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あの日、沢山の浅黒い腕がわたしのすべてを奪おうと伸ばされたそのとき。
ああ、とうとう運が尽きたのだと思った。
冬のとても寒い日。
酔いが回って力加減が出来なくなった父親に何度か殺されかけたわたしは、父が酒を飲み始めるとこっそり逃げ出して歓楽街を徘徊するのが習慣になっていて、その日もあの男が日本酒を数杯呷ったあたりで家を抜け出した。
両親に気付かれないために上着を着る暇もなく出てきたから、10分もせずに身体が震え出したのを覚えている。
薄い服の上から肌を擦りながら、大人に見つからないように裏路地を歩く。
時折漏れるキラキラした繁華街の光を横目に、凍えないよう薄暗いコンクリートの上を鼠のように忙しなく動いているうち、急になにかがぷつりと切れて。
なんだか本当に帰りたくなくなって、少しでもあそこから遠くに行きたくて、いつもより深く深く入り組んだ路地を歩いて、気付いたら異世界にいた。
言葉もわからずスラムの廃れた雰囲気に怯えながら彷徨っていたわたしは、運良くそこでスラムの子供を束ねるリーダーの男の子と出逢い、そのまま彼らの仲間に引き入れられた。
お風呂に入れないことも、食べ物がないことも慣れていたから問題なかったし、孤児の仲間たちは覚えの悪いわたしに根気強く言葉を教えてくれる。
そして何より暴力を振われることのない自由な暮らしは、あそこにいた時よりよほどいいものだった。
そう言えるのは個性的で優しい仲間たちの人柄と、厳しくも優秀なリーダーのおかげで誰も飢え死ぬことがなかったのが大きいとは思うけれど。
貧しくも安定した生活が続いて1年、わたしは仕事から帰る途中に人攫いに目をつけられた。
黒い目と髪を見てこれは高く売れると粘着くような下卑た笑みを浮かべた男達は、必死で逃げるわたしを弄ぶように追いかけまわす。
皆のいる拠点からなんとか距離は離せたものの、子供がどれだけ全力で逃げたところで結局体格差のある大人には敵わない。
袋小路に追い詰められたわたしは、伸ばされる男の腕から少しでも逃れるように己の身体をぎゅっと抱いた。
仕方ない。
ここまで生きられたこと自体が奇跡だったのだから、終わってもそれは仕方ないことなのだと懸命に自分を納得させながら。
しかしあと少しで肌に触れるはずだった男の爪が私に届くことはなく、いつの間にか代わりに赤い赤い髪をした女が、秀麗な顔を歪めてわたしを見下ろしていた。
「汚いわねぇ。色以外特別目を引く容姿でもないし。……名前は? 」
「…………あ……美夜、です」
「ミヤ。響きは悪くないわね」
まるで女帝のような威圧的な口調。
キツく吊り上がった目元から覗く炎のような瞳が、ともすれば睨んでいるかのような鋭さをもって向けられているのに、不思議と怖さはない。
薄暗い路地裏でなお鮮やかに煌く赤色が、ポインセチアの花に似ているからだろうか。
クリスマスの街角で咲く幸福の象徴。寒さに震える惨めなわたしには不釣り合いだった、それでも焦がれずにはいられない美しい花。
ついさっきまで人攫いに追い詰められて震えていた身体は突然現れた存在のあまりの鮮烈さにかえって落ち着いて、あんなにも怖かった男達が蜘蛛の子を散らすように逃げていたことすら随分遅れて気がつくくらいに、わたしは意識の全てをその女に奪われていた。
こちらをじっと観察していた女は、ふと思案するように視線を逸らし、また強い瞳でわたしを見つめると言う。
「ま、いいわ。あなた、私の弟子になりなさい」
それが、わたしと魔女エリゼの出逢いだった。
ご観覧ありがとうございます。
連載という形になってますが、全体で大体一万字程度の短編スケールの作品となる予定です。
切り方は現在悩み中なので何話になるかわかりませんが、ゆっくり更新していく予定ですのでもしお時間あったらお付き合い頂けると幸いです。
次話は明日投稿します。