誘惑と衝動
マルクス・ミュラー教皇は、魂に刻まれた事象を時空を超えて全て見ることができるという。そう信じて、私は長い再鑑定を黙して待つ。
虚空を見つめるマルクスの眉間の皺が深くなり、私の不安が高まる頃、やっとマルクスは口を開いた。
「やはり、あなたの中にいるセシオンの魂は弱りきっている。並の人間の比ではない大きな魂を持つあなたに、記憶だけを与えるなどという力はないはずです」
「でも、田舎の村にいる私をシウが見つけて、色々と話していたら頭にセシオンの声が流れてきたんだ」
脳裏にシウと初めて会ったときの記憶が甦る。小麦の香ばしい匂いが漂う収穫祭で、人波を割って突如として現れた、とてつもない美青年。それが今はシウと呼んでいるクロドメールの王子アンブロシウスだ。
でもいくら顔が良くても、セシオンの記憶を与えられなければ絶対に私は彼を拒否していただろう。まだ小さかった私に結婚しようなどと、重い感情をぶつけてきていたから変態だと思っていた。
「ああ、セシオンは無茶をしましたね」
「まさかそれで記憶を私に与えて更に弱ってしまったのか?」
何てこと、と私は自分の頭を抱える。
「そのように察せられます」
「どうしよう、私が出来ることなら何でもするから。セシオンが好きなように生きられるようにしてあげたいんだ。復活の方法とかないのか?」
斜め横に座るマルクスの方へ身を乗り出して、すがる気持ちで私は迫った。なぜかマルクスは恥ずかしそうに片手で口元をおさえる。
「そうですね……創造神ではない我々にも、生命を生み出す機能はあります。特に、神が作りたもうた特別な体をお持ちのサミア様なら、セシオンに新たな生を授けることが可能でしょう」
「私が人体創造を?! いや、それは神の領域でやってはいけないことだ」
確かに最高に魔力が高まっていたときなら、架け橋を一瞬で創造できた。ならば土くれから人の体が作れるのだろうかと私は考えてしまったが、そんなものにセシオンの魂を移すのはひどい気がする。
「ち、違いますよ。そうじゃなくて普通に、サミア様が愛する方と結ばれて愛の結晶が実るとき、そこにセシオンの魂が宿るということです」
耳まで赤くなりながらマルクスはぼそぼそと囁いた。神話でそんな話があったなどと続けているがそれはどうでもいい。つまり妊娠しろと?
「冗談じゃない、そんな、そんな」
私はマルクスから身を離すように引いて、訳のわからない感情で何度も頭を振る。
「でもあなたはアンブロシウス王子と婚約されていますし、大変仲睦まじくいらっしゃるじゃないですか」
「それはシウが、私をセシオンだと思ってるからだ!」
つい声を荒らげてしまったし、意味もなく私は立ち上がった。マルクスに怒るのは筋違いだけど、そうでもしないと悲しみの渦に呑み込まれてしまいそうだったから。私自身がシウに好かれている訳じゃない。
「私は、こんな嘘まみれの状態でそんなのは無理だ」
さっき何でもすると言ったのに、私は感情によって震える息を吐き、脱力して座り直す。大体、子どもが生まれた瞬間に私の今までの嘘がばれるなんて地獄に足を踏み出せない。つまり、シウとは絶対に結婚できないということになる。
「尊いお方、泣かないで下さい」
「泣いてない」
まだ涙こそ流れていないものの、私は涙声になっていた。
「なるほど、サミア様はアンブロシウス王子が好きなのですね。恋ですか」
「そんなの、わざわざ言わなくたっていい」
「恋とは危ういものです」
「は?」
恋については、照れもせずマルクスは冷静に言い切った。何か重要なことを言いそうに真顔のマルクスを、私は見つめる。
「あなたがセシオンに尽くそうとするときには、彼にどう思われるかなどと一切考えないでしょう? 彼に感謝されたい、好かれたいなどと求めない、無償の愛です。けれどアンブロシウス王子には、自分と同等の感情を求めてしまうのですね。自分だけを見て欲しい、自分だけを愛して欲しいから、つらく悲しいのでしょう」
その通りで、私は俯いた。何と言われるよりも、恋心を推察されることが一番に恥ずかしい。マルクスは人のたくさんの過去を見てきたせいか、妙に人の心理に鋭いようだった。
