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撤退

 翌朝は、食欲をそそるいい匂いで目が覚めた。


「おはよう、サミア。朝ごはん買ってきたよ」


 寝ぼけた私の視界に、美の極致であるシウの顔が映る。走って来たのか、乱れた白銀の髪と紅潮している白い肌、血色のいい薄めの唇。青みのある早朝の光に照らされて、神秘的ですらあった。


「お、おはよう」


 私は昨夜の記憶がよみがえって、一気に脈拍が上がった。その唇が昨日、私の首に勝手にキスをしたんだった。よく考えたら普通のキスすらまだしたことないのに、いきなり首にキスはいやらしくないか? 私がシウに背中を向けていたせい?

 でもその話をしたら、私の疲労と酔いによる恥ずかしい台詞の数々までシウに思い出されてしまう。何もなかったことにするしかない。絶対にそう。というか、シウも少し酔ってたし、忘れててくれますように。


「いい匂いだな」


 私はシウが買ってきた朝ごはんに話題を向けた。何を買ってきたのやら、大きめの麻袋はパンパンに膨らんでいる。


「うん、昨日さ……」

「昨日の話はやめよう!?」

「なんで? パブで小耳に挟んだんだよ、おいしいホットドッグ屋さんがあるって」

「あ、ああ」


 そっちの話か。私はすごく気になるとばかりに袋を覗き、まだ温かいホットドッグや、ついでに買ってきたらしいオレンジなどの果物を点検した。ここは港町だから朝市があるし、集まる人々のための軽食も豊富なのだろう。


「ありがとう、紅茶を淹れて食堂室で食べよう」

「うん」


 シウは麻袋を持ち上げたが、なぜか歩き出さずに私をじっと見つめた。シウの色の濃い紺碧の瞳は、少し潤むだけで大きな光が宿る。落ち着かない気分になり、手ぐしで髪を直してみた。


「サミア」


 私は声を出さず、何だと首を傾げる。


「大好き」


 それは昨日と全く同じトーンで、囁くように告げられた。でも正面きって言われると破壊力抜群だった。ぼうっと全身に火でも点いたみたいだし、うららかな午後の昼下がり、私がいて、シウがいて、私たちの間に生まれたセシオンの生まれ変わりの赤ちゃん――という幸福な未来図まで見えた。シウはやっぱり昨日の一連のやり取りをばっちり覚えているらしかった。


「ふふっ、行こう」


 シウに手を引かれて私は、地に足がつかない気分のまま食堂へと進んだ。


 胸がドキドキして頭がふわふわした状態のままでも、評判だというホットドッグは確かにおいしかった。一般的なソーセージだけでなく、エビやカニのフライを挟んだものもあり、ソースが絶妙だった。でも私の食事量は至って普通なので、朝からホットドッグ2本も3本も食べられない。少しずつ食べて、残りはシウが食べてくれた。


「いつも思うけど、シウが大食いで良かったよ」

「僕は特に大食いじゃないよ、若い人間の男は大体こんなものだよ」


 ぺろ、と唇の端を舐めてシウは言う。珍しいワイルドな仕草で自分は男だとアピールするのは何か、深い意味があるのかな。いやないんだろうけど。


 食べたら身支度を整え、白竜のアイギスに背に乗って出動する。今日から始まるクロドメール軍の撤退の殿(しんがり)を務めるのだ。

 そのため、シウは鎧とマントを着用していた。一方私は、黒いゆったりしたローブを着させられた。フードも付いている。シウ曰く、『サミアはかわいいから、軍隊の野獣たちにあまり見せたくない』とのことだ。あまりに先回りした嫉妬ムーブで私には予測不可能だった。


 まずは、ボルディア王国と交戦中の平原へと降り立った。日夜繰り返された争いにより、草も生えない赤黒い土と塹壕ばかりの場所となっている。気持ちを引き締める意味もあり、私は深くフードを被った。


 私たちが向かうとすでに連絡はつけてあり、白竜のアイギスの巨体にクロドメール軍一同は目を丸くするが、大きな混乱はなかった。むしろ後ろを守る頼もしい援軍の登場にほっとしているのだろう。


 撤退は、あらゆる軍事作戦の中で最も難しい作戦という説がある。

 もちろん停戦は呼びかけるが、散々殺しあってきた憎き敵軍が、背中を見せて逃げていくのだ。一矢報いたいと誰もが思うだろう。頭将の考え方によっては、好機と見て全軍を挙げて襲いかかってくるかもしれない。でも私たちか来たからには、その心配はないだろう。


