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テルセ家の回想  作者: 中根小藤
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テルセ家をお暇してはや二十一年、まさかあの家のことを尋ねられる日が来ようとは。拙い話の慰めに、お茶をお出ししましょう。貧しい家で大した物もお出しできませんが、庭で取れたバラで煎じた茶があるんです。

 ……さあ、どうぞ。そうそう、お茶を入れている時に思い出しました。このバラの中の一部は、シニョーラ・テルセからいただいたものなのです。テルセ邸を出ていく時に、シニョーラ・テルセが一株分けてくださいました。深い緑色の花弁を持つバラです。あの時いただいたバラは、残念ながら枯れてしまったのですが、他のバラと交わらせて、丈夫で新しい花を咲かせるのに成功したんです。このお茶は、その花から作ったんですよ。

それで、今日は何をお話しすればよいのでしょう。お手紙を拝読いたしましたが、どれだけ考えても、王立学院の学士様が興味を持ちそうな話など持っていないのです。もしかして、テルセ家の話を基にフロウやツィースのことをお書きになるのですか? フロウやツィースといった異教徒は、確かに王国の歴史と切っても切れないものです。しかし学士様、お忘れなく。ツィース出身のシニョールも、フロウ出身のシニョーラも、両人とも一族のはぐれ者です。彼らの話を聞いたとして、それがそのままフロウやツィースの一族に当てはまるわけではありません。とりわけシニョールは、ツィースの言葉も話せなかったのです。シニョールは肌の色や目の色が変わっているだけの王国民だったといえるでしょう。

――あなたの希望がないようなので、まずは私がテルセ家に行くことになった経緯からお話ししましょうか。

私は現王即位に際しての後継争い、いわゆる〈聖戦〉の中で両親を失くしました。現王が戦火を民衆に広げないよう、従弟王太子を平野に誘導した上で彼を打ち取った話は有名です。しかし――史書に通ずるあなたには言うまでもないかもしれませんが――王都に戦火がまったく及ばなかったわけではありません。彼らはこの都にある大聖堂を巡って争ったのですから、当たり前と言えば当たり前でしょう。聖家だけでなく、下々の家も壊されてしまい、木材屋、石材屋は随分儲かったと聞いています。そして――その飛火で失われた聖家の屋敷の中で、私は両親を失ったのです。両親は従弟王太子派の聖家のもとで奉公していたのですが、王太子を匿ったために屋敷が焼かれ、その時両親は主人と運命を共にすることとなりました。その時、私はたまたま用事を言いつけられていて、屋敷に居なかったため助かったのです。用事を済ませて帰ってみれば、屋敷は真っ黒、私は天涯孤独の身となっていました。

古今の戦において、このような話は珍しかったわけではありません。ところが王妃がこの話に胸を痛められ、私達戦争孤児や未亡人は、王妃の館で奉公することになりました。後で知ったのですが、この時陛下は王妃に反対していたそうですね。素性の分からない者を身近に置いては危険だと。まったくその通りだとは思いますが、王妃は聞き入れなかったのでしょう。王妃は大聖堂の白百合としてその美貌が市井でも知られていますが、その一方で強気かつ頑なな性格で、国王の言さえも聞き入れないことのある方なのです。しかし、そんな王妃のおかげで私達は二年ほど、王妃の住まいである〈西風館〉で侍女として働いていられました。幸運なのは、この時読み書きを身に着けることができたこと。これは、王妃は元々王立学院で古い書物を研究する学士で、王国民は須らく文字を習得すべしと考えていらっしゃったため、私達のうような小間使いにも自ら読み書きを手ほどきいただいたからです。

日々の生活が目の前のことで一杯いっぱいだと気が付かないものですが、読み書きが出来ることで助かる場面は実はたくさんあります。今日だって、あなたからの手紙を読めなかったら、二十一年も前の日々を思い出そうとはしなかったでしょう。今日こうしてお話しできるのも、あの時手に入れた文字があってこそなのです。

さて、私達は〈西風館〉で何とか生き伸びていたものの、二年後には大聖堂の財政悪化のため、王家を出て各聖家に遣わされることになりました。王妃は責任感の強いお方で、その手配も御自ら行われたと聞きます。そしてこの時に私が遣わされたのが、異教徒が家長のテルセ家だったのです。

ここで一つ、あなたに約束してもらいたいことがあります。今から私が話すことを、フロウやツィースの在り方を歪曲し、彼らの名誉を貶めることには用いないでいただきたいのです。――約束していただけますね? 


