序章
オレンジ文庫ノベル大賞に応募した作品です。二次選考を通らなかったので、このままお蔵入りも悲しいなと思い投稿します。感想お待ちしています。
青ざめた月が、地上を見下ろしている。遠くの地で上がる戦火は王都には届いていない。あたりは静寂で満たされている。
月が照らす地上に伸びているのは、王都の中心である大聖堂へと続く四本の大路だ。そしてその一本を、頭巾のついた黒い外套を纏った人物が歩いていた。歩みに躊躇いはなく、どちらかというと焦る気持ちを抑えているようだ。右腕を掴む左手は、ともすれば力が入ってしまう。その手を緩めては、震える息を吐く。そしてまたすぐに、左手に力を入れてしまうようだった。
その男はやがて、目的の屋敷を見つける。建国の折に貢献したとされる旧家の一つ、テルセ家の分邸だ。門の前でうろうろと屯ろする男達は、どれも見知った騎士団員――彼の部下――だった。男は部下の方へ駆け寄ると、低い声で叱咤する。
「あの子を守っていろと言っただろう」
騎士団員は困った顔を見合わせると、首を振った。
「守護陣が張ってあるんです」
男の脳裏に浮かんだのは、深紅のローブに身を包んでこちらを見上げてきた、少年の母親だった。
男は騎士団員を押しのけ、屋敷へと立ち入る。男はその屋敷の主である少年の名を呼んだ。すると屋敷に施されていた守護陣は、小さな音と共に消滅する。男は騎士団員を門外に残し、屋敷に足を踏み入れる。
この邸宅には回廊があり、緑のバラがその回廊に囲まれた中庭で彫刻のように伸びていた。月光を浴びたバラは、夜の静寂をも封じ込め眠っている。みずみずしさのある花弁の表面には、冷ややかな滑らかさだけがあった。男は頬を刺す冷気をものともせず、中庭の花にしばし見入る。
やがて彼は、耳元で漂う静寂に、時折火が爆ぜる音が混じっているのに気が付く。そして澄んだ空気に混ざる煙に少しだけ咳き込む。
咳が止むと、再び大股で歩き出した。中庭の中央に座す緑のバラに隠れていた人影が、そこでようやく視界に入ってきた。
「どうしたんですか……こんな夜更けに」
バラが眠る横で、独りの少年が二つの棺を燃やしていた。互いに寄り添うように並べられた棺は香木でできているのだろうか、鼻に残るこっくりとした甘い香りが煙に混ざっている。黒い外套の人物は、ほっと息を吐きながらフードを取った。さきほどの焦燥はおくびにも出さず、ゆったりとした口調で返す。
「こんな夜更けに送っては、二人も寂しがるんじゃないか」
少年の表情は固い。
「野次馬に覗かれていたら、落ち着いて旅立てないでしょう。それに、大聖堂も煩いし。死体を燃やすなって言うに決まってる」
そう言い放ってから、来訪者を探るように見る。
「……あなたは怒らないんですね」
「何を?」
少年の隣に行きながら、来訪者は尋ねた。
「火で燃やすこと」
その問いを受け、来訪者はしばし噛みしめるように俯く。それから顔を上げると静かに答えた。
「ミエタを弔うなら、その慣習に従うべきだ。俺達がとやかく言うことではない。それに……」
言いかけ、口を閉ざす。
「すまない」
少年は答えず、じっと棺を舐める炎を見つめていた。
「本当に、すまなかった」
答えを期待していない来訪者はもう一度繰り返すと口を閉じ、少年の隣でじっと棺を見つめる。少年はやがて静寂を消し去るように、何かの曲を口ずさみはじめた。歌詞はよく聞き取れない。寂寥感の漂う旋律に、来訪者は胸を締め付けられる気がした。
どう見ても、棺の中は空だった。じっと見つめる二対の瞳には、明るい橙色の炎だけが映っていた。煙は細くたなびき、月に向かって昇っていく。二人は食い入るように、棺を包んだ炎をその瞳に焼き付けていた。
「ツィースの弔い方は、教えてもらわなかったんです」
二つの棺が黒くなっていくのを見ながら曲を終えると、少年はそれだけ言った。
やがて棺が燃え尽き、炭だけが残る。そしてそれを照らすのは月ではなく、少しばかりの星々と、東にぼんやりと姿を現した太陽だった。
「ポーテ・ジュールに向かう時」
やがて火も消え、あたりに静寂が漂った頃、来訪者は口を開いた。
「お前を託されたんだ。お前がこの国で生きていけるようになるまで、見届けてほしいと」
少年は答えない。代わりに、その頬に透明な涙が流れる。その頬は帯剣の儀を終えた成人とは思えないほど幼かった。来訪者はくしゃくしゃと頭を撫でると、頑是ない子どもを抱き寄せ完全な夜明けを待っていた。
二人の頭上には、まだ、わずかに星が瞬いている。