呼ばれたので
ぱちーんぱちーんといい音が鳴る。
「ええい、根性のない男だ。おい、起きろ」
シュナイダルの頬をひっ叩く音だ。今後はおにちくメガネと呼んだほうがいいかもね。
「ルセイヤンネル博士本当にやめてください! ハーフェン侯爵のご子息ですよ!?」
「そんなことは百も承知だ。おっ、気がついたな」
シュナイダルがぱちっと目を開いた。
「お前ぇ! よくも私にあんな責め苦を――げぇっ!? ハルト・ゼンフィス! それにそっちの女も!」
「パイセンどもっす」
「この場合、どう返すのが正しいのだろうか? ごきげんよう、……は違うか」
俺はここで、とても重要なことを思い出した。彼から決闘の取り下げの連絡を受けていないのだ。
「そういえばシュナイダル先輩、今日の夕方って――」
「あーあーあーっ! アレな。見てのとおり私は体調が思わしくない。というかあの約束自体を忘れろ。私とお前との間には何もなかった。いいな?」
この期に及んで上から目線(物理的には倒れている彼は下からだけど)には恐れ入る。
ティア教授が首をひねる。
「約束……って、ああ。キミたち二人が決闘する話か」
「ななななぜそれをぉ!?」
「キミの使いが男子寮の玄関先で大声で叫んでいたそうだ。昨日の夕方くらいから学内はその話で持ちきりだよ」
さあっと貴公子さんが顔を青くする。
「とりあえず先輩が取り下げてくれてよかったです」
「うむ。我らが証人だ。決闘を申し込んでおきながら当日に取り下げとはね。貴族の矜持というものがないのか、キミは」
貴公子さんは口をぱくぱくさせ、でろんと転がったまま脱力した。
「さて、そちらの話は終わったね。ではこちらに話を戻そう」
ずぼっとペンを抜くと、シュナイダルは「きょえ!」と叫んだ。
「おのれ……。貴様、私をハーフェン家の次期当主と知っているのだろうな!」
「だから知っていると言ったろう? キミのほうこそよくもワタシを頼ってきたものだ。ルセイヤンネル伯爵家が国王派なのを知らなかったのかな? キミの家は国王派でも王妃派でもないけど、いちおうは対立関係にあるはずだよ?」
ちなみに、とティア教授は俺をあごで示して言った。
「あちらは国王派筆頭のゼンフィス辺境伯のご子息だけど、当然知っているよね?」
「父さんを持ち出すの、やめてもらえます?」
「これは失礼。いつも飄々としているキミにとって、そこは譲れない一線だったか。覚えておこう。ま、ワタシも貴族のごたごたを利用するつもりはない。国王も好きじゃないしね。それが意味ないと言いたかっただけだよ」
ティア教授はシュナイダルの胸倉をつかんで持ち上げると、わざわざ肩を組んで耳元でささやく。
「残念ながらワタシではこの魔法は解除できない。つまりこの世でそれができるのは術者本人だけさ。いい加減、誰がかけたか吐いたらどうだい?」
「ぅ……ぅぅ……」
「キミが口をつぐむ理由は訊かない。ただどこの誰だか教えてくれさえすれば、ワタシがその人物と交渉しよう。ワタシは好奇心から提案しているのではないよ? キミを苦痛から早く解放してあげたいのだ。本当だよ?」
絶対嘘だな。俺にはわかる。
シュナイダルは眉間のしわを濃くし、脂汗をたっぷり流しながら、ぽつりと言った。
「わから、ない……。全身が黒ずくめで、奇妙な声の男だった。ただ、それだけなんだ……」
「ふむ。正体不明の悪漢にやられたのが屈辱だったわけか」
シュナイダルはぎりっと奥歯を噛んだ。
「妙なところでプライドが邪魔をしたのだね。いや本当は、口外したら命の危険を感じたからかな? いずれにせよ両方にせよ、心底悔しいなら、なりふり構わず情報収集に勤しむべきだろうに」
傷口に塩を塗りたくる彼女を誰か止めてあげたら?
「でもまあ、なるほど。今のわずかな情報でも、ワタシは一人、該当する人物が頭に浮かんだ」
「「えっ?」」
声を合わせたのはイリスとシュナイダル。俺はまあ、ティア教授がにやりとこっち見てるからなんとなくわかった。
「ハルト君、ゼンフィス卿領内では数年前から、正体不明の正義の味方が出没しているそうだね。特徴はシュナイダル君が言ったとおりだ。面識はあるかね?」
「いえ、ないです」
実際、公衆の面前でコピーの俺が『シヴァ』モードの本体に会ったことはない。自室でシャルたち仲間がいる状況では何度もあるけど。
「何者なのかな?」
「詳しくは知りません」
「コンタクトの手段は?」
「わかりません」
努めて淡々と答えているのだが、ポーカーフェイスはコピーより本体のが得意なんだよな。魔法が使えない以外では、性格面で微妙に差があるっぽいのだ。
「辺境でしか活動してなかった彼が、ハルト君が王都へやってきたタイミングで現れた。偶然、とは思えないよねえ」
いかんなあ。完全に標的がシュナイダルから俺に移ったぞ。
「そうですか? なんか用事があったんじゃないですかね?」
「用事、か。なるほどたしかに、今の王都は混沌としている。となるとむしろ、キミがこの学院に派遣された事情から明らかにすべきかな」
「俺はなんだか知らん間に推薦されて入っただけですよ」
「国王直々に、ね。何かしらの意図がないと考えるほうが不自然だよ」
「そう言われましても、まったく心当たりがありません」
「しかし実際にキミの実力は『ミージャの水晶』を破壊するほど底が知れない。ん? ということはつまり? ふぅむ……」
マズいな。このまま詰め寄られると、言わんでもいいことを言ってしまいそうだ。だって俺、魔法が使えないクソザコですもの。
いちおう防護用結界が俺を守っているから、拷問には耐えられると思う。
しかし長時間にわたり拘束されたら、一刻も早く部屋でゴロゴロしたい俺の精神がもたない可能性は大きかった。
「ピンときた! もしかしてキミがその黒ずくめの男じゃないのかね? いや絶対にそうに違いない!」
どうしよう?
助けて本体!
「俺を呼んだな! 正義の化身、その名もシヴァを!」
唐突に、全身黒ずくめのスタイリッシュな男が現れた。え? なんで? どうして本体が出てきたの?
あー、なるほど。
クセの強いちびっ子メガネ教授とKY女に挟まれた俺が面倒事に巻きこまれてボロを出さないか、監視してたな。
わかる。わかるよ俺だもの。
だってこの世で一番信用できないのは、自分だものね。誰かも言ってた。