――テルセ家に遣わされると知った時の気持ち、ですか。正直に申し上げると……あの時私は、蛮族に売られた、と思っていました。私もかつては、この王国の殆どの人達のように、ツィースとフロウは卑しくて、私達より劣ると思っていました。現王はツィースを聖騎士団長に任命するほどの公正公明な目をもっている方です。現在の欽定典範では、ツィースやフロウ等の異教徒を卑しんではならないことになっています。しかしいくら地面を均しても、その上を走る全ての馬車が揺れないなぞありえません。現王の御心に皆がそぐわないのは当然のことで、それは身分の尊卑に関わらないのです。例えばフロウには材木や石材の取引でさんざんお世話になっているはずの商人でさえ、彼らのことを、王国の言葉もろくに喋れない「森の猿」だと揶揄しています。近所の子どもも、ツィースのことを「砂漠の砂を噛む山羊」と呼ぶのです。聞くたび注意していますが、残念なことに、彼らの親は暇を持て余した者の戯言と取り合う様子もありません。

――もっとも、私とて、テルセ家で仕えなければ、ツィースやフロウが王国民と同じ人間だと気づくこともなかったのですが。

だからテルセ家に行くと決まった夜は、枕に顔を押し付けて、声を殺して泣きました。とりわけテルセ家長の出身である異教徒ツィースは、先代アンガル王が殲滅し、生き残った人も当時の枢機卿主導のもと、〈教化〉という名目で嬲り殺された者達です。シニョール・テルセは現王の盟友で、当時既に聖騎士団長という確固たる地位にあられる方でしたが、それでも王の目の届かない屋敷では、王国への報復として酷い目に遭わされるのではないかと気が気でなかったのです。〈西風館〉を去る際には幾ばくかの金貨ももらえましたから、その金貨を持って逃げることも考えました。しかし当時私は幼く、嫁ぐ先や、匿ってもらう先などない貧乏人でした。少しでも生きながらえるには、テルセ家で身を縮めてやり過ごすしかないと思っていたのです。

ところが、いざテルセ家に行ってみるとそんな気持ちはすっかり忘れてしまいました。

テルセ家へ初めて訪れた時のことは、今でもよく覚えています。あの日尋ねると、テルセ家の屋敷にはなんと召使いが一人もいなかったのです! テルセ家は元々従弟王太子と共に滅亡した一族で、シニョールが聖騎士団長に就任する際に、王国で由緒あるその姓を継ぎました。今あるテルセ家が、時にテルセ・ヌオボと呼ばれるのはそのためです。シニョールは、姓と同時に旧家――この場合、テルセ・アンティグオとなるのでしょうか――が王都に所有していた別邸を継いで本邸としたのですが、その屋敷には何十もの部屋がありました。当然、下働きも何十人と雇うのが前提の仕様と規模です。ところが当時その屋敷にはシニョーラとシニョールしか住んでおらず、身の回りのことも全てご自身でされていました。〈西風館〉から乗ってきた馬車を降りて、古い樫の門をくぐり屋敷の全貌を見た時、私は心底ぞっとしました。この広い広いお屋敷を、一人で掃除するだけでも何日掛かることやら……不安な気持ちのまま、シニョーラを探すことにしました。白い壁に黒の窓枠という簡素な見た目の屋敷を入ると、何百人もの人が踊れそうな広間が現れます。その中央階段を上がると、旧家が所有していた際には大きな絵画が飾られていたのだと思しき跡がありました。頭上のブドウの房をモチーフにした飾り照明には、もう何年も蝋燭が立てられていないのでしょう、分厚い埃が積もっています。階段の手すりもささくれ立っていて、足元だけは入念に確認されているのでしょう、軋むような様子はありませんでした。

既に絶望していましたが、とりあえず奥へと歩を進めます。もちろん掃除が行き届いているはずもない、埃っぽい廊下を歩きながらシニョーラを探したのですが、中には人気がありませんでした。そこで回廊から外に出て、たどり着いたのが中庭でした。

