曲がり角
私は動揺してベンチから転げ落ちそうな気持ちになった。シウから結婚を求められたのは2回目だけど、前とは事態の現実味が全く違う。
私とシウはもう出会って4ヶ月くらいだし、それでも十分早いけど私が土の下で眠っていた1ヶ月以外は四六時中一緒に過ごしてきた。おまけに、私の体は結婚適齢期になった。今は婚約状態にあるらしいし、できない話ではない。
黙っている私に、シウは期待に満ちた眼差しを向けてくる。確かに婚約の先には結婚があるものだろうけど、本当に結婚するつもり?
「結婚しよう」
だめ押しなのかシウが更に迫ってくる。私の喉に何かがつかえたようで、私は口を開けたり閉めたりした。夏の虫の声や、海鳥の鳴き声が早く答えろと急かしている。でも今は、頭がうまく働かない。シウの肩越しに、熱せられた空気が陽炎となって揺らめいているのが見えた。
「……婚約はいいけど、結婚は嫌だ」
自分でも何を言っているかわからないが、やっと出た答えはこれだった。
「えっと、僕は婚約って結婚の約束という意味だと思ってたけど、違うの?」
明らかな困惑顔でシウは首をひねる。
「シウの見解で合ってる。でも、私はまだ結婚なんて考えられない。シウはずっと私を子ども扱いしてたくせに、急に結婚だなんてイメージできない!」
かなり勇気を振り絞り、私はそう答えた。シウはまだ訳がわからないというように、逆方向に首を倒した。
「別に結婚するからってサミアに今までと変われなんて言わないよ? ダニーロやシェリーみたいな仲良し夫婦になれたらいいなって思うだけ」
「あの人たちは結婚して30年か40年だろ! 急にはそうならない。そこまでの道のりがわからない」
夫婦生活について、孤児の私の記憶にも同じく孤児で独身のままだったセシオンの記憶にも全く情報がない。婚約くらいなら、友達の延長で過ごせる気がする。だけど結婚は未知のものすぎて恐ろしかった。
「道のりなんて、人それぞれじゃないの? 僕は、サミアと同じ時間を過ごして生きたいだけ」
「本当に? 今度こそ子どもを作りたいと思ってるんじゃないのか?」
私の発言に、優しい笑みを浮かべていたシウは凍り付いたように動かなくなった。
「あっ、ごめん」
私は唐突にかつてない恥を知り、頬が燃えるように熱くなった。何を言ってるんだ私は?
私と子作りしたいのかって今聞いた?
先ほどまでうるさかった虫や鳥がなぜか鳴き止んでいる。世界に恐ろしい静寂が訪れ、太陽は厚い雲に覆われ、強い風が吹き付けた。
シウは瞬きもせずに、焦点の合わない瞳で虚ろに地面の辺りを見ている。童貞を拗らせてるシウにとっては敏感で触れちゃいけない話題だったんだ。
「本当にごめん、変なことを言った私が悪かった」
シウの両肩をつかんで揺さぶる。シウはちらっと私を見て、恥ずかしそうに俯いてしまった。これ以上何て言ったらいいのかわからない。
気まずくなり、私たちは日が暮れるまでベンチにただひたすら座っていた。
◆
「そろそろダニーロの店に行ってもいいかな?」
私は立ち上がって、座りすぎで痺れたお尻をさする。
「うん、行こうか」
シウも同じように立ち上がってお尻をさすった。二人して何をやってたのだろう。伸びをして、ぎこちなくレストランに向かう。
丁度いい時間だったらしく、レストランに着くとシェリーはにこやかに歓迎してくれた。彼女の笑顔に、私とシウはほっとして顔を見合わせる。
「今日二度目だけど、いらっしゃい。ねえねえ、サミアさんも大人になったことだし、とっておきのワイン樽を開けるから、祝杯を上げましょ」
レストランの客席中央には、コックを差したワイン樽が設置されていた。
「すてきですね。このワイン樽は僕が買い取りますので、シェリーとダニーロと、店内のお客さんにも配って下さい」
「あら、悪いわ」
「いいんです、僕はあんまり気が回らない方ですがお金だけはありますから」