「アンブロシウス殿下、白竜殿、サミア殿の甚大なる御協力に、心より感謝申し上げます」


 クロドメール軍の将軍、シュローダー卿はびしっと敬礼をした。幼い頃から戦場に送られていたシウは、彼ともちろん顔見知りだという。


「気が早いな。卿からの礼は、国に帰ってから聞くことにするよ」


 シウは普段見せないような、皮肉っぽい笑みをした。シュローダー卿は意外とも思わなかったらしく、合わせるように薄く笑う。男の世界って感じだ。


「しかし、アンブロシウス殿下の戦線への復帰、更に白竜殿やサミア殿のお力添えさえあれば、撤退などせずとも勝てるのではと、どうしても思ってしまいます」


 彼は濃縮された勝利への欲望を滲ませる。この戦場で長く戦っていたのだ。気持ちはわからないでもない。聖女という回復役がいるので、何度も怪我を負い治療をされては、憎しみを募らせてきたのだろう。シウはなだめるように、シュローダー卿の肩に触れる。


「卿の言う通り、今この場で勝つことは容易い。私はサミアと出会い、最早以前の私とは比べ物にならないほどの力を手に入れたから」


 こういう場では、シウの口調まで普段と違っていた。いかにも頼れる王子という感じだ。


「だが、だからこそ、力の扱い方を考えなければならない責任が生まれたのだ。私たちの命は永遠ではない。私たちが死んだのちの禍根を生まないために、退かねばならないんだ」


 そう、私たちは壊れない兵器ではなく、有限の命しかない。一時期な火力で勝っても仕方ないのである。まだわかっていない様子のシュローダー卿に、シウは微笑む。


「卿には妻と子どもがいるな」

「はい」

「帰還して、顔を見てやれ。忘れていた感情を思い出せるだろう」


 この撤退は、憎しみの連鎖を生まないための撤退だと暗に伝えていた。ボルディア軍にも家族がある。次の世代がシュローダー卿の子どもに害を為さずとも済むように、と。シュローダー卿は、何かを噛み締めるように顎に力を入れた。


「はい。差し出がましい発言を、お許し下さい」

「構わない」






 兵を集め、整列させるとシウは何の気負いもなく前に出た。声を拡声させる魔法を使う。


「全軍に告ぐ! 必ず生還せよ!」


 おおおっ、と野太い歓声が上がった。一応聖女や女性の魔導師もいるが、やはり兵の大半は男だからだ。


 シウは手を上げ、歓声に応えた。常人には不可能なほど戦果を上げ続け、確かな尊敬を集める、一騎当千の王子らしいの威厳だった。


 そうして撤退は始まった。国に帰るまでが遠足、ならぬ撤退だ。先頭に精鋭部隊の半分、中間には大砲などを積んだ馬車、後方にもう半分の精鋭部隊と聖女や魔導師である。クロドメール国はここまでに、2つの国を制圧したからかなり大変な旅程だ。膠着状態なのに、退くに退けなくなったのもわからなくはない。


 最後に残った私、シウ、アイギスが戦場の平野に静かに佇む。格好つけている訳じゃない。


 撤退行動を始めてほんの10分ほどで、やはりボルディア軍は動いた。駆けてきた騎馬部隊が、次々と矢を放ってくる。攻撃魔法もあった。でも、そんなのが私たちに効くと思っているんだろうか。


「私に任せて下さい」


 アイギスは気楽に言い、私とシウを覆うようにばさっと翼を広げた。それだけで、全ての攻撃は弾かれる。私と契約したアイギスは、恐らく史上最強の竜だろう。人間の攻撃など、たんぽぽの綿毛のようなものだった。


「既に王の署名のある書信は送っただろう。戦争は終わりだ。我が軍への攻撃は、止めてもらおう」


 シウがアイギスの翼から出て、堂々と身ひとつで語りかける。一応、保護魔法は多重にかけてあるけど。


「勝手に始めて、勝手に終われるなどと思っているのか!」


 騎馬兵が唸るように吠えた。相当の憎しみが込められている。仕方ないので、私は待機させていた土の精霊に壁を作ってもらった。地面が揺れ、轟音と共に2階建の建物くらいの土壁が出現する。戦場を横断する、長く高い壁だ。それなりの強度もあるので、壊すのに数日はかかるだろう。その間にクロドメール軍は遠くへと逃げられる。


 アイギスの背に乗り、上空から呼びかけた。


「賠償などについての話し合いは、第三国を交えて交渉のテーブルで行うそうだ! あなたたちももう帰還するといい!」


 言い逃げは卑怯だが、頭に血が昇っている人たちとはあまり話し合いにならなかった。アイギスはクロドメール軍を空から見守るように、悠々と飛ぶ。


「これだけの武力を見せつけて撤退するんだ、私たちの意思をわかってくれるといいけど」

「わかってくれるよ」


 シウは複雑な表情で、願いを込めて呟いた。

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