――素敵なお庭でした。プリア家や大聖堂のお庭とは違ってこぢんまりとしていたのですが、手入れのよくされたお庭です。

深緑のバラを中心に据え、回廊に沿ってぐるりと壺が並べられ、その壺には鮮やかな赤い花弁を持つ花が咲き誇っていました。その紅は白いお屋敷の壁と対照的で、それが庭の中で一番華やかな雰囲気を引き立てているのでした。バラはその華やかさを落ち着かせるように中庭の中央に座し、艶のある花びらを目いっぱい開いて、鼻の奥まで届くような甘い香りを漂わせています。思わず立ち止まり、庭を見ながらバラの甘い香りに胸を満たしていると、ようやくバラの陰に人影を見つけました。

私が始めてお屋敷に伺った日、シニョーラはバラを手入れしていたのです。シニョーラ、と声を掛けると、その人はひょっこり顔を出して顔に満面の笑みを浮かべられました。

その時、私は初めてフロウに会いました。おとぎ話ではフロウは森の妖精として出てきますが、確かに私達王国の人間とはどこか違う姿をしていました。長い髪は一本一本が繊細な銀細工のようです。肌は日の光を吸い込んで白く輝き、艶やか。瞳は深い緑色で、シニョーラの前に咲くバラと同じ色をしていました。顔の造作はまるで完成された彫刻のそれのようなのに、浮かべる表情はどこか幼く、その不均衡な様子がまたシニョーラの魅力として映し出されるのでした。

シニョーラはくすんだ黄土色をした木綿のスカートを纏っており、青の前掛けのポケットには、剪定に使用するのでしょう、はさみや手袋が見え隠れしていました。恐る恐る名乗ると、シニョーラはにっこりと笑って頷きました。

「話は聞いているわ。いらっしゃい、お茶を淹れましょう」

そうおっしゃると、手ずから茶を淹れてくださったのです。シニョーラが向かったのは、なんと旧家では下男下女の居住区域として使用されていたところの厨房でした。後にシニョーラにそのことを指摘すると、「こっちの方が手を伸ばせば届く範囲にものを置けるから、落ち着くの」と笑っていらっしゃいましたね。私は飾らないお人柄に、改めてほほえましく思ったものです。

さて、シニョーラがお茶を振舞ってくださった時の私といったら……いろいろなことに驚くばかりで、断ることも、私がやりますとも言えませんでした。シニョーラと私は、あまりにも見ている世界が違っていました。この場合だったら、湯を沸かし、茶を注ぎ、茶器を片付けるのは私で、シニョーラの仕事はその茶器を口元に運ぶことだけ。それが私の知っている世界でした。ところがシニョーラはそんな道理も知らず、使用人としてやってきた私に茶を注ぎ、客としてもてなしている。それまで見ていたものと何もかもがあべこべで、私はただただシニョーラのやり方にあ然とするしかありませんでした。

でも……今思い返すと、王妃はそのために私を選んだのかもしれません。王妃は、下女の中でも一番幼く、卑しい身分の出身である私をシニョーラ・テルセにあてがいました。当時私は十四歳でしたが、シニョーラはそれよりもずっと年上だったと思います。ただ、子どもっぽいというか無邪気というか、ちょっとした仕草にも稚気が感じられるお方でした。それに何より、道理を心得ていなかったのです……いえ、この表現は正しくないですね。私達の世界の道理です。シニョーラにはフロウとして生きる中で、フロウにとっての道理を身につけられていたはずです。ただその在り方は私達と異なり、それがシニョーラをより幼く見せていたのでした。よく言えば、天真爛漫で、この世にある人は皆平等で対等だと無邪気に思っている様子でした。だからこそ、シニョーラの使用人には、まだこの王国の道理に染まりきっていない、そして身分に囚われない者が選ばれたのではないのでしょうか。

お茶を飲んで落ち着いてから、私はようやくシニョーラに申し出て、茶器を片付けることができました。シニョーラは不服そうでしたが、私の気まずさ故の必死さに負けたのでしょう、好きなようにさせてくださいました。それでも私が厨房で茶器の片付けをする横で、足をぶらぶらさせながら椅子に腰かけ、こちらを嬉しそうに見ていました。そして私に何気ない質問を投げかけては、私が困ったふうに答えるのを楽しそうに聞かれていました。シニョールは日中大聖堂に出仕されていたので、それまではたった一人であの広い屋敷にいたのです。よほど寂しかったに違いありません。年下ながら、つい憐憫の情を抱いてしまったほどです。楽しそうなシニョーラを見ていたら何かお話しでもしようかと思いたち、