シウはシェリーに向かって、紳士的に微笑んだ。そうして店内にいた全員に、薄いピンク色のワインが配られる。
「これ、ロゼワインなのよ。サミアさんの髪色みたいで、きれいな色でしょ? このロゼは大体の魚介料理に合うし、おすすめなの」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
ダニーロが厨房から出て来て、手の込んでいそうな前菜盛り合わせを私たちの席に置いてくれた。
「じゃあ、シウさんとサミアさんの婚約を祝って、乾杯!!」
ダニーロとシェリーもグラスを掲げ、店中の人たちに祝われると、婚約はとてもいいもののように感じられた。私はお酒を飲むのが初めてなので、味見程度にワインに口をつける。イチゴや桃のような甘い香りなのに、キリッとした酸味と苦味が舌を痺れさせた。
「サミアは飲める体質なの? 初めてだし、飲み過ぎないでね」
シウがちょっと心配そうに、顔をしかめる私の様子を窺っていた。そういえばセシオンはお酒が好きで、しかも強いのでかなり飲む方だった。
「そういうシウは飲めるのか?」
「僕は、戦争の祝勝パーティーとかで飲んだことあるし、結構いけるよ。でも今日のワインが今までで一番おいしい」
「そうか。私もおいしいと思う」
本当においしいかどうかはまだ良くわからないけれど、シウが嬉しそうなので私はもう一口、ワインを飲んだ。喉の奥が焼けて、気分がふわふわしてくる。
その状態で、小エビとトマト乗ったブルスケッタを食べるといつもよりおいしく感じられた。確かに、このロゼワインは魚介料理に合うかもしれない。
◆
心行くまでおいしいものをたくさん食べて飲み、私は足元をふらつかせながらレストランを出た。シウが横で私を支えてくれている。
「サミアはお酒弱いんじゃないの? 飲み過ぎは体に良くないよ」
「多分そうかな……」
たった3杯でシウやシェリーに止められたというのに、私は歩くのも覚束なかった。セシオンだったら10杯以上飲めたのに、残念なことだ。
「すごく酔った。今夜、魔王兵が出てきたらちゃんと魔法が使えないかもしれない」
「それなら僕が倒すから大丈夫だよ。もっとも、サミアが寝てる1ヶ月の間は2回しか出なかったんだけど、全然大丈夫だったから」
「じゃあ任せるよ」
あくびを噛み殺しながら私はシウの腕にしがみついて目を閉じる。お酒で気が大きくなって、シウに甘えたい気持ちが我慢しきれなかった。
「ちょっと、ここで寝ないでよ、歩いてよ」
「引きずっていってくれ」
「ああもう」
シウは足を止め、私の背中と膝裏に腕を差し入れる。とても軽い動作で、私は横抱きに持ち上げられた。そのままシウは離島の古城目指して歩き出す。
「大きくなったし、重くないか?」
「僕の使ってる槍より軽いよ」
「比べるところ、そこ?」
私はシウにしがみつき、肩口に顔を擦り付けてそっと鼓動の音を聞く。運動状態にあるからなのか、私を抱いているからなのか、心臓はバクバクと激しく鳴っていた。良くない趣味だが密かな満足感に浸る。こんな生活がずっと続けばいいのに、と願いたくなる夜だ。
クロドメール国にも行かず、親しい人がいるこの町でのんびり暮らせるなら、結婚についてもそのうち決心がつくかもしれない。足をぶらぶらさせながら私は慣れた匂いを吸い込んだ。シウがいつも使っている高級な石鹸の匂いがしている。
「あ……」
曲がり角でシウがぴたっと歩みを止めて、掠れた声をあげる。明らかに非常事態のようで、何事かと私は精一杯に首をひねり、進行方向にあるものを視界に収めた。
「あっ」
私も意味のない声しかあげられなかった。驚きに息が詰まり、背筋に冷たい感覚が伝う。薄闇の中、曲がり角に立っていたのは黒いローブを着た長身の男だった。ローブと同じ、真っ黒な髪と瞳が精悍な顔つきを際立たせている。
「セシオン……」
いるはずのない人、生きているはずのないセシオンが眼光鋭く、私たちを睨み付けていた。




