前編 剣の道
「結婚相談所?」
「うん、評判がいいところを見つけてね。恭子ちゃん、登録したらいいんじゃないかって思ったんだよ」
面を取って汗を拭っている私に話しかけてきたのは、同じ剣道の町道場で稽古をしている沙也華ちゃんだった。たった今まで練習相手だった沙也華ちゃんは、来年挙式を控えていて、私の結婚事情まで気になるらしい。
「もうすぐ恭子ちゃん、二十六歳じゃない。恋して叶わない相手なら諦めなきゃ。いい加減、現実を見なよ」
「でも……」
沙也華ちゃんの指摘通り、私には恋する相手がいる。叶わない恋だっていうことは十分わかっているのに──。
「こんばんは、恭子さん」
「わあっ!」
少しばかり掠れた、男性特有の低い声の持ち主に挨拶をされて、動揺して叫んでしまった。いけない、挨拶を返さないと。
「こ、こんばんは、順規くん。今日は部活、お休みなの?」
「はい、試験休みで。ですが、身体を動かしたほうが頭も働くので、今日は道場に来ました。勉強もちゃんとしていますよ」
耳の半ばで切りそろえられた順規くんの黒髪がさらりと揺れる。癖のない真っ直ぐな髪の毛は艶やかで、私はつい見とれてしまう。そう、私の想い人は、彼なのである。
順規くんは高校二年生で、剣道の名門校である聖花高校に通っている。小さい頃から天才剣士と名高い順規くんは、一年生のとき推薦入学したのだった。
「久しぶりだね。聖花高の部活はどう?」
「もうすぐ大会なので、試験休み以外は部活三昧です。こっちの道場にも、もっと顔を出したいんですけど」
「おっ、順規くんじゃないか。早く準備をして稽古しよう」
先生に割り込まれ、私と順規くんの会話は中断した。彼は静かな佇まいで、すっと一礼し、更衣室に去っていく。名残惜しく見つめる私は未練がましい。
順規くんがこの道場に来たのは、小学校三年生のときだ。父親の転勤でここに住むことになったらしい。九歳の彼は既にとても強くて、高校生だった私は「おめでとう!」と勝利する試合での姿を祝うことしかできなかった。
「恭子さんはいつもお祝いしてくれるから嬉しいです」
涼やかな目元を和ませて微笑む表情は可愛らしくて、私も顔が綻んでしまう。年の離れた弟ができた気分で順規くんの成長を見守っていたのだが、その感情が恋へと変わったのはいつであろうか。いかなるときも冷静な立ち居振る舞いの試合姿は完璧としかいいようがなく、その完成された美しい剣技に、いつの間にか魅了されてしまっていた。
やがて、白い剣道着に身を包んだ順規くんが道場に現れた。すらりとしてしなやかな身体は若鹿のようで、どこに闘志を秘めているか見当もつかないが、彼がひどく負けず嫌いなことは知っている。ここ一年、順規くんが負けた試合を見たことはない。
「恭子ちゃん、もう一勝負しよう」
沙也華ちゃんに声をかけられ、はっと我に返る。「いいよ」と了承し、傍らに置いていた竹刀を手に取った。
お互い礼をして開始線の手前まで進む。さっきは沙也華ちゃんに面を二本取られた。沙也華ちゃんが面を得意としているのは知っているので、こちらも対策を講じなくては。
中段に構えて、小手狙いからの鍔迫り合い。沙也華ちゃんの得意技が面ならば、私は──。
「胴────っ!!」
得意技は引き胴打ちである。私は高い技量があるわけではないが、引き技が得意だった。次は引き面打ちも決めて、沙也華ちゃんに勝つことができた。
「相変わらず恭子ちゃんの引き胴は冴えているねー」
試合後、沙也華ちゃんは負けたにもかかわらず、爽やかに笑っていた。それから声を潜める。
「……引き胴が得意って、昔の順規くんの影響でしょう?」