「フロウのもとでは、使用人を使わなかったのですか?」

 シニョーラに、ふとそんなことを尋ねてしまいました。シニョーラの苦労の知らない無邪気さからして、フロウの中でも身分の高い人だったのだろうと推測したのです。シニョーラはしばし考え込んでいましたが、

「姉と二人だけで暮らしてたの。自分のことは自分でしていたわ」

 そう言って、少しだけ遠い目をしました。もしかしたら、自分のよく知る世界を思い出して、懐かしがっていたのかもしれません。しかし口には出されませんでした。

――その日以降、シニョーラは私に身の回りの世話をさせてくださいました。今思えば、シニョーラはシニョーラなりに、この王国に必死で馴染もうとしていたのでしょう。その健気さといったら、例えば、私がテルセ家にいた十年間、フロウの言葉を耳にすることは一度もなかったほどです。シニョーラの話す王国の言葉にはやや鼻にかかったような訛りがありましたが、どんな時にも――それこそ、独り言を言う時でさえ――王国の言葉を使い続けていました。


器が空ですね。もう一杯、お茶はいかがですか? 私はあの日、シニョーラにお会いした時初めてこのお茶を飲みました。ほのかに花の香りが鼻を通って、甘く感じませんか? そういえば、幼い頃世話になっていた家では、時折シニョール方が残した茶を飲むことがありました。ところがそれはとても香りが弱く、上手く色も出せない葉で、蜜を入れてごまかしながら喉に流し込む代物だったのです。対してこのバラの茶は、深い緑色の花弁がそのまま溶け込んだような色で、テルセ邸で朝窓を開けると入り込む、あの瑞々しい香りまでもが閉じ込められている。同じ茶なのに、不思議なものですね。

――さて、シニョーラに初めてお会いしたその日の夕方にはもちろん、シニョールにもお会いすることが出来ました。

屋敷に静かに入ってきたシニョールを見て、シニョーラはぱっと顔を輝かせて駆け寄っていったのを鮮明に覚えています。シニョールは精悍な顔つきをされていて、日に焼けた小麦色の肌に灰色の瞳が鋭い光を放っていました。深紅のローブを身にまとっていて、ローブはヒイラギの葉を象った金細工で留められてあります。シニョーラに比べて落ち着いた印象ですが、悪く言えば陰鬱な雰囲気がありました。しかも口を開くと訛りの強い言葉を話されました。シニョールもその聞き苦しさを気にしてか、私の前ではあまり喋ろうとしませんでした。

私が挨拶をすると、シニョールは小さく頷いて、話は聞いている、とだけおっしゃいました。それからローブを脱ぐとシニョーラと共に食卓に着き、シニョーラの用意した簡素な食事を口にし始めました。私はお二人の横で、揺れる炎の影を見つめていました。その夜の食事は、全てシニョーラが準備も片付けもしてしまっていたので、ただじっと傍にいるほかなかったのです。

シニョーラはシニョールを前にすると、私のことなどすっかり忘れたかのように、シニョールに夢中でした。ひそひそと何かを話しながら、楽しそうに笑っていました。シニョールもまた、それに対して何やら小声で返していらっしゃいました。もっとも、シニョールの方は私の存在を忘れることはなく、時折申し訳なさそうにこちらに目を向けていらしたのですが。私はシニョールの目と視線が合うたび、小さく笑って首を振って見せました。まったくシニョーラは無垢な乙女のようで、その様子は夫婦というより、兄妹のようでした。

ああ、つい饒舌になって。……こんなことまで話してしまえば、いよいよ私がテルセ家をお暇した話をせずにはいられなくなる。先に断っておくと、全て私が悪かったのです。私が身の程を弁えずにシニョーラに喋ったことが、お二人の関係を変えてしまい、そして私が逃げるようにテルセ家を出て行くことにつながってしまいました。できれば忘れてしまいたいし誰にも話したくないことですが、ここまで来たらお話しすべきでしょう。ただどうか、この話を面白おかしく言いふらすなんてことはなさらないで。


