6.夜会(2)
「あ、アティ。良かった」
人の間を縫って足早に近付いて来たのは、ミリアーナとセドリックだった。2人の顔には明らかな焦りが浮かんでいる。
「すぐにお帰りになった方が宜しいわ。挨拶がまだでしたらせめて会場外へ出た方が……」
ミリアーナはアティリナの背に片手を回して会場外へ押して行こうとする。かなり焦っているらしい。
「一体、何があったのですか?」
レオナールが訪ねると、セドリックが状況を説明し始めた。何でも、ダンスフロアでどこかのご令嬢が転倒してしまったらしい。転倒自体は稀にある事なので普通は皆見て見ぬフリをするのだが、事態はそれだけでは済まず、転倒したご令嬢のパートナーが、近くにいたご令嬢が転ばせたと言いがかりをつけたのだと言う。
そして言いがかりをつけられたご令嬢と言うのが、今日偶然参加していた学園内の知人だった。つい先日、危険人物リストの協力に感謝してお茶会を開いた仲である。喚いている方の主張は全く論理的でないようで、最終的に「メイルード伯爵令嬢に命じられたのだろう!」「来ているのは知っている。本人を呼べ!」という主張に落ち着いたらしい。
アティリナはレオナールと顔を見合わせた。どちらもゲンナリという言葉が近い。間違いなく例の集団だろう。出来れば関わりたくはない。関わりたくはないのだが――。
「私が行かないと収まらないのでしょうね……。誤解された彼女も可哀想ですし」
「応じる必要はないわ。あちらは子爵家で、マナーも守っていませんし。じきに主催者が場を収めるのではなくて?」
ミリアーナはなおもアティリナを場外へ押し出そうとする。しかしアティリナは田舎育ちのうえ、馬にホイホイ乗って駆け回っていたご令嬢である。たおやかなミリアーナに押された程度で動く足腰ではない。
「一度は衝突する運命だったと言うことでしょう。ダンスフロアですのね?」
アティリナは背筋を伸ばした。ミリアーナはそんなアティリナを止めようと肩を掴もうとしたが、彼女の婚約者に引き剥がされてしまった。
「気が重いですね。全く」
溜息を吐きながらもレオナールは腕を差し出した。アティリナは苦笑しながらそこに腕を絡める。一方、レオナールはセドリックに何か目で合図を送った。セドリックは心得た顔でミリアーナに何か耳打ちをする。
「見たところ、あちらは思いたい事を思いたいようにしか思わないようだ。相手を説得することは諦めて、自分の立ち居振る舞いに気をつけた方がいい。では、健闘を祈る」
セドリックがレオナールとアティリナを力強い目で見つめた。うっかり言葉遣いがいつも通りに戻ってしまっているが、これほど的確な助言はないだろう。
2人が彼に肯いて騒動の中心へ向かうと、そこには目を疑うような光景があった。まず、フロアに女性がべったりと座り込んでいる。それを囲む男性陣は誰も彼女を助け起こそうとせず、皆が皆、彼らの前方にいるご令嬢とそのパートナーを睨んでいた。睨まれているご令嬢は明らかに戸惑い、パートナーの男性は怒りを露わにしている。べったり座っているのがエステルであり、集団と対峙しているのが知人とその婚約者だ。そしてその知人を目立って責めたてている男性がダヴィド。ここは学園だっただろうかと錯覚しそうな構図である。
アティリナ達が到着すると、彼らを囲むように出来ていた人だかりが割れた。アティリナの顔は知られていないかもしれないが、レオナールは目立つし当然彼の婚約者がメイルード伯爵令嬢というのも当然知られている。
アティリナ達が騒ぎの中心へ足を踏み入れると同時に知人は焦ったような表情を浮かべ、ダヴィド達は勝ち誇ったような顔になった。
「これは、一体どういう騒ぎでしょうか?」
レオナールはいたって普通の口調で切り出した。
「そこのご令嬢が足を引っ掻けてエステル嬢を転倒させたのですよ。ラローシェ殿の婚約者の、メイルード伯爵令嬢の指示によるものでしょう?」
アティリナは思わず口を覆った。あまりの妄想に呆れるあまり勝手に口が開いてしまったのだ。隣にいるレオナールからはイラっとした雰囲気が漂ってくる。一応、顔だけは微笑んでいるが。
「なぜそう仰るのか根拠がわかりません。彼女がそちらのご令嬢を害する理由がないでしょう」
アティリナは周囲をそっと見渡した。完全に衆目の的である。いつの間にか音楽はストップしているし、ダンスフロアは野次馬で一杯だ。眉を顰める者もいれば、ニヤニヤと笑って高見の見物を決め込む者もいる。元々、貴族というのは暇人の集まりで娯楽に飢えているところがある。このまま注目を集めると妙な噂が生まれかねない。
アティリナは心配そうに彼女を見つめていた知人へ肯いてみせた。ちょうど皆の注意がアティリナ達へ集中している。逃げるなら今だ。アティリナはわざとおっとりとした微笑みを浮かべ、エステルを見た。彼女は呆っと座っているだけで、青い目はガラスのように透き通っている。
「ところで、セネヴィル男爵令嬢はお怪我をしていらっしゃるの? お怪我があるのでしたらすぐに手当をなさった方が宜しいわ」
