暗躍する者が狙う者
王都の北側は大街道に面しており、商人が活発な地域である。
多くの旅人で賑わうこの地区には大小さまざまな宿屋が店を構えていた。
そんな中で異彩を放つ絢爛な高級宿に――しかもそのスイートルームに、聞いたこともない名の男が宿泊していた。
宿泊者名簿に記されたのは偽名だった。
本名はバル・アゴス男爵。
王国での男爵位は個人に与えられるもので、高級宿をお気軽に利用できるほど資産はない。
王妃ギーゼロッテが訝しむのも当然だった。
「分不相応な部屋を取ったものね」
応接間に入るなり彼女は言い放った。深くかぶったフードを取り去ると、わずかに粗末な首輪が覗く。
「王妃様をお呼び立てした無礼を思えば、これくらい安いものでございます」
慇懃な物言いで深々と首を垂れる男。バル・アゴス男爵だ。
精悍な顔立ちながら顎鬚は整えられ、清潔感のある紳士然とした風貌をしている。痩せ型の筋肉質で低音の甘い声。三十手前の若さから縁談話がひっきりなしというのもうなずける。
だが、彼には謎が多い。
三年前、南方地域の紛争鎮圧で活躍して男爵位を得たものの、それ以前の経歴が不可解だ。
彼の魔法レベルは【34】/【38】。魔王がいた時代なら討伐メンバーに名を連ねていただろう。
にもかかわらず、ほとんど無名のまま五年ほど前に突如として軍に入り、めきめきと頭角を現していったのだ。血統をたどれば凋落した貴族に行き着くらしいが、どうにも胡散臭い。
ギーゼロッテはローブを着たままソファーに腰かけた。
侍女がすっと寄ってきて、ワインをグラスに注ぐ。
変わった女だな、とギーゼロッテは思う。
褐色の肌に、肩で切りそろえられた白い髪。瞳は紅玉のように赤い。王国の人間ではなさそうだ。
歳のころは十七、八。体つきは貧相で、美しいが夜を楽しむ相手とも思えなかった。
侍女は離れて部屋の隅に行くと人形のように直立した。
「それで? 王妃たるわたくしを呼び出してなんの用件かしら?」
グラスには手を付けず、鋭い視線をアゴスに突き刺す。
「月並みではございますが、良い知らせと悪い報告、どちらを先にいたしましょう?」
「悪い報告の予想はつくわ。だってライアスはまだ生きているもの」
ライアスの殺害を提案したのはギーゼロッテに他ならない。
彼女は当初ライアスを次期王とし、その後ろ盾として実質的に王国を乗っ取る腹積もりだった。しかし『ルシファイラ教団』と手を組んでからはむしろ邪魔になっていた。
ギーゼロッテは、自らが女王となる計画を進めていたのだ。
「これは手厳しい。学生に任せたのは私の不手際。言い訳をするつもりはございません。ただ……そちらはむしろ良い知らせに含まれます」
怪訝な顔になったギーゼロッテに、アゴスは無表情に語る。
「もとより王子暗殺は王宮を混乱に陥れ、国王派に罪をなすりつけて弱体化を謀るもの。結果、王妃派と我ら貴族派が結束する建前を整えるためにすぎません」
しかし、とアゴスは続ける。
「それはあくまで手段であり、我ら本来の目的とは異なります。この程度のズレで計画が頓挫することはありません」
「たいした自信ね。では良い知らせとは――」
「はい。〝革命〟の準備はすべて整いました」
ぞくぞく、と。ギーゼロッテは体の芯を快楽が伝うような感覚に身震いする。
「愚昧なる王を誅伐せしめ、次なる王は協議の末に王妃様に決定する。むろん邪魔なライアス王子やマリアンヌ王女、そして異を唱えそうな貴族派の重鎮どもは革命の混乱でご退場いただきます」
「ふ、ふふふ……。結果だけ見れば王妃派の一人勝ちね。貴族派の重鎮たちも、まさか身内に裏切られるとは思っていないでしょう」
「私のようなぽっと出は末席がせいぜい。貴族派主導で王を誅したとて領地がわずかばかり増える程度で出世は望むべくもありません。けっきょく彼らは実績よりも家柄重視ですからね。もとより貴族派に忠誠心など……」
アゴスは自嘲気味に薄笑いを浮かべ、首を左右に振る。