先ほど、シニョーラとシニョールは夫婦というより兄妹のようだと言いましたが、実際、シニョールはどちらかと言えば、シニョーラを妹のように可愛がっていらっしゃいました。シニョーラを見つめる眼差しは優しく慈愛に満ちていましたが、そこには情欲の色は一切ないように見えました。さらには、お二人は決して寝台を共にすることはなく、お部屋も別々にされていたのです。

お部屋は隣同士ではあったのですが、互いに行き来することは決してありません。私はシニョーラの部屋を挟んでシニョールの部屋と反対側の部屋をあてがわれました。そんなの、お二人の様子が壁越しに伝わってきてしまうと思いませんか? そのため、屋敷に行ってからしばらくは、寝台に横たわるときは何も聞くまい、聞く前に寝てしまおうと目を閉じていたものです。ところが思いがけず、お二人の夜は静かで、めいめい、お部屋で就寝されていたのです。当然ながら、お二人の間に子どもの様子はありません。

ところが不思議なことに、シニョーラはお子様を切望されていました。ある日、シニョーラがシニョールのお迎えに上がった時のことです。シニョーラは時折、シニョールを大聖堂まで迎えに行くことがありました。そして馬に乗って出てきたシニョールはそれに気づくと、いつも馬から下りてシニョーラと並んで歩いて帰られていました。心なしか足取りもゆったりしていて、まるで若い男女が束の間の逢瀬を惜しむかのよう。その日もやはり、お二人は時間をかけて大通りを歩き、テルセ家に向かっていました。そこに現れたのが、花売りの少女です。少女はしおれた花を籠にいっぱい入れて、うつむき加減に歩いていました。シニョールがそれに気づかれると足を止め、じっと少女を見つめます。少女も視線に気が付いたのか、恐る恐るといった様子でこちらを見上げました。

「花を売っているのか」

 シニョールはそう問われました。少女は手元の花を見ると、はっと息を飲んで頷きます。するとシニョールは少女の緊張した面立ちに、なんと柔らかい笑みを見せました。シニョールはあまり笑う方ではなかったので、私は驚いてシニョーラを見てしまいました。シニョーラも私の視線に気づき、ふふっと笑い声を上げました。まあ、見ていて、とでも言わんばかりに。

「全部貰おう」

「シニョールのお家には、きっとみすぼらしいです……」

 良心に負けたのか、少女はぼそぼそとそう言ってシニョールから離れようとします。シニョールはそんな少女の手をそっと握ると、銀貨を数枚渡して籠ごと貰い受けたのです。そしてシニョールは籠をシニョーラに渡して、小さく微笑みました。シニョーラもその花籠を抱きしめ、少女に話しかけます。

「素敵なお花ね。私達の家にもきっと映えるわ。ありがとう」

 そして私に近づき、嬉しそうに続けたのです。

「子どもがいると幸せそうでしょう? 私達の子どもがいれば、きっともっと幸せよ」

 ――シニョーラはもちろん、どのように子どもを授かるのかはご存じのようでした。ところがどんなに子どもを欲しがっても、いつも別々のお部屋で過ごされる。シニョールも、時折愛おしげにシニョーラの頭を撫でることはあっても、それ以外の箇所には決して手を触れようとはされません。やはりその手には慈愛はあれど熱情はこもっていませんでした。

もしかして、私の見ていないところでは触れ合っているのかしら……そんなことを思ったこともありました。しかしある日の晩、月が美しい夜にお二人が庭で歓談されているのをたまたま窓から見かけたことがあったのですが、シニョールはやはり一切そういった触れ方はなさらず、くすくす笑うシニョーラの頭を撫でて、口づけの一つもされていませんでした。

 夫婦というのは、子孫を残すために一緒になるものでしょう。貴き身分であれば、その義務はより重くあります。他の家であれば、こんな夫婦ありえません。その家の者がそろって――小間使いも含めて――こぞって夫婦が同衾するよう仕向け、後継ぎを産ませようと画策するはずです。さらに奥方には、産めよ増やせよと圧力がかかるもので、そのきっかけさえ得られず一人寂しく寝具に身を沈めるシニョーラを思い浮かべたら、いてもたってもいられなくなりました。

