魔神と魔人
ヴァイス・オウル。
その名はギーゼロッテもよく知っていた。
学会に送りつけてくる論文のことごとくが常識外れでありながら、説得力のある内容に研究者たちは大騒ぎしている。
だがその正体は不明。黒い戦士より調べようはあるだろうが、本人にたどり着く要素は今のところ皆無だった。
アゴスも重々承知しているようで、ヴァイス・オウルの正体を暴くにはまだ時間がかかると言う。
「ただ、かの人物は古代魔法に精通しています。であれば研究の第一人者であるルセイヤンネル教授と親交があってもおかしくありません。あるいは教授こそがヴァイス・オウルという可能性もあります。彼女は特に変わった女性のようですからね」
「ならまずはルセイヤンネルね。連れてきなさい。今すぐに!」
「招くのは簡単です。彼女は研究のためなら何を捨てても構わないという、典型的な研究者ですから」
しかし、とアゴスは立ち上がって一歩下がった。
「古代魔法に精通した彼女を、はたして〝彼〟は見過ごしているでしょうか?」
「あの男がすでに接触していると?」
「わかりません。ですが可能性がある以上、安易に彼女を招けば――」
「わたくしが魔法の解除に動いていると察知される……」
そうなれば黒い戦士は黙っていないだろう。『魔法を解除するな』とは言っていなかった。だがその自信が崩される事態になれば、再び姿を現す可能性は十分にある。
「どうするの?」
「これもまた、革命の混乱に乗じてお連れするつもりです」
肩を竦めて苦笑いするアゴスに不安が募る。
「あの男がルセイヤンネルに接触しているのなら、王都にいることも考えられるわよね? なら革命を邪魔しにくるわ」
息子のライアスは黒い戦士と会ったことをギーゼロッテに報告していなかった。だから彼女はまだ知らない。黒い戦士がすでに王都にいることを。
「むろん考慮しております。いかに強くとも相手は一人。強大な〝個〟に打ち勝つのが我ら人ではありませんか。体一つで同時に複数の問題は解決できないものですよ」
アゴスは冷静に言う。
もとより大きな賭けではあるのだ。今さら後には引けなかった。
「いいわ。決行の日時を教えて。わたくしの力が必要ならいくらでも使われてあげるわ」
プライドなど五年前に捨て去った。
「陽動? それとも囮かしら? なんだってやってあげるわ」
「これは心強い。しかしながら、王妃様には『調停役』を務めていただかなくてはなりません」
「そんなのは事後処理の話でしょう?」
「いえ、革命の前線にお姿を見せれば関与を疑われかねません。王妃様はあくまで革命とは無関係。王やその後継を失った国を立て直すべく貴族派との調停を推し進めなければならないのです。ゆえにこそ――」
次なるアゴスの言葉に、ギーゼロッテは目を見開いた。
「本日、この場に足をお運びいただいたのです」
「……まさか、今日革命を始めるつもりなの?」
「はい。先にお伝えしたとおり、準備はすべて整っておりますので」
アゴスは一礼して告げる。
「本日の夕刻、王宮で貴族派の重鎮たちが秘密裏に国王と会談する予定になっています。国王に退位を迫るためにね。むろん国王がそれを受け入れるはずはなく、決裂する前提の茶番劇ではありますが」
「聞いていないわ」
「国王にこちらの意図を気取られぬよう配慮してのことです。ご理解ください。重鎮たちには交渉が決裂後に革命が実行されると伝えてありますが、実際にはその最中に開始されます」
そこで王と貴族派の重鎮を一網打尽に葬り去る。
「他、学院内と王都の各所で同時多発的に騒乱を起こします。学院にはそれとは別にルセイヤンネル教授の確保部隊を送りこみ、拉致します」
「黒い戦士への対応は?」
「彼が出てくるとすればゼンフィス卿に絡むところ。すなわち学院に通うハルト・ゼンフィスの周囲でしょう。本日は学院に登校しているのを確認済み。教授確保とは別に使い捨ての部隊に襲わせます」
「それで時間を稼ぐのね。でも、王宮や別の場所にあの男が現れたら?」
