貴公子、濡れる
長い時間をかけて上着を脱ぐと、白髪の女の胸がより強調されたようにシュナイダルは思えた。
平民にしてはまとう空気に気品がある。
女に不自由はしていない彼だが、その所作に見惚れてしまった。
ベルトに手がかかる。取り巻き連中は男どころか女まで息を殺し、かちゃかちゃと煽情的な金属音が耳に貼りついた。
しゅるりとズボンが落ちたものの、シャツの丈が長くて太ももにかかっている。
下から順に、シャツのボタンが外されていく。もたつく動きはさらにゆっくりとなり、反してシュナイダルのイライラは加速した。
「どうした、手が震えているぞ。なんならこいつらに手伝わせてやるが?」
取り巻きの一人、体格のいい男が下卑た笑みを浮かべる。
「……いや、遠慮しておく」
女は気丈に答え、中ごろまでボタンを外すと、今度は一番上のボタンに指をかけた。ひとつ、またひとつボタンが外れていく。
豊満な胸の谷間が露わになり、いよいよ最後のひとつが外された、まさにそのとき。
「なっ!?」
突然、シュナイダルの視界が黒に染まった。
「きゃっ!?」
彼を治療していた取り巻きの女が悲鳴を上げ、以降ぱったりと声が途絶えた。
「おい、どうしたというのだ? 早く明かりを灯せ」
彼の苛立ちに応じる者はいない。
暗闇に目が慣れるのを待ちきれず、立ち上がって辺りを見回した。
「ん?」
振り返ったシュナイダルは、おかしな事態に気づいた。
椅子が、ある。
自身が座っていた椅子だ。その存在を確認できた。左手を持ち上げる。こちらも見えた。目線を下げれば、自分の服装も、だ。
だがそれら以外は完全なる『黒』だった。
明かりが消えて暗闇になったのではない。文字通り周囲が『黒に染まった』のだ。逆に明かりがないのに見えているのが不思議だった。
「どうなっている? おい、誰か。誰かいないのか!」
暗闇ではないものの境界が曖昧だ。手を伸ばし、先ほどまで白髪の女がいた辺りまで歩いていくと、壁に阻まれた。真っ黒な壁だ。
「いったい、何がどうなっているんだ……? くそっ」
壁をぺたぺた触り、こぶしを叩きつけた。
ぬっ。
「ひぃ!?」
壁から真っ黒な頭が飛び出して、シュナイダルは飛び退いた。
背景の黒に溶けるような、全身が黒の男が現れる。
「悪い悪い。あっちに手間取ってさ。服を着ろって言うのに『キミは誰だ』とか『これはなんだ』とか質問攻めしてきやがった。立場わかってないな、あいつ」
この異常事態にはふさわしくないノリの軽さだ。いくつも重なったような声が不快だった。
「おっと。モードチェンジを忘れてた。うおっほん。……待たせたな」
「何者だ!」
「俺は陰のヒーローにして闇の正義執行人、『シュヴァルツァ・クリーガー』またの名を『シヴァ』という」
「お、おのれ、ふざけた奴め……。どうやってこの部屋に侵入した? 私をハーフェン侯爵家の次期当主シュナイダルと知っているのだろうな」
右肩の痛みに耐えつつ、シュナイダルは小さく素早く詠唱を行う。
「遅いな。この檻にお前を捕らえた時点で、こちらの準備は終わっている。今さら攻撃も防御もさせない」
何を言っている? と疑問を持ちつつ詠唱を続けると、
「――ぐぉ!」
右肩に強烈な痛みが走った。肩を押さえようとして、男の言葉を理解する。
「なんだ、これは……?」
だが状況を理解するには至らなかった。
右肩に、透明な石のようなものが貼りついている。前後に、こぶし大の何か。それらが右肩の傷を押しつぶしてくるのだ。
男が指を三本立てた。
「お前の罪を三つ、俺は裁きに――」
「私の質問に答えろ! これはいったいなんだ? お前は何者――ぐぉぉぉおおぉ!!」
右肩が前後からぐりぐり押され、シュナイダルは転げ回る。
「あのさ、俺がしゃべってる途中じゃん? 最後まで聞こうよ。あと、そっちの質問には答えません」
石のようなものが緩む。しかし激しい痛みに詠唱もままならず、反撃の糸口が見えなかった。
「よし、気を取り直して続けよう。お前の第一の罪は、下級生に理不尽な因縁をつけて騒ぎを起こしたことだ。てかあの学校ってどうなってんだよ? そこらで魔法戦やったりする無法地帯なの?」
今は、痛みが治まるのを待ち、相手の隙を窺うべきだろう。
「……上級生が、下級生に〝指導〟するのは認められている。私は、ハーフェン家の次期当主だ。副生徒会長でもある。あの程度は許される範囲内だ」
嘘だった。
校内はもちろん、校外でも生徒間の魔法戦は禁じられている。だがそれはやり方次第だ。事後処理でも政治力でどうとでもなった。今までは。
「これだからお貴族様は嫌だねえ。ま、俺は許さないけどな。安心安全な学校生活にしなくちゃダメ」
もはや男は素を隠さなくなったようで、指をクロスさせる。
「で、二つ目は決闘の件だ。状況的に痛み分けでいいのに、か弱い新入生に貴族のメンツ持ち出して公開処刑しようなんて、汚すぎるだろ。これもダメ。公序良俗的にギルティです」
「バカな、それは貴族の誇りを守るための至極真っ当な――」
「だからさ、今は俺が裁いてるの。俺基準、いい? 俺がダメっていったらダメなの」
「そんな横暴な話があるか!」
「お前だって似たようなことしてるだろ? 立場が変わったら文句言うとか、カッコ悪いぞ?」
「ぐ……おのれ……」
反論をすんでのところで飲みこんだ。今は男の機嫌を損ねるよりも我慢のときだ。
「で、三つめは、これってわりとついでだけど、セクハラはあかん。女の子に裸踊りとか、むしろよく言えたなって思うよ。恥ずかしくないの?」
「お前は、あの女とつながりがあるのか?」
「いんや、知らない。名前も知らん」
そういえば、とシュナイダルは今さらの疑問を持った。
平民でグランフェルト特級魔法学院へ入学できるのは、かなりの実力者である場合が多い。しかも飛び抜けた容姿と変わった性格。
自分の耳に入ってこなかったのは、成績がギリギリだったからだろうか?