「わかっているわ。その代わり、〝教団〟での地位は保証しましょう。ええ、今はまだ幹部候補にすぎない貴方だけれど、わたくしの側近にしてあげるわ」
ギーゼロッテは新興宗教団体『ルシファイラ教団』を資金面で援助しており、発言力がある。
そしてアゴスもまた教団に所属する信徒だった。
革命は王妃派と貴族派が結託して行われる。だがその中心ではルシファイラ教団が暗躍していた。
「恐悦至極に存じます。我が忠節は、教団と王妃に捧げましょう」
胸に手を当て恭しく首を垂れるアゴスに満足したのか、ギーゼロッテはようやくグラスに手を伸ばした。
「で、悪い報告というのは?」
「はい、と言いましても悪いだけではないのですが……その首輪と御身に施された魔法の解析が完了いたしました」
ごくりとワインを飲み下し、ギーゼロッテは鋭い視線を突き刺す。
「ダメでした、なんて言わないわよね?」
「解析自体は成功しています。結果は驚くべきものではありましたが」
「もったいぶらないでちょうだい!」
苛立ちを吐き出したギーゼロッテに一礼してから、アゴスは窓際に立った。
「誤解を覚悟で申し上げますと、御身に施された魔法は――結界魔法です」
「なん、ですって……?」
「ええ、不審に思われるのも当然でしょう。ただ結界魔法といっても我らが知る補助的な効果しか持たぬものではなく、古代魔法に連なる極めて高度に完成された魔法なのです」
アゴスは窓に手を添えた。
「主な機能は『空間をつなげる』もの。たとえばこの窓と、あちらのドアを同じ機能でつなげたとしましょう。ドアを開いて中に入った者はしかし、部屋の中ではなく窓の外に出てしまうのですよ」
ギーゼロッテは危うくグラスを落としかけ、震えながらローテーブルにグラスを置いた。
「転移魔法、ではないの……?」
「詳しい説明は省きますが、似て非なるものです。転移するその瞬間に膨大な魔力を消費して起動する転移魔法とは異なり、そちらの魔法は常時つながった状態なのです」
ギーゼロッテの混乱に拍車がかかる。
彼女は魔法の実践技術に長けているだけでなく、魔法理論でも第一線の研究者レベルだ。だが実戦で必要な現代魔法の分野に限られていた。
「でも待って。だったらあの男は、転移魔法レベルの魔力を今も消費し続けているというの?」
「いいえ。古代魔法では魔法効果を維持するのに魔力を必要としない場合もあります。あるいは極少量の魔力で事足りるか。いずれにせよ、常識を逸脱するその魔法は古代魔法でなければ説明がつきません」
「あの男は、古代魔法の使い手……」
「おそらくは」
そんな人間が、今の時代にいるのだろうか? 信じられなかった。いや、それよりも――。
「わたくしは、ずっとこのまま……」
古代魔法の使い手など探して見つかるものではない。術者である黒い戦士以外には、誰も。
なるほど、これは確かに悪い報告だ。
絶望が肩にのしかかる。虚無感が心に穴を空ける。だが――。
「悲観なさるにはまだ早いかと、王妃様」
いつの間にかアゴスが近寄っていた。膝を折り、顔を寄せてくる。
「当てがないわけではありません」
「古代魔法の使い手に!?」
アゴスはこくりとうなずく。
「ただ確実であるとの保証はできかねます。極めて危険ではありますが別の――」
「ん、んんっ!」
言葉の途中で部屋の隅で佇む侍女が咳払いをした。「失礼しました」と喉を押さえながら無表情に告げる。
「申し訳ございません。不安を煽るつもりはありませんでした」
妙なやり取りに不審が芽生えたが、今は何より優先すべきことがある。
「いいわ。それより誰なの?」
「一人はグランフェルト特級魔法学院で古代魔法を専門に研究する教授。魔法研究分野においては学院始まって以来の天才と称された女性です。名はティアリエッタ・ルセイヤンネル」
ギーゼロッテも聞いたことのある名だ。しかし興味の薄い分野の研究者であるので、知っているのは名前程度だった。
「その言い方だと、他にもいるの?」
アゴスは静かに告げる。
――ヴァイス・オウル。正体不明の天才研究者です。