シニョーラのためと思い、何度かシニョールにそれとなく伝えたことがあります――すなわち、どうにかしてシニョーラとあなたが共に夜を過ごせるよう、手助け致しますよ、と。ところがシニョールは必要ないの一点張りで、しまいにはため息をついてこう言う始末でした。

「あの子は自分の言っていることがよく分かってないんだ。あの子に余計なことは吹き込んでくれるなよ」

 ああ、今でもあの言葉を思い出すと沸々と怒りが湧いてきます。確かに私は立場を弁えない発言をしてテルセ家から出て行った身ですが、言ったことは間違っていないはずです。だってお二人はあんなに深く思いやっていて、シニョーラは子どもを欲しがっている。シニョーラはもう幼くなどありませんし、シニョールのおっしゃる「余計なこと」に関して人並にはご存じなのです。ただそれを、シニョールの前で口にしないだけで。

結局のところ、シニョールはシニョーラを子どものようにあしらっていたのです。そしてシニョーラの女としての尊厳を踏みにじっていた。私は、それが今でも許せないのです。

私がテルセ家を去って一年ほど経った時に、お二人が養子をとったと噂で耳にしました。あくまでも私の推測ですが、私が去った後でもやはり、お二人が情を交わすことはなかったのでしょう。シニョーラが感じられたのは、シニョールの掌の温もりだけだったわけです。


 さて、私の話もいよいよ終盤にさしかかってきました。もう一杯お茶をお注ぎしますね。私もあのことを思い出すと、喉が渇いて仕方ありません。

 私が最大の過ちを犯したのは、シニョールが負傷して屋敷に運び込まれた夜でした。シニョールは王国随一の剣士で、聖騎士団長という名誉ある地位にある方です。ところがシニョールがツィース出身ということで、由緒正しい聖家の中にはそれを快く思わない者も多くありました。シニョールとシニョーラは三年前のポーテ・ジュールでの反乱で命を落とされたと聞いています。あの港の反乱は聖家筆頭のプリア家前家長夫人が関与していたとも。実のところ、私はあの夜にシニョールを死の淵まで追いやったのもプリア家ではなかったのだろうかと疑っています。根拠はありません。だけど、シニョールに飲まされていた薬は、遠い異国で精製されたものでした。そんな薬を最も簡単に手に入れられるのが、貿易の盛んなポーテ・ジュールを領地内に持つプリア家だったのです。さらにプリア家は、シニョールを毛嫌いしていました。プリア家は、建国時より聖なる一族に仕えてきた由緒正しい聖家です。先代王と同じく、異教徒を心の底から卑しみ憎悪していました。〈アンガル王の遠征〉でプリア枢機卿が教化を指揮し、ツィースを嬲り殺したのは有名な話です。しかしそんな「正統」な聖家を差し置いてシニョールが聖騎士団長などという名誉ある地位に立ったものですから、増々憎悪を募らせていたに決まっています。そしてそういった彼らであればこそ、シニョールを薬で眠らせ、好きなようにいたぶるなんて非道な真似が出来たのでしょう。毒を飲まされ弱り切っていて、利き手の骨を折られ、顔は痣だらけ。シニョーラはそれを見た途端、人目も気にせずわっと泣き出したほどです。

その時シニョールを運び込んだのは、当時シニョールの副官を務めていた青年でした。肌の白い華奢な男性で、とても武官には見えません。学者のようなおっとりとした顔立ちで、部下にシニョールを横たわらせながら、シニョールの血がにじんだ包帯を見て白い肌を増々青ざめさせていました。

「大丈夫、命に別状はないし、利き手もじきに治る。そんなに嘆くことじゃないですよ」

 一方で口調だけは飄々としていて、泣きじゃくるシニョーラを慰めていました。彼の慰めにも関わらずシニョーラがシニョールの傍を離れようとしないので、シニョールの副官は私に、シニョーラをシニョーラの部屋に連れていくよう言いつけました。

「耳元で騒がれていちゃ、治るものも治らない」

 そんな戯言も言っていましたっけ。私はシニョーラを慰めながら、部屋にお連れしました。シニョーラはその時にはもう落ち着いていて、鼻を啜りながら寝台に腰かけました。そんなシニョーラの手を握り締め、私はその目を覗き込みました。緑の瞳には、私の強張った顔が映り込んでいたのを覚えています。

