5.夜会へ
フロイゼン王国では、春の中頃から初夏にかけて議会シーズンだ。この時期は日頃領地に引っ込んでいる貴族達が王都の屋敷に集合し、毎晩いたるところで夜会――晩餐会や舞踏会が開かれる。学園に通うアティリナは日々王都屋敷で過ごしているが、彼女の父母と弟は日頃は領地にいる。そんな彼らが王都に到着して3日、メイルード伯爵王都邸は困惑と興奮に包まれていた。
「素敵なドレスねぇ」
メイルード伯爵夫人、つまりアティリナの母がうっとりと呟いた。彼女は今、アティリナの部屋のソファに腰掛け、のんびりとお茶を飲んでいる。髪の色も目の色もアティリナと全く同じで、纏う雰囲気までよく似ている。
「本当に。餞別かしら? レオナール様は親切でいらっしゃるのね」
夫人の隣でアティリナものんびり相鎚を打った。彼女達の前にはハンガーに架かった緑色のドレスが置かれている。その周りをお針子や侍女が囲んで細部をチェックしたり、ドレスに合う装飾品を選んだりしていた。ドレスは艶やかな絹をふんだんに使った一級品で、胸元で折り返した前開きの布がさらにスカートを覆い、すっきりとしたシルエットに見せている。胸元には銀糸の刺繍が細やかにあしらわれ、袖口にはレースがのぞく。
この豪華なドレスは今日、レオナールから届けられたものだ。ドレスを寄越せと言ったことはない筈なので、婚約解消前の餞別なのだろう。わざわざアティリナの目の色に合うドレスを送ってくれるなんて、本当に親切な人だと思う。これがあれば次の婚約者探しも捗りそうだ。
「だからさぁ、姉さん。ちゃんと確認しろって。今までハンカチ1枚寄越さなかった男が何でドレスなんか贈って来るんだよ。普通、婚約解消するなら贈らないって。俺ならそんな訳わかんないことに金は使わない」
自分と全く同じ色彩の弟が、ドレスを確かめる侍女の手元を覗き込みながら呆れている。彼は13歳なのでまだ社交界に顔を出せないのだが、今回は自分からついてきた。領地大好き、馬大好き、他は割とどうでもいい、という声変わりしたばかりの次期伯爵ではあるが、姉の婚約は気がかりだったようだ。
「だってレオナール様とあなたは全然違うじゃないの。きっと、婚約者探しを応援して下さっているのよ」
頭をガシガシと掻きムスッとした顔になった弟へ、アティリナは静かに微笑んだ。ドレスをくれたと言うことは、きっとこのシーズンで最後なのだろう。そう思うと少し名残惜しい。
「意味わかんないし。と言うか、思い込みとか憶測の時点で信じる価値ないね。本当、真面目に、直接聞いてこいって話。姉さんだって、あの人の思考パターンを読める程親しくないんじゃないの?」
アティリナは思わず返事に詰まった。確かにそうだ。図書館でのアレコレですっかり親しみを抱いているが、実際にレオナールが何を考えているのかはわからない。だってあんなにキラキラしていて頭も顔も良くて親切で紳士な男性なんか、アティリナの周りにはいなかったのだ。わかるわけがない。
それに、とアティリナは軽く目を伏せる。いざ問い質してみて、あの微笑みで「ええ、婚約解消しますよ。勿論」とか言われると、ちょっと悲しいかもしれない。
「ふふふ。男と女の間には色々とあるものよ。それこそ、憶測や思い込みがないと乗り越えていけないぐらい」
母が2人へゆったりと笑いかけた。人生の荒波を乗り越えた熟女の迫力である。さすがの弟も母相手では分が悪いらしく、「げー」とそっぽを向いた。彼にしてみれば姉の結婚は領地に関わる重大事なので、気になるのは無理もないのだが。ちなみに、先々の事を考えて弟はまだ婚約者を決めていない。
「でもね、アティ。愛するよりもまず信じなくては駄目よ。その為には考えて、正直に行動するの。ちゃんとやっているかしら?」
アティリナは「大丈夫」と答えようとして、ふと息を止めた。お互い表面的な関係で問題ないと思っていたし、その距離感が安心なのだと思っていた。だが、図書館での会話を思い出すと、もっと距離を近付ける努力も出来た筈だ。それをずっとして来なかったのは、どこかで彼を信じていなかったからなのではないか。
彼女は再びドレスに目をやった。最近、彼は侯爵の補佐が忙しいらしく学園に顔を出していない。彼女の方も何故だか気が乗らなくて、今は婚約者探しを休んでしまっている。
ミリアーナからは婚約解消が誤解かもしれないから手紙を書くよう強く勧められているし、イヴェットからは心惹かれたのなら後悔しないよう突き進んではどうかと後押しされている。だが、どちらも曖昧に返事をして先送りしてしまっていた。
