知らん間に起きてた非常事態
ハルトがウラニスからカードと本を受け取った翌日。
王国にとっては終わりの始まりとも言える事態が起こっていた。
王都の城壁外にある王城、その地下。
「うわははははっ! 惨め、惨めよなあ、ギーゼロッテぇ!」
国王ジルク・オルテアスは哄笑を上げた。
鉄格子の向こうには、元王妃ギーゼロッテが力なく壁にもたれて座っている。目は虚ろで光なく、髪は乱れ肌は荒れ、口から雫まで垂らす始末。
もはや生気は感じられず、息をしているのかすら怪しかった。
「ふ、ふひ、ふひひひひ、ようやく、ようやくだ。ようやく余はこの妖婦から解放された」
一方の国王も歓喜に震えているものの、その顔には狂気と憔悴が色濃い。頬はやせこけ、髪も眉もくすんだ白に染まっている。
「くひひひ、そなたはもうお終いだ。しかし楽に死ねると思うなよ? そなたが犯した余に対する悪行の数々、死罪のみでは到底足らぬわ!」
鉄格子を握りしめ、いかにむごたらしく痛みを刻むか、唾を撒き散らしながら叫び続ける。
積年の恨みがどれほどか、護衛の兵士たちは慄き、沈黙に固まっていた。
だがジルクの叫びも虚しく、ギーゼロッテはまったく反応しない。
彼女はすでに、人生で経験した何倍もの苦痛を味わっていたのだ。体の中に埋めこまれた魔法具を、直にまさぐられて取り出されたのだから。
「どうした、応えてみよ。この期に及んでまだ余を賤しめるか! 我が声に耳を傾けよ。こちらを向け。余を無視するなギーゼロッテぇえええぇええっ!」
鉄格子を破壊せんばかりにガチャガチャと揺らす。
その様にはもはや王の威厳は存在せず、それどころか理性が保たれているかも疑われた。
止めなければ、と護衛の兵士の誰もが思った。けれど不用意な発言は自身の死に直結しかねないと硬直して動けない。
そうして、罵詈雑言が吐き出され続けた結果。
「――――ぁ」
ぷつん、と。
ジルクの中で何かが切れた。それはどこかしらの生体器官であり、彼がしがみついていた精神的な拠り所でもあり。
「陛下!?」
兵士たちが慌てて駆け寄る。
冷たい石の床に崩れ落ちたジルク王は一命こそ取り留めたものの、皮肉にもギーゼロッテと同じくその精神は外界と遮断されてしまったのだった――。
「お父様……」
ベッドで横になっている父王を、マリアンヌ王女は哀しみと困惑の中、見下ろしている。
ジルクは秘密裏に王宮の自室に運ばれた。そのまま寝たきりになっている。
マリアンヌに事が伝えられたのも丸二日経ってからだ。
「王女殿下、医師の見立てでは回復の兆候はまったく見られず、意識を取り戻す可能性は限りなく低い、と」
「どうして、こんな……」
「複数の要因はあるでしょう。おそらく主だったものは、精神的に追い詰められておられた状態が長く続き、ギーゼロッテの失脚によりそれが突如解放されたために緊張の糸が切れてしまったのでは、と考えられます」
ずっと、王妃に玉座を狙われていた。なんら手立てがなく苦悶に沈んでいた。
ところが五年ほど前に光明が差す。
王妃が奇妙な首輪を嵌めるようになり、ずいぶんと大人しくなったのだ。
(ですが、それでもお父様の苦悩は晴れませんでした……)
ギーゼロッテはいかがわしい宗教組織と結託し、貴族派とも手を組んで相変わらず王位を狙い続けた。王の側近たちを失脚させ、孤立させるのにも成功する。
王の近くに信頼できる者はいなくなる。
唯一ゼンフィス辺境伯だけが頼りとなったが、距離の問題で頻繁に相談できる環境になかったのが災いした。
(けっきょく、私を頼ることも……)
自身の力不足もあったろう。
けれど父王は、愛娘に害が及ばないよう尽力していたのだ。
「王女殿下、御身の悲しみは痛いほど理解しております。しかし陛下がお倒れになった今だからこそ、国政を滞らせるわけにはまいりません」
背後で控えていた重鎮たちの一人が言う。
振り返ると、彼らの中にはマリアンヌが最も信頼するゴルド・ゼンフィス辺境伯もいた。穏やかな、そして慈しむような眼差しだった。
重鎮は続ける。
「恐れながら、陛下の容態に関してはしばらく伏せるべきとの意見で我らの意見は一致いたしました。今後は王女殿下が名代となり政を推し進めていただきたく思います」
「本来ならばライアスのお役目なのでしょうけれど……」
「残念ながら、王子は反逆者ギーゼロッテの嫡子ですので、こればかりは……」
もちろん理解はしている。
もし可能だったとしても、ライアスこそ今とても混乱しているのが想像できるだけに、これ以上の負担はかけたくなかった。
ともかく、今は――
「緊急で議会を招集してください。お父様のご容態については緘口令を。伯爵までの領主に限定します」
自分がつなぐ。
遠くない未来、自身よりもずっと『王』にふさわしい者の準備が整うまで――。