 そして私は、シニョーラの瞳のうちにある自分の顔を見て、覚悟を決めたのです。

重傷を負ったシニョールを目にして、私はシニョールが大聖堂内において危うい立場であることを改めて感じました。ツィース出身のシニョールは、その出自からして孤立し、疎まれている。シニョールは国王の寵臣ではあるものの、かの国王は先代と異なり、大聖堂内に政敵も多くその地位は盤石ではない。つまりシニョールが政争に巻き込まれて命を落とす可能性は極めて高く、その身に万が一のことがあればテルセ家の存続も危ぶまれる。そうなると、同じく王国で孤独な身のシニョーラ・テルセは一体どうなってしまうのでしょう。フロウからも追放され、この国ではシニョーラ・テルセという立場で身を置いているシニョーラはどこに行けば良いのでしょう。彼女の王国での地位を確立するためにも、テルセ家の継承者が、シニョーラのお子様が必要だと私は考えました。

「シニョーラ、今日のようなことは、またいつ起こるかわかりません」

私の言葉に、シニョーラはびくりと身を震わせました。そして、そんな言葉は聞きたくないとでもいうふうに、小さく首を振って見せました。私はそれに構わず、その手を引っ張って必死に説得しました。

「シニョールの身に不幸が起きる可能性に目をそらしてはいけません。シニョーラ、今夜こそシニョールと情を交わすべきです」

 シニョーラの桃色の唇が震え、きゅっと嚙みしめられたのを見ました。そうです、シニョーラはずっと、シニョールの情熱を切望していたのです。その熱を与えられないまま、シニョーラとシニョールが生死を分かつのに私は耐えられませんでした。私がその行為をけしかけたのは、何も彼女の立場や地位のためだけではなく、彼女の心のためでもあったのです。たった一夜でもいい、彼女が女として満たされたら、たとえシニョールに不幸があろうとも彼女は耐えられるのではないか、と。

「シニョーラ、このままでいいのですか」

 私の言葉に、シニョーラがぶるぶると震えだしました。私の手に縋ったまま、一言も発せずに。しかしその目には、確かに艶美な炎を抱いていました。

「……今夜は、少し離れた部屋で休みます」

 ふいにシニョーラの震えが止まり、私に縋る手も緩められました。安心して立ち上がり、見下ろしたシニョーラの顔は青白い月光に照らされ、その滑らかな肌を艶めかせていました。

シニョーラが落ち着きを取り戻したのを確認してから、今度はシニョールの部屋に向かいました。すると、応接間の方でひそひそと話をする声が聞こえてきました。念のため応接間を覗いてみると、なんとあの副官以外の騎士団員は皆シニョールの部屋から追い出されていたようでした。

「シニョールには、どなたか付き添っていらっしゃるのですか」

 声を掛けると、彼らは気まずそうに目を見合わせています。どうやら、シニョールと副官に、応接間で待機するよう命じられていたようでした。

「団長には、副団長が付き添っている」

 やがて、年嵩の一人がそう教えてくれました。

 実は当時、大聖堂の中ではシニョールとその副官の青年の間によからぬ噂が立っていたのです。お二人は常にぴったりと寄り添って行動を共にしており、公私ともに浅からぬ仲なのだと。もちろん、根も葉もないでたらめです。

当時もそんな噂を信じているわけではなかったのですが、それでもなんとなくいきなりお二人のいる部屋に飛び込むのも憚られました。そこで私はそっとシニョールの部屋の前に立ち、耳を澄ませました。

――聞こえてきたのは、何かを読み上げる声でした。その澱みなくすらすらと読み上げる声に、シニョールではなく副官の青年が何かを読んでいるのだと分かりました。話し言葉さえも満足にできないシニョールが、こんなふうに滑らかに読み上げられるわけがないと。しばらくじっとしていましたが、やがてピタッと声が止むと、中からシニョールの低い声が響いたのです。

「入っていい」

「……失礼いたします」

 中に入ると、副官が紙の束をしまっているところでした。私の方を睨みつけてくる瞳を見れば、二人の逢瀬を邪魔したかのような気分になったのは確かです。もちろん私はそんな噂、信じていませんが。一方のシニョールはけだるげに寝台に横たわっていらっしゃいました。

