そりそり。
「何の真似だ、これは」
とても嫌な予感を覚えながら、男は訊ねる。
それは今の男の状況が理由であり、当然の質問であろう。
少なくとも大半の人がそう訊ねておかしくない。
男は今、使用人達に拘束されていた。仕事から帰って早々に確保された形だ。
と言っても両腕を持ち抱えられているだけなので、振り解こうと思えば簡単に振り解ける。
因みに拘束しているのは彼女と羊角なので、人によっては羨まし過ぎる状況であろう。
二人共スタイルが良く、そんな二人が思い切り腕を抱えているのだから。
とはいえそんな事はまったく気にしない男であり、だからこその行動でもある。
むしろ今からきっと面倒な事が始まると、重い気分で訊ねていた。
「いえー、お疲れの旦那様にサービスをと」
「そうですよー?」
彼女と羊角はニッコニコした様子でそれだけを答えた。
全く答えになって無い上に、楽し気な二人からは嫌な予感しかしない。
男は何時でも走って逃げる心構えをしつつ、二人に連行されて行く。
そうして連行されて行った先は、何故か脱衣所であった。
「・・・え、なに、マジで何すんの」
脱衣所の前で不安になる男。何故風呂場に連れて来られたのか全く解らない。
まさかこの二人が風俗まがいな事を自分にするのでは、という思考に男が行くはずもなく、只々予測不可能な出来事に困惑している。
「はいはい、怖くないですからねー」
「そうそう、正直私は羨ましいですよー?」
不安そうにする男に声をかけながら脱衣所の扉を開き、羊角は言葉通りの表情で男を見ていた。
そこで何となく男は察してしまった。多分これは少女関連だと。
羊角がそんな事を言い出す事はそれしか思いつけない。
とはいえ風呂場に少女となると、それはそれで嫌な予感しかしてこなかった。
以前駄目といった体を洗うという行為。それをやる気ではと。
だが男の予想と反し、特に服を脱がされることは無かった。
ただ脱衣所には普段置いていない大きな椅子と、カミソリとシェービング剤を手にして、ばーんと得意気な顔でポーズをとる少女が居たのであった。
「・・・うん?」
男が首を傾げた事で、少女はちょっと照れくさそうな表情に変わりつつ羊角に顔を向ける。
だが羊角はただただ良い顔でいつの間にかカメラを構えるだけであった。
どうやらこのポーズは羊角がさせた様だ。
「まあ、見たら解ると思いますけど、髭剃りです。角っこちゃんが張り切ってますんで宜しくお願いしますね、旦那様」
「・・・まってまって、あのカミソリ刃止めの無いやつだろ。流石に怖いんだが」
「大丈夫大丈夫。一杯練習しましたから」
「練習すりゃ安心ってもんじゃないだろ」
彼女の笑顔に不安しか感じない男は、二人がかりで座らせようとして来るのを抵抗している。
何せ少女の持つカミソリはよくある大怪我しない様になっている髭剃りではなく、完全にカミソリがむき出しになっているタイプだ。
男でなくとも怖いのは普通の事だろう。そもそも少女は不器用なのだし。
「良いから座る! はい!」
だが二人は力づくで無理矢理座らせ、男はそのままカチャンと腰に拘束ベルトを巻かれた。
しかもご丁寧に鍵付きであり、男が自力で外す事は不可能そうだ。
「おおい、何だこのベルト!?」
「気にしない気にしない。ほらもう観念して下さい」
「観念っていうか、もう逃げられねえだけじゃねえか!」
「そんなに拒否すると、角っこちゃんが泣いちゃいますよ?」
「っ、卑怯だぞお前等・・・!」
最後の方はお互い傍に寄って小声だったので、少女には良く聞こえていなかった。
だが実際少女は二人がここまでやると思っておらず、男も本気で嫌そうだという事を察して止めておこうかなと思い始めている。
そもそも「準備をしておいてね、ちゃんと説明して連れて来るから」と言って二人は去って行ったので、ここに来た時点で男は同意していると思っていたのだ。
「はぁ・・・わかったよ、じゃあ頼むな」
男はそれはもう深く溜め息を吐いてから、ぎしっと椅子に体を預けた。
少女は本当に良いのかなと少しオロオロしていたが、男が苦笑いをしながら少女の頭を撫でた事でニパーっと笑顔になる。
「それじゃーお邪魔虫は退散しますねー」
「天使ちゃん頑張ってねー」
男が大人しくなったのを見届け、二人は去って行った。
当然羊角はカメラを設置しているのだが、ギリギリ男の足が届く位置にあった事で、気が付いた男に壁に向けられてしまった。ささやかな仕返しである。
後で絶望に打ちひしがれる羊角が見れる事は間違いないだろう。
