一方的な母子の再会
ライアス王子とマリアンヌ王女の辺境視察は、小さなトラブルもなく、その日程をつつがなく終えた。
そう。
何事も起こらず、シャルロッテ・ゼンフィスは健在のままだ。
「言い訳を、聞かせてもらえるかしら」
ギーゼロッテは離宮の一室で、横長のソファーに腰かけ静かに告げた。
彼女の数メートル先には、視察団の護衛隊長を務めた騎士が跪いている。
「召喚士部隊が、忽然と姿を消しました。全員が、拠点の物資もろとも、なんの痕跡もなく、であります」
騎士は王妃を直視できず、床を見つめたまま震えた声で答えた。
「それで?」
「ゼンフィス卿が我らを監視する目が厳しく、自由に動ける部隊が消失してしまっては、我らだけでは如何ともしがたく……」
「おめおめと帰ってきたわけね」
「この汚辱は! いずれ必ず、すすいでみせます。何卒、新たなる機会をお与えくださるよう、お願い申し上げます!」
騎士が床につくほど頭を下げる。
ギーゼロッテは一瞥すらせず、ワイングラスを手にして赤い液体を揺らめかせた。
「いずれ、なんて言われたら、わたくしは貴方を『無能』と断ずるほかなくてよ? 貴方が今やるべきは、空っぽの頭を隅々まで見渡して、失敗の原因を突き止める以外にないの」
「それは……」
「いい? 数十名の部隊が姿を消した。痕跡がないのなら、ただ召喚に失敗したとの単純な理由ではないわ。敵が、いるのよ。わたくしの邪魔をした、誰かがね」
騎士は急いで記憶をまさぐっていく。
「そういえば、視察中に妙な男の話を聞きました。盗賊や魔物を退治して回る、正体不明の『黒い戦士』と呼称される男です」
「まあ大変。わたくし、心底呆れてしまったわ。そこまで知っていながら、なぜ放置していたの?」
「しかしながら、その者が相手をしていたのは脆弱な盗賊団や、数も強さも大したことのないはぐれモンスターです。召喚魔法を専門にしていたとはいえ、数十名の部隊を一人で全滅させるなど――」
ぱしゃ、と赤い液体が騎士に浴びせられた。
「少しは頭が冷えたかしら? 本当に愚かな男ね、貴方って。話だけでネズミと侮った猫は、その実野良犬に噛み殺されるのよ。貴方、獅子にでもなったつもりなの?」
「いえ、その……」
「それに、相手が一人だとどうして言えるのよ。裏でゼンフィスが関わっているとは考えなかったの? 相応の兵が動いたなら、必ず尻尾はつかめるもの。そこから彼を糾弾できたでしょうに」
「面目次第も、ございません……」
「ああ、気分が悪いわ。あれだけ目をかけてやった男が、呆れるほど愚かだったと知ったわたくしの気持ちがわかって? 貴方には相応の罰を…………」
凍りついた騎士だったが、ギーゼロッテがいきなり押し黙ったのを不審に思い、恐る恐る顔を上げる。
王妃は目を見開き、驚きに顔を染めていた。視線は、騎士の背後だ。
「誰っ!?」
王妃の叫びに、騎士は跳ねるように振り返る。
――人の〝影〟がいた。
そう表現できるほど、漆黒に染まった人物だ。つるりとしたヘルムに、ぴっちりとした衣装。いずれも闇に溶けるほどに黒かった。体格からして、成人の男性。
騎士は王妃の私室であっても帯剣が許されている。閃光姫の自信がなせる慣例だ。
腰の剣に手をかけ、抜こうとしつつ叫ぶ。
「王妃様! お下がりくださ――ぃ……?」
だが剣を抜く前に、その首が音もなく両断された。頭部はごとりと床に落ち、続けてゆらりと体も倒れる。
「これで全部だな」
漆黒の男が言う。両腕を軽く振るうと、いくつもの人の頭が床に転がった。
ギーゼロッテが知る者たちだ。先のゼンフィス卿領へ視察に同行した王妃直轄の騎士たちだった。
敵――紛れもなくこの不審者は、自分の敵。
そして騎士が述べていた、辺境伯に与する『黒の戦士』に間違いない。
瞬時に判断したギーゼロッテは、無詠唱で自己を強化する。片足で軽く床を蹴ると、座ったままの姿勢でソファーの後ろへ飛びのいた。もう一歩、大きく後ろへ飛び、暖炉の側へ。
暖炉の上に飾ってあるひと振りの剣をつかむや、中腰の姿勢で剣の柄に手をかけた。
『光刃の聖剣』――魔王を滅した〝至高の七聖武具〟のひとつだ。
(これを手にした今、閃光姫の敵に足り得る者は存在しないわ)
姿を見せる前に暗殺しなかった己を呪って死ぬがいい。
もっとも背後から不意討ちしたところで、自動防御が発動するので無理ではあるが。
ギーゼロッテは余裕を取り戻して問う。
「どうやってこの部屋に……離宮に忍びこんだのかしら? 幾重にも防護結界が張ってあったはずよ?」
「結界? ああ、あの雑なやつか。綻びだらけだったから、破る必要もなかったぞ。仕方ないから完全防音の結界を上から張っといた。大声出しても誰にも気づかれない」
「……そう。あとで結界を担当した者たちにはきついお仕置きをしなくてはね」
複数の声が重なったような、不快な声音だ。
聞くに堪えない。そんな苛立ちから、剣の柄を強く握った、その瞬間。
ゴゥン!