「シニョール、お加減はいかがですか」

「だいぶ良くなった」

 短い応えには、それでも疲れが滲んでいます。私は枕元に用意していた水をコップに注ぐと、シニョールに手渡しました。

「しばらくは休養なさってください。……シニョーラも、たいそう心配されています」

 さきほどの青年の眼差しが気になってしまい、この時、つい対抗するように「シニョーラ」と口にしたのを覚えています。シニョールは一瞬驚いたように目を見開きましたが、すぐ苦笑いをして頷きました。

「あの子にも心配を掛けた。しばらくはこの部屋で静かにしていることにしよう」

 あの子、あの子と……シニョール、シニョーラはあなたの子女ではないのですよ――そう言いかけた口を慌てて閉ざしました。シニョールがシニョーラを「あの子」と呼ぶのにはもう慣れていたのですが、それでもやはり、この副官の前で呼ぶのはいかがなものでしょう。良からぬ噂さえ立っている、この男の前で。

 そう言う代わりに、私は副官の方を見ながらこう言うに留めました。

「もう夜も遅いのです。私室にて仕えるのはあなたではなく、この私。あなた方は外の見張りを」

 彼は苦笑しながら部屋から出ていきました。一方の私はその背を見送りながら、焦った心を必死に宥めていたのです。シニョールの方にはそういった様子がありませんでしたが、副官は人払いをしてシニョールの私室にこもり、それを邪魔されたとばかりに睨みつける。もしかしたらその気があるのではないかと疑ってしまうのも無理からぬことです。副官にシニョールの心が奪われる前に、シニョーラとの関係を変えなければ。

 ――その夜、私はシニョーラにお伝えした通り、シニョーラとシニョールの居室から少し離れたところで寝ていました。空気は静寂で冷え切っており、毛布を被っていても寒いほどです。お二人の声を聞かぬうちに眠ろうとするのですが、どうしても気になってしまい、なかなか意識を手放せませんでした。そろそろ夜も明けようとした頃、やっとまどろんだところに、廊下からの騒音でパッと意識が戻りました。扉が乱暴に開け閉めされ、廊下に飾られた花瓶の割れる音。

 廊下に飛び出すと、そこには寝衣を乱したシニョーラがうずくまっていました。駆け寄ると、私にしがみついて離れようとしません。シニョーラの顔は私の胸に埋められ、どんな顔をしているかわかりませんでした。それでも私の衣が湿るのを感じ、シニョーラが泣いていることに気が付きました。

 その瞬間、シニョーラとシニョールの間で、どんなやりとりがあったのか推測出来てしまったのです。私はシニョーラの震える背を何度も撫で、奥歯を噛みしめシニョールへの悪態を堪えました。


 翌朝、あの副官が応接間で告げたのは、私の解雇でした。シニョールはお加減が優れないため、青年にその宣告を託したとのことです。私はシニョールの不甲斐なさに呆れ、同時にテルセ家の私的なことに首を突っ込んでくる目の前の青年に苛立ちが募りました。

「なぜ、シニョールはシニョーラではなくあなたに言づけたのですか」

 腹いせのように青年にそう尋ねると、朝食に出されたパンに蜂蜜を塗りながら、

「あんなことを唆した君に、シニョーラ自らこの解雇を言い渡すのか? それこそ不憫だろう」

 青年は何でもないことのように言い返してきました。そう言われては、何も言い返すことができません。私は黙って頭を下げると、床を蹴りながら自室に戻り部屋の片づけに取り掛かりました。

 副官にはああ言われてしまいましたが、私がテルセ家を発つ日、シニョーラは青白い顔に微笑みを浮かべて見送りに来てくださいました。そしてその時、バラをいただいたのです。私はバラの鉢を大切に持ちながら、ごめんなさいと謝りました。シニョーラは首を振り、あなたのせいではないと言って、無理やり微笑んでくださったのです。

 その後はどこかの家に仕えることもせず、近所の子どもに読み書きを教えたりしながら生計を立てています。あの夜、シニョーラを傷つけてしまったことへの申し訳なさから、テルセ家にも一切近づいていません。

 だから不思議なのです。今やどこの聖家ともつながりのない私を、あなたがどうやって探し出したのかしら。

 ああ、野暮なことを聞いてしまいましたね。どうぞこの言葉はお忘れになって、テルセ家での思い出話だけ持ち帰ってください……

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