「さて、じゃあ宜しくな」
男が優しく頼むと、少女は満面の笑みでコクコクと頷いて準備を始める。
先ず椅子を倒し、この為に用意したクッションを手洗い場の端にかけ、そこに男の頭を乗せる。
自分より少し低めの位置に男の顔がある事に、何だかニヤニヤしてしまう少女。
大好きな男の顔が近い事がちょっと嬉しい様だ。
男は少女の機嫌がやけに良い事で、不安が少しだけ薄れて来るのを感じる。
それは単純に笑顔に騙されているだけなのだが、そう感じてしまう空気が少女には有ったのだ。
少女は音のズレた鼻歌をフンフンと歌いながらシェーピング材を泡立て、モコモコと泡になっていく様を見てるだけで少し楽しそうにしている。
「ほんと、何でも楽しむ天才だな」
少女を見ていると男は心からそう思った。どんな事でも楽し気にやる少女は凄いなと。
そんな風に男が思っていると、少女はハッと自分の間違いに気が付く。
慌ててパタパタと風呂場に向かい、パタパタと暖かなタオルを持って来て男の顔にかけた。
お湯で濡らしたタオルを思い切り絞って蒸しタオルの様にしたらしい。
ちゃんと鼻の部分を空ける形になっている辺り、本当に練習したのだろう事が解る。
男は抵抗せずにそのまま目を瞑り、丁度良い暖かさに体の力が抜けていく。
その間また少女が泡立てる音が鳴り始め、その音だけが耳に届く事で、男は何だがまったりした空気の中に居る様な、ぼやーッとした感覚になっていた。
これは確かに疲れた体には心地良いと思いながら、男は少女の作業を待つ。
暫くしてタオルがとられ、男が目を開けるとニコニコした少女の顔が目の前にあった。
高さ的にどうしてもそうなるのだが、いささか近すぎるのではと思う男。
だが少女にはそんな事はどうでもよく、ご機嫌な様子で泡を男の顔に付けて行くと、カミソリを手にした瞬間いきなりムンッと真剣な表情になった。
様子の変わりように男は一瞬驚いたが、少女の手の動きから理由を察する。
慣れているという剃り方ではない。けど下手糞という感じでもない。
本当に一生懸命練習したんだろうなと、そう感じてしまう手つき。
少女はけして男に怪我をさせないようにと真剣なんだと。
男は頭を撫でてやりたい衝動にかられたが、髭剃り中なので我慢して目を瞑る。
ショリショリと髭を剃る音だけが響く空間に、男は段々と眠気を感じ初めていた。
ゆさゆさと小さく揺られ、眠っていたのだと気がついた男はハッと目を空ける。
すると目の前に、鼻の頭が付きそうになる程の距離に少女の顔が有った。
少女は男が目を開けたのを確認するとニコニコしながら離れ、椅子を起こして行く。
「ん、あれ、終わった?」
寝ぼけつつの男の質問に少女はコクコクと頷き、椅子をくるっと回して手洗い場の鏡に向ける。
そこには綺麗に剃られた肌の男が在り、触ってもカミソリ負けした様子は何処にもない。
少女は男が確かめている間、男の顔を覗き込む様な体勢で感想を待っていた。
「うん、上手い上手い」
男が少女の頭を撫でて褒めると、少女は目を瞑って震えながら喜びを感じていた。
胸元でぎゅっと握った両手がその心情を良く表している。
心なし口からキュ~と変な声が漏れている気がするが、男は突っ込まない事にした。
「さって・・・あ」
男は良い気分で立ち上がろうとして、拘束具が有った事を思い出す。
試しに力尽くで外してみようとするが、全く外れそうにない。
「鍵持ってる?」
少女に訊ねると、少女はプルプルと首を横に振る。
この拘束具も少女には預かり知らない事であり、鍵なぞ持っている訳が無い。
「取り敢えずあの馬鹿呼んで来て」
少女はコクコクと頷いてから、パタパタと彼女と羊角を捜しに行く。
そうして拘束具を外しに来た彼女が鍵を開けると、男は仕返しだと椅子に彼女を括り付けた。
羊角には既に仕返しをしているので、録画が出来ていなかったと崩れる羊角は放置である。
「ちょ、旦那様!?」
「さ、夕食を食べようか」
彼女は慌てて立ち上がろうとするが、ぎっちりと拘束されて立ち上がれない。
男は抗議の声を無視して少女の手を引き、少女はそれに喜べば良いのか二人の惨状を心配すれば良いのか複雑な気分で男に付いて行くのであった。
尚、彼女はそのまま外に出ようと試みたが、椅子が大きくてどう足掻いても出られなかった。
最終的に端末で「だ、旦那様、トイレ、お願い行かせて、本当限界です」という、若干震えた声で電話をかけた事でようやく解放される。
ダッシュでお手洗いに駆け込む彼女を見て、男は少しやり過ぎたかなと思うのであった。