侵攻前夜
王国の北に位置し、大陸の三分の一もの広大な国土を有するのが帝国だ。
ここ数代、王国とは対魔族で協調して良好な関係を築いていたものの、かつては大陸の覇を争い、魔王討伐後は王国内の勢力争いに裏で加担するなど、侵略の機会を虎視眈々と窺っていた。
帝国西部に位置する帝都の中心部、豪奢な宮殿にある謁見の間で一人、帝国皇帝ヴァジム・ズメイは玉座に腰かけていた。
五十を迎える直前でありながら肌艶は瑞々しく、濃い茶の髪に白は交ざっていない。眼光鋭く逞しい体躯からも、初めて見る者は二十代と見紛うほどだ。
広々とした部屋に彼以外の姿はない。
ただ皇帝ヴァジムの眼前には半透明のウィンドウが浮かんでいて、そこには二人の少年少女が映っていた。
『今、なんて言ったのかしら?』
画面の中で珍しく笑みを消し、不満そうに金の瞳を揺らす少女――ユリヤ・マルティエナが尋ねる。
質問ではなく『拒否』の表れであるとは承知しているが、ヴァジムはあえて問いに答えた。
「王国への侵攻準備が整った、と言ったのだ。そこにそれ以上の意味はない。其方らに戻れとは言わぬ。敵国の臣民なれば当たりは強くなるだろうが、其方らは意に介すまい? せいぜい学生生活を楽しむのだな」
『あなたに言われなくても楽しむわ。その邪魔をしないで、と言っているのだけど?』
「さすがにそこまでは面倒見きれぬな。なに、王国とていきなり学生を徴用すまいよ。学友たちとは今までどおり、しばらくは平穏に過ごせよう」
『どうして今なのよ? もっと後でもいいでしょう?』
「むしろ『今』以外にあるまい。閃光姫ギーゼロッテが失脚し、国王ジルクが倒れた今をもって他にな。国内をまとめるべく奔走しておるゼンフィス辺境伯を領地に釘付けできれば、あとはわずかな工作で王国は内部から崩壊する」
今回の侵攻作成での領土奪取は考えていない、とヴァジムは付け加えた。
『王国で内乱が起きたら挟み撃ちして、けっきょく辺境伯領を奪い取るつもりじゃないの。ダメよ。許さないわ、そんなこと』
「いちおう訊いておこう。何故だ?」
『だってわたしのお友だちが哀しむもの』
ヴァジムは冷笑で肩を竦める。
「其方には恩がある。余が皇帝となれたのは其方らの〝力〟に依るところが大きかった。しかしそれとこれとは話が別だ。余は帝国皇帝であり、其方は帝国貴族すなわち臣である。そこを履き違えるではないぞ?」
『ふぅん……』
なんとも不快な瞳だ。そもそも黄金に満ちる瞳など、人であろうはずがない。
(そう、彼奴らはおよそ〝人〟ではない。彼奴らがその気になれば人たる余など、ひとたまりもあるまいて)
もちろんなんの考えもなく煽ったのではない。
ユリヤは中堅ながら古い名門貴族の後継者、次期当主だ。どうやってその地位を手に入れたかはわからないが、人ならざる者が人の社会に入りこんでいるのには必ず理由がある。
(ならば余を排除しては困ろうな)
ユリヤたちが陰ながらヴァジムを推して皇帝の地位に就かせた結果、マルティエナ家は『帝国皇帝』の後ろ盾を得た。
逆に言えば、マルティエナ家は皇帝の後ろ盾がなくなれば一気に衰退してしまうのだ。
だからこそ、今この場で上下関係ははっきりさせておかなければならなかった。
『悪いけど、止めるわ』
いつもの笑みが戻った。
だが警告はしても直接の手段で害をなすつもりはないらしい。
とはいえ、対立したままでは後々面倒だ。
「ユリヤ、理解してほしい。冬に凍らぬ土地は、余のみならず我が臣民の悲願。ようやく積年の願い叶う機会が得られたのだぞ」
『……』
ユリヤは応じず、通信を切った。
「ふん、情に訴えれば惑う。人外とはいえ見た目通り可愛いものよ」
ただし油断はならない。
会話中ひと言も入ってこなかったウラニスは終始、こちらを睨みつけていたからだ。
(しょせんはユリヤの腰巾着。あやつが独断で動く可能性は低い。だが侵攻を遅らせる程度の嫌がらせはやりかねんか)
早急に守りを固め、侵攻作戦に従事する部隊にも警戒を密にさせる。
二人がどう思おうが、すでに命令は下されたのだ。今さら止めては士気への悪影響以上に、自身の求心力が低下してしまう。
(アレの対応を早めておくか。いまだ目覚める目処すら立っておらんのが口惜しいが、やれることはすべてやっておくべきだろう)
もっとも、とヴァジムは苦笑する。
(目覚めたところで彼奴ら同様、余の味方になるとは限らぬがな)
それもまた運である。むしろその程度の運を手にできないのであれば、今後皇帝の地位でいられるはずもない。
ヴァジムは舌なめずりしたのち、白装束の怪しい者たちを呼びつけた。
彼らは元ルシファイラ教団の生き残り。
だが今では、別の〝魔神〟を崇拝していた――。
一方、ユリヤとウラニスは通信を終えて。
「いっそ消しちゃおうかしら、なんて頭によぎっちゃったわ」
「皇帝を失えば今度は帝国内が荒れる。もっともオマエが今の地位に固執しないのであれば気にする必要もなくなるがな」
「べつに地位なんていらないわ。今までは『その方が動きやすかった』からこの名前でいただけだもの」
学院に入って好き勝手できている今、『マルティエナ家の次期当主』になんの未練もない。
「これから大魔法儀式が始まるっていうのに……どうしてやろうかしら」
「今のうちに侵攻するとの情報をリークすれば、逆に王国が奇襲できる可能性もあるが……」
「あの男ならそれくらい見越してそうよね。戦争になる前に、どうにかして止めたいけど……わたしがやっちゃうと派手になりそうなのよね」
そうなると当然、
「ハルト・ゼンフィスに勘づかれて面倒な事態になるかもしれないな」
「そうなのよねー」
なぜだか嬉しそうに「困ったわ」と続けるユリヤは、とてもいい考えを閃いたとばかりに手を叩いた。
「そうだ! ハルトにバレないようにするんじゃなくて、彼自身にやってもらうのはどうかしら?」
「ハルト……シヴァに戦争を止めさせる、と?」
「そうよ。そもそも戦争になって一番困るのは国境を守護する辺境伯ですもの。ハルトが黙っていられるはずないわ」
それに、とユリヤは歌うように続ける。
「ハルトなら部隊が国境にたどり着く前に追っ払えるでしょう? ううん、彼ならきっと、帝国軍を一歩だって進ませやしないわ」
ころころと笑うユリヤに、ウラニスはため息混じりに返す。
「たしかに妙案だ。説得役のオレはとても骨が折れる、という点を除けばな」
「あら、やりがいのある仕事でしょう? 帝国のスパイなんかをやるよりずっと」
仕方がない。いかに自分とユリヤに疑念を抱かせずにハルトを説得するか。
ウラニスは頭を捻らせるのだった――。