「てなわけで、以上三つの罪により、お前にはしばらくその『万力ブロック』を付けといてもらう。外そうとしたり、治療をしたら即座にぐりぐりいくから、気をつけるようにね。あ、止血くらいはできるから、そこは安心してよ」
「なん、だと……?」
「ああ、そうそう。お前自身が魔法を使おうとしてもぐりぐりする。そんなんじゃ決闘は無理だろ? 今の内に取り下げておけ。恥かくぞ?」
シュナイダルはしばし放心する。何度も男の言葉を脳内で反芻し、思わず笑いがこみ上げた。
「は、ははは。愚かな。どんな魔法を使っているか知らないが、数日も維持させる魔力がお前にあるとでも言うのか?」
簡単な結界魔法でも一日張り続ければ、たいていの者は魔力が底をつく。王宮を防護するような大規模な結界になれば、数十名が交代してようやく維持できるのだ。
「嘘だと思うなら明日の朝にでも試してみればいい。俺が解くまでお前はずっとそのままだ」
嘘だ、とは声にならなかった。
見たことも聞いたこともないような魔法を操り、自信満々に告げた男の言葉が、頭の中にこびりつく。
だが――。
(認めない。私は絶対に認めないぞ!)
魔法使いが魔法を封じられる屈辱。
どこの誰かもわからない男に、訳がわからないまま屈服するのは耐えられなかった。
いや、完全に魔法を封じられたわけではない。
男は『使えなくなる』とは言っていなかった。
痛みとは、耐えて抗うものだ。
ならば、とシュナイダルは小声で詠唱を始めた。
「ぐぎゃぁあああぁぁ! いだ、いだい、いだいぃぃいぃ!」
激痛が右肩を襲い、全身を駆け巡った。シュナイダルは床をごろごろ転がる。
「言ったそばから何やってんだよ。ま、これでわかったろ? しばらく大人しくしてるんだな。ちゃんと反省したら解除してやるよ」
そう言って、男は出てきた黒い壁に消えていった――。
黒い世界の只中で、シュナイダルは横たわっていた。
大貴族の次期当主にして、国内一の魔法学校で副生徒会長を務める自分が、体液を垂れ流して床に転がっている。
無様。あまりに無様。
誰にも見せられない姿だ。黒い世界で一人でいるのが、今は安らぎにすら感じていた。
しかし――。
どれだけ時間が過ぎたろうか。
五分か、一時間か、もしかしたら一分も経っていないかもしれない。
やがて黒い世界は現れたのと同じく、突如として消え去った。
「シュナイダル様!」
「お気を確かに!」
「何が起こったんだ?」
「こんなに憔悴なさって……」
「すぐに治療だ、早くしろ!」
ああ、誰にも見られたくない姿を、晒してしまった。ただ黒い男はもちろん、白髪の女もいなくなっていた。
取り巻きたちに抱き起こされる。
と、一人がシュナイダルの下半身に異常を見つけた。
「濡れている?」
「ぇ、これってもしかして……」
「漏らしてる、のか……?」
「シュナイダル様が……」
気まずい雰囲気が漂う中、治療係の女が彼の右肩に手を添えた。詠唱ののち、ほんのり手のひらが光を帯びると。
「ぐぎゃぁああぁあ! や、やめろ! 治療をすぐに、やめろぉぉおぉ!」
女を突き飛ばし、股を濡らしたまま床に這いつくばる。
あまりに惨めな様子に取り巻きたちは困惑するも、誰かが乾いた笑いを漏らした。
「ちょ、お前やめろよ」
「失礼でしょ!」
「だってよぉ……」
ひそひそ話す声で、いっそう惨めな気持ちになる。
(なんという、醜態だ……)
もはや怒りすらも湧かず、シュナイダルの意識は闇の底へ沈んでいった――。