私はぎくりと身を強張らせる。確かに以前の順規くんの得意技は鮮やかな引き胴で、憧れて練習したのは事実だ。
沙也華ちゃんは盛大に溜息をついた。それから、素振りをしている順規くんのほうへ行ってしまった。
「……」
私は黙って俯く。九歳差の恋は、やっぱり間違っているのだろうか。けれど気持ちはままならなくて、無意識に呟いていた。
「順規くん……」
「はい、なんでしょう?」
応えがあるとは露ほど思わず、二、三歩後ろに下がってしまった。そんな私の腕をしっかりとした手が掴む。
「なんで、僕の名前を呼んだんですか?」
順規くんの大きな瞳に顔を覗き込まれる。私は慌てて視線を背けた。
「……特に意味はないの」
「意味がなくて、僕の名前を?」
「……」
「沙也華さんからお話を伺いました。恭子さん、僕と試合しましょう」
私は驚いて順規くんを見る。実力差がありすぎて、彼とは一度も試合をしたことはなかった。それに、沙也華ちゃんは何を言ったのだろう。混乱気味の私を気にする素振りは見せずに、順規くんは面と小手をつけた。
彼が礼をしたので、つられて私も礼をする。そのまま前に進み、蹲踞をした。長年剣道をしてきて染みついた習性なのだろう、戸惑う気持ちとは裏腹に、私はいつも通り試合をする構えを取っていた。
立ち上がり、竹刀の先を合わせて、彼の出方を窺う。順規くんも私をじっと見据えているようだった。数度の呼吸のあと、掛け声を響かせ鋭い一閃を放ってきたので、私はなんとか鍔迫り合いに持ち込む。
至近距離に位置する順規くんの息遣い、表情がよく伝わってくる。いつもの冷静な顔つきの中に、熱い感情が浮かんでいた。彼の熱を帯びた顔を、なぜ今まで知ることがなかったのか私は後悔した。
物理的に身体が、精神的に感情がせめぎ合う。額から汗が滴る。これほど身体と心が高揚したことはないかもしれない。射抜くような順規くんの瞳に貫かれ、私は思い切り退いた。
「胴────!!」
「面──っ!!」
得意の引き胴を私が打つと同時に、彼の面が追いかけてきた。きっと彼は私の引き胴を見抜いていたのだろう。順規くんが笑いかけてくる。
「相打ち、でしたね」
「順規くんの面のほうが速かったよ」
「……そうかもしれません。速さでいったら、そっちが……でも」
彼の言葉に首を傾げる。「でも」とはなんだろう。けれど、試合をしてみて私は晴れやかな気分になった。
「ありがとう……私ね、今の試合で順規くんとお話している気になったの。長いお話をね。だから、吹っ切れたよ」
一度目を瞑り、順規くんの残像を脳裏に焼きつける。黒髪の彼は非常に綺麗で、そして情熱に溢れた人だった。
「沙也華ちゃんから聞いた結婚相談所に登録してみようと思うの。結婚しても、順規くんを応援する気持ちは変わらないから」
──だから、さようなら。私の恋心。
そう思ったのに、順規くんは私を見つめている。試合のときのような、熱の籠った眼差しを向けられ、私は困惑する。
「恭子さん……泣かないでください」
「え……?」
面の中で、気づかないうちに私は涙を流していた。彼は優しく私の面を外し、そしてタオルで顔を拭いてくれる。
「沙也華さんから、結婚相談所のお話は聞きました。貴女に登録して欲しいとも。だけど僕は……」
順規くんは何を言いたいんだろう。頭も顔もぐしゃぐしゃで、私は思考を放棄する。もうじき二十六歳なのに、迷子のような気分だ。
「先程の試合で、僕は恭子さんの引き胴に追いつくことができました」
「うん……追いつくっていうか、面のほうが速かったけどね」
ポニーテールにしている頭を、彼は愛おしそうに撫でてくれる。そして、いつまでも泣いている私の側に、ずっと居続けてくれた。