二
その王国の中枢機関である大聖堂の西には、いつの頃からか白大理石で造られた建物があった。これはかつて大聖堂が真に祈りの場であった時、上位の聖職者の居館として建てられたと考えられている。彼らは聖職者と同時にこの国の学問を司る者達だったため、後世には研究機関としての機能が発達し、王立学院となったのだと推測されていた。いずれにせよ、現在王立学院として活用されているその建物は、どれくらいかは不明だが悠久の時を経てもなお、光を纏うよう白さを保っていた。これは学生の見えないところで、何百人もの従僕が磨いて維持しているとの噂である。そして正面の柱には、林檎の木と蛇がレリーフで刻まれていた。この世で最も聖なる書では、蛇が神の目を盗み、人間に甘美な知恵の実を覚えさせたのだという。そしてこの国の知恵を司り、守護するのが、この王立学院の使命である。
――最も、この楽園を導く先達は、見栄えのいい実を選別しているのだが。
講義を終え、めいめいの帰途についている黒衣の集団に揉まれながら、青年は憂鬱な気分になる。
その青年は小柄で、黒い人だかりにともすれば溺れそうなほどだった。体の線も細く、たっぷりとしたローブを羽織っていてもなお、華奢な印象を与えた。その脆い印象とは対照的なのが、その背に背負う剣だ。筆を貴び剣を厭う学士には珍しい、黒革に覆われた柄に赤銅色の鞘を持つその剣は、青年の背丈ほど大きい。そしてそのせいで、青年はなおのこと小柄な印象になってしまっている。一見頼りなさげな見た目になってしまっているが、それでも目元を見ると、その青い瞳に浮かべる強い光がいかにもこの王国を司る王立学院の一員らしい。
が、今はその光もどこか悲し気だ。
青年は学士の壁に囲まれ外から見られないのを幸いに、大きなため息をついた。
――今年王立学院の修了を目指すものは、もうじき指導官に論考を提出しなければならない。今日学内に告げられた言わずもがなの通達に、心が一段と重くなったばかりである。古今東西の学生を悩ませる締切に、その青年も苦しまされていた。
他の学士は退院の途につきながら賑やかに議論を交わしている。時間への憂いなど微塵も感じないその様子に、つい羨ましくなる。
夕日の日差しは強く、皆目を眇めて手をひさしにしている。赤光が彼らの黒いローブの表面を撫でていた。青年の憂いなど放っておかれた、穏やかな夕暮れ。そんな中、王立学院内から威勢のいい声が飛び出してくる。
「シニョール・テルセ!」
呼ばれた青年は、慌てて黒衣の学士の中から飛び出し、王立学院内に戻った。外とは打って変わった薄暗さに、目がチカチカした。ふらふらしながらも、何とか、青年と同じ黒いローブを身にまとう人物の前に立つ。
「マエストロ」
長い金髪を一つに結い上げ、白皙の顔には緑の瞳が輝いている。美麗な雰囲気を纏っているがその一方、王立学院内で最も厳格だと評される教官だ。専門は古代民族が残した書の解読で、史学を修める青年の副指導官でもある。今回青年が行っている聞き取り調査の段取りにも協力をしてもらったため、青年の頭が上がらない人物の一人であった。
その副指導官が、青年をじっと見つめながら訪ねてくる。
「調査は進んでいる?」
青年は返答に詰まる。副指導官が案じていることはよく分かっていた。王立学院でマエストロの資格を得て大聖堂の編纂院に勤めるために、今書いている論考は非常に重要なものだ。年内に提出し、正副の指導官三名から合格をもらわなければ、大聖堂内で職を得るのがまた一段と遠くなる。青年は今年二十歳で、既に一家を担う長だった。大聖堂内で地位を得なければ、家長の役目を果たせない。大聖堂で昇進するには、役職を得なければならない。――そしてそのためには、一刻も早く王立学院を修めなければならない。青年は日々じわじわと追い詰められるような気分になり、息をするのもままならない気分だ。
そんな青年の焦燥をよく知る副指導教官は、
「急かしているわけではない」
と柔らかく微笑んで見せる。
「ただあなたの論点は、やや特殊な上にその学問的価値を示すのに苦労しそうだから……」
「特殊ではありませんし、価値がある大事なことなんです、この国にとっても……テルセ家の歴史にとっても」
言葉を遮られた師は諫めることもなく、じっと青年の背にある剣を見つめる。
「その通り。だが、あなたの正指導教官は不服を示している。そのことを忘れないように」
気難しい指導教官の顔が浮かぶ。青年の関心事は彼にとっては王国史における塵のようなもので、「こんな論題でマエストロの地位をもらえると思うな」とさんざん叱咤されていた。
「……はい、マエストロ」
その時、背後から誰かが近づいてくるのに気が付いた。振り向くと、同期の女学士が立っている。彼女もまた、青年と同じ副指導官についてもらっていた。彼女に微笑みかけた教授は、青年の肩を励ますように叩くと、そのまま去っていく。女学士はその背を見送ると、
「調査は進んでいる?」
副指導教官と同じ質問に、ため息をつく。
「正直言うと、あんまり。やっと一人目に話を聞けたところだ」
