもに微笑む。父が口にしたその言葉は、同じもののようで全く違う味わいを持っていた。テルセ公子は父の静かな笑みに落ち着かず、手元の剣を見る。そうしてしばらく、丸くなった角を指で撫でていた。