握った手のすぐ側に小さな魔法陣が光を放った。
「さすがは閃光姫ってところか。さっそく防がれちゃったよ。お前、見えてるんだな」
何を?
ギーゼロッテは混乱の渦中にあった。
今のは自動で防御魔法盾が発動して『何か』を防いだのだ。その正体を彼女はまったく予想できていない。
「仕方がないな。こうなったら『下手なテッポウ』作戦だ」
「なに、を……?」
疑問の声をかき消すように、ギーゼロッテの周囲でいくつもの魔法陣の光が弾けた。
四方八方からくる正体不明の攻撃。
そのすべてが見えない。感じない。出所の予測すらできない。
(まずいわ、このままでは――)
自動防御が追いつかない。ギーゼロッテは剣を抜けず、全魔力を防御に回した。
攻撃はさらに勢いを増し、苛烈になる。
小さな魔法陣は彼女の周囲を覆い尽くすほど生まれては消え、室内は竜巻が吹き荒れているかのように破壊されていった。
(嘘よ、嘘だわ、どうしてわたくしが、こんな……)
魔王と対峙したときでも、ここまでの窮地には陥らなかった。
詠唱する隙がない。だから魔力を大きく消費する無詠唱に頼らざるを得なかった。
もちろん反撃する間もなく、無為に魔力だけが減っていく。
(いつまで続くのよ……?)
魔王を滅した自分は、この国で――いや世界でもっとも現在魔法レベルが高いとの自負がある。従って内包する魔力も随一のはず。
詠唱していないのは相手も同じ。
だというのに、黒い男は攻撃の手を休めるどころか、勢いは増す一方だった。
(もう、ダメ……魔力が……)
尽きる。
その瞬間には、自己強化分の魔力も防御に回している自分は、ただの肉塊になり果てると恐怖した。そのときだ。
ぴたりと、まさしく嵐のような攻撃が止まった。
ついに、ようやく。
(あちらの魔力が、尽きた……)
だがそれは彼女も同じ。しばらく彼女の周りを囲んでいた魔法陣が、輝きを失い消滅したのだ。
あと数秒、あちらが攻撃を続けていたら。
嫌な想像を振り払い、ギーゼロッテは瞳をぎらつかせた。
(魔力が尽きても、わたくしには――)
まだ『光刃の聖剣』がある。
彼女は剣技においても国内随一を誇った。たとえ自己を魔法で強化できなくても、聖剣本来の切れ味があれば、無手の相手を圧倒できる。
ところが。
黒い男は彼女を絶望に叩き落す言葉を、告げた。
「やっぱ砕くのは無理っぽいな。んじゃ、次は斬ってみるか」
「……ぇ?」
砕くのは無理? さっきは散々魔法陣を砕きまくっていたのに、あの男は何を言っているのだろう? 砕かれては現れていたのを、誤解しただけ?
いや、それよりも――――――〝次〟?
ヒュン、と。
風の音がすぐ近くで聞こえた、気がした。妙だ。同時に首筋に熱いような、冷たいような不思議な感覚。
ぐらりと視界が揺らいだ。
直後、世界が暗転した。
「あっぶねー。危うく殺すとこだったぞ」
意識が束の間途切れていた彼女の耳に、小さなつぶやきは届かなかった――。