勝敗決す
それは、人の身で為し得る所業なのだろうか。
すくなくとも自分は、今も前世でも、知らない。
遠く、直径一キロに及ぶ穿たれた大地を眺め、イリスフィリアはただ呆然とした。
その威力もさることながら、信じられないのはあれだけの大爆発を起こしながら、大穴以外に周囲への影響が皆無であることだ。
地面に超巨大な穴を作っておいて、そこへ向かって逃げていた帝国兵はもちろん、山の木々やそこに住む小動物たちでさえ、傷ひとつ付いていなかった。
『ふん、戦意喪失か。こちらは片付いたな。さすがはハルト様だ』
のそりと巨大な狼が寄ってきた。
フレイの言うとおり、帝国兵は立ち尽くしたりへたりこんだり、もはや逃げる気すら喪失している。
「無理もない。あれほどの威力を見せつけられたら、誰だって抵抗する意志は根こそぎ奪われてしまう」
目測で三万の軍勢は、誰一人として失われていないのに機能を完全に失っていた。
そこへ、天から高らかな声が降る。
「帝国の諸君!」
その音量は盆地全体へと響き渡った。
「今日、この時点をもってこの盆地一帯は我々――『人魔が仲良く暮らす国造り』実行委員会が占拠した。我らが法を守るのなら参加して構わない。この地を離れて故郷に帰るも良し。この地に残って我らと暮らすも良し。君たちは自由だ!」
誰もが耳を疑った。
イリスフィリアもそうだ。
(たった今、戦っていた相手にも声をかけて仲間にしようというのか、キミは)
彼女が目指すのは、今まさに彼が言った『人魔が仲良く暮らせる世界』だ。
そのために魔王から人への転生を計り、人の側から魔族や魔物への偏見をなくそうとしてきた。
(やり方は、すこし強引だけれど)
彼はその圧倒的な力を、ただの暴力として振るわず、己が独裁に使わない。むろん強力な力を一人に委ねるのは、将来的な独裁の危険を孕んでいる。
(でも、きっと彼は、そうならない)
その正体がハルト・ゼンフィスと知れた今、確信めいたものがあった。
まだ付き合いが短く人となりを把握できたわけでない。
ただ、思うのだ。
彼の義妹に対する振る舞い、フレイや魔物たちへの接し方からは、彼が独りよがりの為政者になる未来がまったく想像できない、と。
(ボクのやり方では時間がかかりすぎる。もしかしたら、彼のようなやり方こそ――)
最善とは言わないまでも、より早く、より確実に、理想を実現できるのではないか。
そんな考えが頭の片隅に浮かんだ直後。
「おい、ちょっと来てくれ」
いきなり手を引っ張られた。
返事をする間もなく、近くに出現したドアの中にイリスフィリアは吸いこまれていった――。
先遣隊司令官は冷や汗を拭うのを忘れて立ち尽くす。
人魔が仲良く暮らす?
自由だと? 故郷に帰るのも、この場に残って連中の仲間になるのも。
バカバカしいと吐き捨てるより先に、司令官は不意に思い出した。
謎の黒い男はたしかに最初、こう言ったのだ。
――奇遇だな、帝国の諸君。我らは君たちを歓迎する!
やられた、と司令官は舌打ちした。
(これは王国との戦争だ。そうでなければ、ならなかったのに……)
黒い男は帝国でもなければ王国でもない、魔の軍勢を率いた純然たる第三勢力としてこの地に現れた。そこにたまたま帝国兵が現れて交戦となった。
そんなシナリオを突きつけてきたのだ。
黒い戦士シヴァの報告は受けている。王国内で正義の味方のまねごとをしている、奇妙で奇特な男だ。
(そんな男が、なぜ魔の軍勢を引きつれている?)
魔王の後継者。そんな言葉が脳裏をよぎった。
だとすれば、連中と王国のつながりを証明しなければ――せめて捏造する根拠くらいは手にしなければ、今回の件は『帝国領内での人魔の縄張り争い』にすり替えられてしまう。
この地はまだ、国境を越えていないのだ。
王国での活動を理由にその関係性を主張できるだろうか?
とある宗教団体からの情報なのでどこまで正確かは不明ながら、王妃にして魔王討伐の功労者ギーゼロッテに妙な首輪をつけたのがあの黒い男だとの話がある。
また国王ジルク・オルテアスは黒い男に激しい憎悪を抱いている――一説によればひどく怯えているとの噂もあった。
辺境伯は黙認しているものの、理由は『手が付けられない』からと伝わっている。統治者として不甲斐ない噂を、自ら流すとは思えない。
けっきょく『国内で勝手気ままに動く正体不明の男に王国も手を焼いている』との考えを覆す根拠を、今のところ帝国は把握できていないのが現状だ。
司令官は奥歯を噛みしめてのち、残る力を振り絞って号令する。
「撤退だ! 各隊はひとまとまりに、負傷者も残さず本陣へ戻る!」
時間はかけても問題ない。
見た範囲で死者はいなかった。おそらくわざと殺さなかったのだろう。
甘っちょろい相手ならば、付け入る隙は絶対にある。
(ひとまず本陣に戻って態勢を……ん?)
先ほどまで空中に浮いていた黒い男が、いつの間にか姿を消していた。
遠巻きに眺めている魔物たちの中にも、それらしき姿が見て取れない。
(奴は、いったいどこへ……?)
背に怖気が走る。
司令官は恐怖に後押しされるように撤退を急がせた――。
負傷兵が遅れるのも構わず、大穴を迂回し、ただひたすら山道を駆けた。
いつ黒い男が背後から襲ってくるか気が気ではなかったが、杞憂だったらしい。
いつしか心に余裕が出てきたころ――前方から一騎、ものすごい速度で迫ってきた。
「待て! どこの部隊の者だ? 私は――」
呼び止めると、兵士は汗びっしょりでうまく話せないほど震えている。ようやくひと言『本陣からの伝令』だと名乗った。
「いったい何があったのだ? 本陣はどうなった!?」
伝令の兵士は間を置き、ぽつりぽつりと語る。
「お、おかしな黒い男が、現れて……」
やはり、黒い男が本陣に向かったのか。もし、あの大爆発を食らったら。
(本陣の主力二十万が、一瞬で消し飛ぶ……)
嫌な想像に身震いした直後、兵士の言葉に愕然とした。
――すべての武具および糧食が、奪われました。