まず、信じること。でも、信じるのはなぜか難しい。
レオナールと向かう夜会まで、あと数日だ。
窓の外を夕暮れの王都の街が流れていく。通りを歩く人はまばらになり、酒場の軒先に看板が掛かり始めていた。庶民へも貴族へも平等に夜が訪れようとしている。
夜会へ向かう馬車の真向かいにはレオナールが腰掛けている。落ち着いた色の夜会服に身を包み、前髪を上げているせいかいつもよりキリッとしていて大人っぽい。これでは女性が寄って来る。間違いなく寄ってくる。
例のドレスを纏ったアティリナに対し、レオナールは例年通りの模範的な振る舞いで応じた。褒め言葉も教本通りだし、馬車へ乗り込んでからもそのままだ。がっかりしたかと言われると、したようなしてないような、曖昧な気持ちである。何せ目の前に華やかな美男子がいるのだから、どうしても「並んで著しく変じゃなければそれでいい」という思考に落ち着いてしまう。
アティリナは結局、今日は昨年と同じように教本に則った対応をすることにした。内心これで本当にいいのか、教本を脱して会話をした方がいいのではないかと思うのだが、最後の最後にレオナールに恥をかかせるわけにはいかない。それに、今は婚約者として同行しているのだから、ちゃんと婚約者になるべきだろう。
「今日のスウェイン伯爵の夜会ですが、私は父の代理で出ることになっています。ですから挨拶回りの間は1人にしてしまいますが、大丈夫でしょうか?」
アティリナは問題ないと肯いた。このやり取りもいつものことだ。彼が夜会に参加する時は大抵侯爵代理としてなので、必然的に挨拶回りがついてくる。婚約者の立場では、この挨拶回りについて行くことは出来ない。
「今回はスウェイン伯爵の婚約者探しが目的ですので、全体的に年齢層は若いでしょう。私のように婚約者を伴って代理として参加する者も多いと思います」
一口に夜会と言っても、政治的な性格の強いものから趣味の集まりまで様々だ。どれも開催者は趣向を凝らすものだが、今回は完全にお見合いが目的なようで曲目にワルツが多い。ワルツは2人で踊るので、会話に向いた曲なのだ。
そんな夜会に婚約者のいる者や既婚者が招待されているのは妙だが、どんな夜会にも格と言うものが必要で、夜会の格は参加者で決まる。そのような裏事情があり、ラローシェ侯爵へも招待状が届けられたと言うわけだ。
「気掛かりなのは、スウェイン伯爵がルセル子爵家の遠縁ということでしょうか。ダヴィド殿が招待されている可能性は高いです。用心のし過ぎだとは思いますが、なるべく誰かといるようにして下さい」
アティリナは礼儀正しく微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます。今日は友人も参加するようですから、ご安心下さいませ」
イヴェットはいないがミリアーナは参加するらしいので、彼女を見つければいいだろう。それにもし見つからなくても、その場で話し相手を探すのは得意中の得意だ。
馬車の中に沈黙が訪れる。これもいつも通りと言えばいつも通りだ。この後暫らく黙っていれば会場に到着する筈である。行きは街並みを眺めていれば良いし、帰りは夜会で会った人々との会話を思い返していればいい。
しかし、今日は今までとは違った。いつもは窓の外へ移す目を真向かいへやると、レオナールが顎に手を当てて何かを深く考え込んでいる。目は真っ直ぐにアティリナを見つめており、思いがけず視線がぶつかって彼女は反射的に目を伏せた。彼の口から小さな笑い声が漏れる。
「失礼。どうも違和感があると思いまして」
「違和感ですか?」
アティリナは首を傾げた。自分はちゃんと教本通りに対応出来ていた筈だが、もしかしたら何かミスをしてしまったのかもしれない。
「違和感は変か……。どうやら図書館での受け答えに慣れてしまったようです」
アティリナの目が僅かに大きくなる。思い出されるのは数々の気安い発言の数々だ。色々と、それはもう本当に色々と言った気がする。確かにアレを聞いて今日コレでは違和感しかないだろう。
「その説は大変ご無礼を致しました。どうか忘れて下さいませ」
そっちの方が安心安全です。そう軽く頭を下げて再びレオナールを見ると、彼は今度は腕を組んで何かを考え込んでいた。口を噤み真剣そのものである。だが、程なくして彼は腕を解き、お手上げとも言うように肩を竦めた。顔にはっきりと苦笑が浮かんでいる。