いきなり声をかけられて驚いたのか、エステルは「ひっ」と怯えたような声をあげ、恐ろしいものと対峙するかのように潤む目でアティリナを見た。その彼女の肩を男性達の1人が優しく抱き寄せる。
「もしお怪我がないのでしたら、お立ちになってはいかが? せっかくの美しいドレスが汚れてしまいますわ」
何より目立つしフロアのど真ん中なので邪魔である。フロアなど綺麗なものではないし、床にべたっと座るなんて論外だ。それに、ダンスをしながら足を引っ掻けるなんて難しいにも程がある。相手も自分も常に動いているし、何よりパートナーの協力は必須だが、そんな卑劣な真似の協力など頼めるわけがないではないか。恐らく周囲の女性全員がそんな事を思っている筈だ。直球で言うのが憚られるだけで。
だが、エステルは怯えた目からぽろぽろと涙を零し、肩を抱く男性に身を隠すように体を寄せた。
「酷い……。歩けだなんて、どうしてそんな酷いことを仰るの?」
アティリナは言葉を失くした。視線がふらふらと泳ぎ、思わず知人と目が合う。彼女は唖然とした表情をしており、おそらくアティリナも似たような顔になっているのだろう。
「はあ……。お歩きにならなくとも、私は特に構いませんけれど」
ぽつりと呟くと、またエステルがびくっと肩を震わせさらに涙を零した。「怖い」と言っている声が聞こえる。
どうしよう。これ、本当にどうしようか……。
「とりあえず、そちらとこちらの主張は食い違うようです。お互い誤解があるかもしれない。どうでしょう? 少し涼しい場所で話し合いませんか?」
レオナールはバルコニーを指した。とにかく今夜会の邪魔をしている事だけは確実だ。すぐにでもフロアを明け渡さなければならない。
しかし、ダヴィドの顔がカッと赤くなった。凄まじい形相である。
「人前での糾弾を避けるつもりだろう! その手には乗らん。俺はその女の悪事を暴かなければならないのだ!」
レオナールの顔から微笑がスッと消えた。抑えきれない怒気が彼の全身から溢れ出し、アティリナの背筋をぞっとする震えが駆け上がる。これはまさに一触即発という状態ではないだろうか。しかし自分が何か言えばダヴィドを煽ってしまうだろうし、ダヴィドの温度が上がればレオナールの怒気も増してしまうに違いない。
会場は緊張に包まれた。喋り声はなく、人々の手にあるグラスさえ宙で止まっている。皆が皆、レオナールが次何を言い出すのか、激怒するのか、殴りかかるのか、固唾を呑んで見守っていた。
そこへ突然、手を叩く音が響いた。
「紳士淑女の皆様、今宵の夜会はいかがでしょうか? 楽しんでいらっしゃいますかな?」
高らかな声と共に現れたのは20代後半と思しき男性だった。彼の登場によって、張り詰めていた空気がパーッと霧散した。彼こそがこの夜会の主催者であり、スウェイン伯爵その人である。
「先程の若者達の活発なやり取り、大いに興味深く聴かせて頂いた。しかしどうやら意見が食い違う模様。そこで私は閃きました」
まるで演説を行うかのように太い声がフロアによく響いた。ひとつひとつの視線が今、彼へじりじりと集中し始める。伯爵は勿体付けるように口を結んで、360度ぐるりと聴衆を見回した。
「これは、討論をせねばならないと!」
その一言を合図に、スウェイン伯爵家の使用人達がフロアへなだれ込んできた。ある者は花瓶、ある者は銀のトレーを持ち、アティリナ達とダヴィド達の間にどんどん置いていく。それまで沈黙を強要されていたギャラリーは一斉ににざわつき始めた。そのざわめきに呼応するように、人垣は中心へ向けて数歩進み、真ん中にポッカリ開いていた空間が少し狭くなる。
アティリナが目をやると、伯爵の後方にはミリアーナとセドリックの姿があった。どうやら彼らが伯爵を呼びに行ったか、状況説明をしてくれたらしい。さらに視線を巡らせれば、先程ダヴィドに対していた知人とそのパートナーが上手く人混みに紛れているのが見えた。恐らく狭くなった人垣に吸収されたのだろう。その様子にほっと息を吐く。
中央に準備されたのはコンソールテーブルとその上の花瓶、さらに花瓶に入った10数本のパフィオペディルムだった。花々の、いかにも今から喋り始めそうな奇妙な形に、また違った意味で全員の目が釘付けになる。あとは銀のトレーを持った使用人が数人と、何も持たない者が2人程だ。花瓶の横には伯爵が立っており、花瓶から1本の花を取ってざわめきが収まり始めるのを待っている。
「これは、何が始まるのでしょうか?」
レオナールに小声で尋ねると、彼も困ったように首を振った。先程纏っていた怒気は、このわけのわからない騒ぎによってきれいに消えている。
「今は成り行きに任せるしかありません。もし辛いようなら言って下さい。連れ出します」
レオナールはそう言って片手をアティリナの前に出した。掌を上に向け、まるで彼女へ差し出しているかのようである。アティリナは己の手をその上に重ねた。特に何も考えず、まるで操られたかのように自然に。その手がぎゅっと握りしめられ、人の目から隠すように下へ降ろされた。アティリナの心が温かいものに満たされる。
「さて、準備が整いました。それでは討論を始めましょう」
まだ続きます。