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灰色の子犬

「ディミウス、会えて嬉しい」


 名前を呼んで、シウの上着に包まれた小さな体に触れる。指先から伝わる温もりがたまらなく嬉しかった。ディミウスが布地越しに暴れて吠えまくっていても、関係ないくらいに嬉しい。


「ひどいことなんてしないよ。そんなに怖がらなくてもいいのに」


 ふふっと笑うと、ディミウスは今度は唸りをあげた。多分、これは怖がってはいないという意思表示だろう。というか、ディミウスは犬の体でも多分、人間の言葉を喋れるような気がする。


「知ってる犬っスか?」


 厩務員の青年が不思議そうにやり取りを眺めていた。多分、この青年がいるから喋ってくれないだけだ。


「ああ、よく知ってる犬だ」


 青年に答えながら、私はメリッサに礼を言うために馬房に入った。メリッサはもう立ち上がって、私を待ち構えている。

 メリッサは喋らないから、その詳細はわからないけれど、いつも独特の感覚で存在や物事を認知している。だからディミウスを見つけてくれたのだろう。


「ありがとう、メリッサ。やっぱりメリッサは一番頼りになる。実は何でもわかってるもんな」


 太い首を撫でると、メリッサはブフッと得意げに鼻を鳴らした。もしかするとこれが母の威厳なのか、黒い瞳は奥深い輝きを返していた。





 とりあえずディミウスを連れて、王宮内のシウの部屋へと移動した。逃げられないように扉をしっかり閉めて、ディミウスを包んだ上着から解き放つ。すぐにディミウスは脱兎のごとき逃げ足で、カーテンの裏に隠れてしまった。


「本当にあれがディミウスなの?」


 シウが胡散臭げに、土埃や抜け毛で汚れた上着を払いながら呟いた。


「もちろん。なあ? ディミウス」

「……どうしてここに連れてきた」


 ディミウスはカーテンの陰から、低い声ではっきりと喋った。懐かしい響きの、ディミウス自身の声だった。姿が見えないと、まるでそこに人の姿でいるように思えてしまう。


「ディミウスと話をしたかったんだ。こっちに来て」

「嫌だ。別に、お前と話すことは何もない。私はセシオンのためにこの体で降りてきただけだ。あの馬といれば、そのうち会えるから」

「そうなの?」


 セシオンのためだなんて、意外だった。でも確かに、セシオンは普通の人生を、大人しい犬か猫でも飼って平和に暮らしたいと願っていた。私とセシオンの記憶に触れ、消そうとしたディミウスなら知っていておかしくはない。


 カーテンに隠れていたディミウスが、ゆっくりと子犬の姿でとことこ歩いてくる。灰色の毛並みには、固まった土や汚れがびっしり付着していた。


「私はあの戦いの後、神に天の国に連れていかれた。だが、あそこで暮らす気にはなれなかった。なのに神は、死を選ぶことも許してはくれなかった。だから、お前が後生大事に保護し続けてる、セシオンの魂と共に生きると決めた。それは神も認めてくれた」

「そうなのか」


 もしかすると、ディミウスは目的を達するまで決して死なないのかもしれない。ディミウスの子犬の体は汚れや毛でわかりづらいが、痩せ細っている。死なないからって食べていない可能性があった。


「おい、わかったら早くセシオンを産め」


 くわっと鼻に皺を寄せ、ディミウスがとんでもない命令をしてくる。そんなこと言っても、まだ結婚も何もしていないからなあ、なんて私は少し笑った。ディミウスは人間の常識を良く知らないんだな。しかし私の横で、シウが拳を握りしめて震えていた。


「最低。女性に早く産めなんて、絶対言っちゃいけないんだ!」

「最低だと?」


 怒りに眦をきつくしているシウを嘲るように、ディミウスは犬の短い口吻の両端を吊り上げた。


「かつて魔王と恐れられた私にとっては、甘美な響きだ。もっと言うがいい」


 やばい、ディミウスってば一周回ってめんどくさい性格になってる。身内がこんな言動するのは恥ずかしい。


「人間の妊娠から出産は約270日と長いし、母体への負担も大きい。だからきちんと安心して過ごしてもらえるような環境を整えなきゃいけないんだ。何もわかってないあなたみたいな人に軽々しく言われたくない!」


 シウはシウで、意外と妊娠出産に詳しくて、ちゃんと考えててくれたんだなと気恥ずかしくなる。


「ははっ」


 犬の体なのに、ディミウスは器用に人間の笑いを模倣してさもおかしそうな身体表現をした。


「そうは言っても万年発情期の人間の男の体はつらいだろう? 繁殖を望まれる、神の巧妙な罠だからな」

「うっ」


 シウが後ろによろめいたので、私はびっくりしてしまう。見る間にシウの白い肌が赤くなってきた。


「え、シウ」

「違う、そんなのじゃないよ。僕は本当に、サミアと(あるじ)の幸せを願ってるよ」


 顔とか耳を赤くして言われても説得力がないが、あまりこの話題には触れないことにした。触れたくないから。


「シウ、そろそろ会議の時間じゃないのか」


 別に話題を無理に変えるでもなく、そう切り出した。今日のシウには、終戦交渉の詳細決めや、立太子への手続きなど予定がたくさん詰まっている。


「そうだけど、ディミウスとふたりで大丈夫?」

「大丈夫だ。こんな風でも、兄だと私は思ってる」

「……わかった」


 シウは残念そうに部屋を出ていく。なお、上着は取り替えていった。


「さて、ディミウスの体でも洗おうかな」


 特に予定のなかった私は、ディミウスと過ごせることになってうきうきと浴室で洗面器にお湯を溜める。


「ふん、そうやって私を辱しめるつもりか」

「うん、まあ」

「存分に復讐するといい」


 抵抗しない小さな体を抱き抱え、洗面器にちゃぽんと浸けた。泥や何かが、茶色くお湯に溶け始める。石鹸を自分の手に擦り付け、泡立ててからディミウスの体を撫でるとまあ、信じられないくらいにドロドロと溶けてきた。全部溶けて無くなってしまいそうだ。


「ディミウスは濡れると更ににちっちゃいな、足なんか細くて折れそう」

「そうとも、卑小な獣だ。足を折りたければ折るがいい。死ぬことはない」

「そんな言い方しちゃって」


 やっぱりディミウスは、どうやったら死ねるか模索してたのだろう。

 改めて、見つけて保護してくれたメリッサに感謝の気持ちが湧き上がる。物言わぬ馬であるメリッサなら、ディミウスも変な口の聞き方をして虚勢を張る必要がない。だから一緒にいたんだろうな。


「足を折ったりなんてしないよ。だって神は、ディミウスに罰を与えようとなんてしてないだろ」

「いや、大嫌いなお前に自由を奪われ、全身を好きなようにまさぐられてるんだぞ。きっとこの時間こそ私にとっての罰なんだ」


 そう言いながらも、ディミウスの尻尾はお湯の中でゆっくり左右に揺れていた。全然機嫌が悪そうではなく、リラックスしてるように思える。


「今のディミウスはかわいいな」


 犬の体は感情がわかりやすくて、とても良いものだ。私は心から神に感謝した。


「ああ、最悪だ」


 吐き捨てるように呟くディミウスだが、やっぱり尻尾だけはふりふりしていて、素直だった。

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