「聞き取り調査を取り入れたことで、通常よりも時間のかかる研究になりそうね」
これまで文献調査しか行われてこなかった王立学院での研究に対して、青年は当事者への聞き取りを積極的に行っている。これまで古い文献で語られている事柄ばかり研究していた王立学院の中で、青年が取り扱う論題はかなり浮いていた。何しろつい三年前に起きた反乱を史学的視点から語るのだ。斬新な論題や手法を取り扱っていることは評価されるだろうが、それも論考が完成しなければ何の意味も持たない。
「だけど私は、あなたらしくていいと思う」
地方に散らばる民話の収集・体系化に血道をあげる青年は、王立学院内でも大道を外れた存在だった。副指導官やこの同期生は高く評価してくれているが、他二名の指導官には論題や考察方法に不満を示されている。この研究が失敗に終われば、ますます王立学院で肩身が狭くなることだろう。編纂院にも行けるかどうか。
「どうしよう、崖っぷちだ。あの人にも嫌味を言われるんだろうな」
あの人、という青年のぼやきに女学士はぴんときたようだ。
「あなたの後見人が勢いに乗っている今なら、編纂院で位を得るのも難しくないんじゃないかしら」
青年の後見人は大聖堂内でも際立った存在であるため、よく人の口にのぼる。官僚育成機関のアスクエラを首席で卒業し、大聖堂内で役職を得た非聖家出身の若き文官。聖騎士団長の副官を務めていた時代から、軍議では一番の発言力を持っていた。当時のテルセ聖騎士団長が軍議に出席しなかったため、彼の副官である青年の後見人の発言は重く見られていたのだ。さらに三年前の反乱鎮圧で誰よりも活躍した人物であるため、テルセ聖騎士団長が死去してその位を継いだ彼は増々勢いを増していた。次期枢機卿に有力視されているとも聞く。後見人が大聖堂内を掌握しつつある今が、青年にとって大聖堂入りの好機であることは間違いない。だが後見人は公私を厳密に分けている。かつての上官の遺児であろうが自分自身が後見についている若者だろうが、一切考慮することはない(それが後見人の唯一といってもいい美点であるのだが)。おまけに口が悪く皮肉屋で、青年と口論になることもしばしばだった。
「あの人を見ていて、そんなうまい話になるとは思わないなあ」
苦笑して見せると、同期は首をすくめて王立学院の外に促す。二人は肩を並べて歩き出した。
「それで? 今度は誰を訪ねるの? この間はかつてテルセ家の使用人だった人でしょう」
「今度は退役した聖騎士団員だ」
かつてテルセ聖騎士団長のもとで公務についていた男性で、現在は王都のはずれに屋敷を構えている。
「根を詰めすぎないようにね」
同期は最後にそう言い残すと、彼女の屋敷から来た馬車に乗って帰っていった。青年はその背を見送り、意を決して後見人のもとに行こうとした。するとそこに、行く手を阻むように立つ影がある。
――まさに話に挙がっていた、青年の後見人だ。
青白く気品ある顔立ちの後見人は、騎士団長よりも王立学院の教授の地位がしっくりくる。実際、彼はその頭脳の明晰さで現在の地位に登りつめたのであって、騎士団長という立場にありながら剣を持つのも覚束ない。聖騎士団はその名の通り、かつては大聖堂に仕える護衛団だった。月日が流れ、大聖堂の主が一国の主となる横で、少しずつその立場が変化していった集団だ。先代テルセ騎士団長の時には、聖家の傀儡である王国軍に対して、国王が有する唯一の対抗手段として暗躍していた。現騎士団長の代は、非公式な国王の私兵団という立場こそ変わらないものの、血を流す前に政治的駆け引きで聖家、そして民に国王への忠誠を誓わせている。小手先で災難を避けるこの「武装集団」は、由緒正しい聖騎士団の勇猛さとはかけ離れている――そう非難する者も少なくない。
そのうえ、この後見人は純血の王国人ではない。詳しい生い立ちは分からないが、明らかに見た目が異教徒の趣を残しているのだ。その秀麗な顔立ちから、彼がフロウの血を引いているという噂もあながち間違っていないのではと思えてくる。彼の出自についてはほとんど知られておらず、娼婦の息子とも、どこかの聖家の私生児ともいわれている。青年にとってはそのどれであっても後見人であることに代わりはない。しかし大聖堂内ではその秘された出自さえも疎まれているようだった。それでも後見人はあっけらかんとしており、どんな非難もどこ吹く風といったふうに聞き流している。
「こんなところで雑談している余裕はあるのか?」
案の定、開口一番に嫌味を言われた。青年は首をすくめ、後見人の横に立つ。
「休憩です」
「いい加減王立学院を修めてもらわなけりゃ、おちおち引退もできやしない。今年こそ修了してくれよ」
ここ最近、この後見人はよく「引退」という言葉を口にするようになった。まだ歳若く、前途有望な官吏だ。冗談かと思いきや、意外にもその目に灯るのは真剣そのものなので、いつも青年は答えあぐねて口を閉ざしてしまう。そうすると、後見人は苦笑しながらその頭をくしゃくしゃと撫でてくるのだった。もう青年は二十だというのに、後見人にとっては未だに、出会った時のひ弱な子どものように思われているようだ。