「問題ありません。最優先たる国王の誅伐は革命開始と同時に速やかに行われます。王宮の異変を感じたところで間に合いませんよ」
ですから、とアゴスは指をぱちんと鳴らす。
「王妃様はこちらでごゆるりとおくつろぎください」
侍女がワインの瓶を持ってきて、ローテーブルに置いた。
白い髪に褐色の肌、赤い瞳はやはり異質に思える。
「王都の騒ぎを感じて赴くのは構いませんが、お急ぎなされぬよう」
「あくまで突発的な事態に対応している風を装えばいいのね?」
「はい。住民の避難などを行っていただければ、黒い戦士も王妃様が関与しているとは考えないでしょう。では、失礼いたします」
深々と一礼して、アゴスは侍女を引き連れ部屋を出ていった――。
高級宿を出て裏路地に入る。
先導するのは白髪の侍女。背後のアゴスが声をかけた。
「メルキュメーネス様、先ほどはありがとうございました。うっかり王妃にアレの話をしてしまうところでした。今は妙な期待を抱かせる時期ではありませんでしたね」
「よい。理解しているのならな」
侍女――メルキュメーネスは振り返りもせずぶっきらぼうに返した。人の気配がまったくなくなったところで立ち止まると、赤い瞳をアゴスに向ける。
「予定どおり我は王都を離れる。以降は汝に任せた」
「承知いたしました。長らく侍女の真似事をさせてしまい、申し訳ございませんでした」
「それもよい。我のような小娘の姿で貴族社会にて立ち回るのは難があったからな。汝はよくやってくれた」
「ありがたきお言葉にございます。ときにメルキュメーネス様、ひとつ確認をよろしいでしょうか?」
「許す。憂い事があるなら申してみよ」
アゴスは居住まいを正して問う。
「黒い戦士とやらが現れた場合――」
「殺せ。不要な存在だ」
メルキュメーネスは表情を崩さず告げた。
「しかし古代魔法を操るとなればその能力は稀少です。魔族返りの人か、魔族か。いずれにせよ利用価値はあろうかと」
「人にしろ魔族にしろ、下等種を使役するのは許そう。利用するのも然り。だが神の御業たる古代魔法を下賤なる種が扱うのであれば見過ごせぬ。発見次第ではない。捜し出して殺せ」
「では、もし奴が我らの同胞――〝魔人〟であったなら?」
「あったとして、なんだというのだ? 仮に彼奴が魔人であるなら、〝魔神〟ルシファイラの名を冠する教団に接触してこぬ以上、志からして異なるものだ。我らが宿願――『魔神復活』の妨げにしかなり得ぬ」
赤い瞳に射竦められ、アゴスは深々と頭を下げた。
「失礼いたしました。我が浅慮に恥じ入るばかりです」
「よい。汝は我のように魔神より生み出でた純血種とは違う。人をやめて間がないからな。人の血肉に宿る我欲を拭うには時間がかかろう。個を捨て、魔神に尽くす。想念を塗り替えるのに腐心せよ」
「……肝に銘じます」
「期待している」
メルキュメーネスの背に、コウモリのような巨大な翼が生えた。
ばさりとひとつ、翼をはためかせる。少女の体はそれだけで高い建物を越えて浮き上がった。騒ぎにはならない。他者の意識をすり替える魔法効果で彼女の姿は鳥にしか見えないからだ。
メルキュメーネスは見下ろしもせず、建物の向こうに姿を消した。
(ふん。人形ごときが偉そうに)
アゴスは内心で毒づく。
彼女の実力はかつての魔王に匹敵するものだ。個ではアゴスを圧倒する。しかし魔神復活のために作られた操り人形に過ぎないとアゴスは見下していた。
(私は違う。人として生き、魔神の力を得て人から昇華した存在だ)
ただ命令に従うことしかできない生粋の魔人よりも、柔軟な思考とそれに基づく行動ができる分、魔神の役に立つと信じて疑わなかった。
いずれ実力でも彼女を上回り、魔神復活が果たされれば取って代わる腹積もりだ。
「今は使われてやる。まずは王都の住民の血で魔神復活の前祝としようじゃないか。ふは、ふははははっ!」
アゴスは哄笑を引き連れて歩き出す。
革命の刻は、すぐそこまで迫っていた――。