「このままではいけません。本来のあなたは、清らかで澄んだ魂をしています。けれど透明な水が一滴のインクで黒く染まってしまうように、あなたの魂も汚れやすい」
私の良くない感情を指摘され、私は否定できなかった。シウに関わることでは、過去に何度も暴力的な衝動に襲われた。踏みとどまれたのは、あるいは私の中にいるセシオンのおかげかもしれない。
「どうか真実と向き合って、アンブロシウス王子にあなたの気持ちを伝えて下さい。そうでなければ、あなたまで魔王ディミウスと同じく、邪悪に堕ちてしまいますよ」
マルクスは背筋がぞくっとするような脅しをかけてくる。確かにディミウスは神を愛し、神の愛を自分だけのものとしようと破壊行動に至って堕ちたのだ。私はそれよりもっとひどいことができる。
私の魔力で以て例の呪文を唱えれば、この世界を全部虚無の海に落とすことだって可能だ。そうしたら、私の嘘がシウに露見することは永久になくなる。
恐ろしい思考をする私の肩にそっと手が置かれ、マルクスを見上げる。マルクスは神々しく微笑んでいた。
「ただ彼を愛せば良いのです。あなたの成長を、神は見守っています」
マルクスの手の温もりが、服越しに伝わってくる。親愛の情が感じられて、私は甘えたくなってしまった。
「でも、シウを傷つけるのが怖い。それだったらと考えてしまう」
これで最後のつもりで、ごちゃごちゃと悪あがきを口にした。マルクスだったら、うまいこと励まして発破をかけてくれるのではないかと、期待してのことだ。
「そうですか」
すうっとマルクスの表情が変わり、室内がほの暗くなった気がした。目や口元は笑っているのに、なぜか怒っている雰囲気だ。
「アンブロシウス王子はそこまであなたを苦しめているのですね。では無遠慮で無神経なアンブロシウス王子など捨てましょう。世界が終わるよりずっといい。そして私の手を取って頂けますか?」
「え?」
私の肩に置かれていたマルクスの手が、流れるように私の手を下から持ち上げる。求婚でもするみたいに。
「昨日会ったばかりですが、私はあなたの過去の諸行を全て知っていて、その上であなたに愛を感じていますよ。ほかの誰でもない、あなたをお慕いしているのです」
「な……」
マルクスの手に熱がこもっていて、私ははくはくと口を開閉したり、意味のない音を出すしかできない。マルクスにはお見通しなのだろう、私は本当の私を見てくれる人を、ずっと求めていた。
「私なら、あなたを苦しめたりはしない。それに私も一応男ですからセシオンについて、ご協力はできます。まだその能力は試したことがありませんが」
また顔を赤くするマルクスに言われて、私まで顔が赤くなったと思う。この国の教皇は結婚できたはずだけど、いくらなんでも荒唐無稽な話すぎて、私は彼の真意に気付いた。
「……わざとそんな風に言ってくれてるんだな? わかったから、シウにはちゃんと全てを告白するから」
私は手を引いて、背中の後ろに隠した。密室で男女が手を取り合ってるのはよくない。マルクスは不満そうに目を細めたが、それ以上は手を出して来なかった。良かった、本当にただの誘惑するふりだったんだ。
「振られてしまいましたね。残念です」
マルクスは大げさにため息をつく。
「マルクスの気持ちはありがたいけど、私はそうする訳にはいかないんだ」
「……アンブロシウス王子がサミア様を傷つけたら、私のところへお戻り下さい。いくらでもお慰めいたします」
「ありがとう」
私は礼を言って、やや逃げるように部屋を出た。何となく、今日のところは退散した方がいい気がしたのだ。
扉を開けると、そこには待機しているはずの騎士と、見慣れたシウの姿があった。シウは私に変わったところがないかと、紺碧の瞳を素早く動かして観察をしてくる。
「サミア、大丈夫だった?」
「もちろん。それよりどうしてシウがここに? 忙しいんじゃ」
「彼とのお話が終わったという報告がいつまでもないから、心配になって来ちゃった。防音魔法使ってた? 中の音も聞こえないし、ノックしても返事がないし扉を開けちゃおうかと迷ってたとこ」
「そ、そう」
そういえば話をしていた部屋には窓がなく、時間経過がわかりづらかったが、日はずいぶん傾いていた。かなり長話をしていたようだ。突入されていたら、少し危ないところだった。