「やれやれ。上手い言い方を考えてみたのですが、どうも思いつかない。ですので、端的に言いますが」
「? はい」
「私は婚約を解消する気はない」
はい、と反射的に肯こうとして、アティリナは口を開けたまま停止した。耳から入った情報を咀嚼できず、思考が迷走する。今、彼は何と言った? いや、聞いていた。聞いてはいたが――。アティリナは自分の片方のこめかみに掌を押し当てた。伝わる体温が目と耳、頬の強張りを解いていく。
「ええと……」
「もう一度言いますよ? 婚約解消はしません。わかりましたか?」
「はい、……はい」
「その上で、教本に沿わない対応を希望します。例えば、図書館の時の会話のように。勿論、公の場に出た時は別ですが。それと……」
アティリナはぼーっとしていた。あるいはじーんとした感情に浸っていると言っても良かった。いや、当然話は聞いているし理解しているし驚いている。しかしそれよりも何よりも婚約を解消しないと言う。どうやら自分は、それが嬉しいらしいのだ。嬉しいと感じることに驚き、嬉しいことが嬉しいような、そんなふわふわした気分である。
一方レオナールはぼんやりとするアティリナを置いて、一旦言い淀んだ。一度ふっと目を逸らし、溜息を吐く。
「それと、謝罪を。あなたを試すつもりはなかったのですが、結果的に試したようになってしまいまして……」
アティリナは浮ついた意識を手元まで手繰り寄せ、それからきょとんと瞬きをした。いつの間に謝罪されるような事態に陥っていたのか、全く心当たりがない。
「私に過去何人か婚約者がいたのはご存知ですよね? 彼女達へ何かを贈ると、十中八九その後私への要求が激しくなったものでした。それは物だったり態度だったり言葉だったりしましたが、どれも私の意志を無視し己の我を通そうとするものです。……あなたへ贈るドレスを決めた当初、本当に何一つとして疑う心はなかった。しかし、後日あらぬことを考えるようになってしまいました」
レオナールは苦いものを噛み潰すような顔をしている。確かにドレスが届いた辺りになると学園では全く会わなかったし、元々なので気にも留めていなかったが手紙もなかった。婚約者同士で会ったり手紙をやりとりする頻度がアティリナにはよくわからないが、ドレスへのお礼文に対する返信がないのは普通ではないのかもしれない。
つまりレオナールは、アティリナも過去の婚約者達と同じようなことになるのではと警戒したのだ。その結果、ドレスは贈るもののつい素っ気ない対応をしてしまったのだろう。
随分と人間味がある。いや、もしかしたら自分と同じだったのかもしれない。だって相手を信じるのは難しいのだから。
それにしても以前の図書館に続き、婚約者のまた新しい面を見てしまった。アティリナは完全に頬を緩めた。誰が見ても心から笑顔と分かる笑顔である。
「私も他のお嬢様方と変わりませんわ。だってレオナール様は素敵ですもの。少しでも仲が近付けば舞い上がってしまうし、もっと仲を深められたら嬉しいと思います。何も変わりませんでしょう? 実際に今、私は今までよりも親しくなりたいと思っていますもの」
にこにことするアティリナの目の前で、レオナールは一瞬で表情を消した。しかし、心が浮き立っている真っ最中のアティリナはそれに全く気付かない。
「ふふ。実は私、このドレスを餞別だと思っていましたの。だってこんな素敵なドレスがあれば、次の婚約者選びに役立ちそうですから。実はこれを受け取った時、レオナール様と仲を深めようという考えには至らなかったのです。だから私、何も試されていませんわ。ご安心なさって下さいな」
レオナールはのろのろと顔を覆って天を仰いだ。そのまま大きく息を吸って吐く。その見た事のない様子にアティリナの顔が心配そうに曇った。
「ひょっとしてどこかご気分がお悪いの? 一旦馬車を止めましょうか?」
「……いえ、大丈夫です。少し、感情の処し方を見失いました」
そう言って身を起こしたレオナールの顔には、苦笑いが浮かんでいた。まるで自嘲するかのように、薄く息を吐く。
「私は本当に何もわかっていなかったし、何もして来なかったのですね」
「何も? 私、ドレスを頂きましたわ」
「いいえ。私はドレスの前に手紙を贈るべきで、筆を執る前にあなたとの時間を持つべきでした」
アティリナは首を捻った。レオナールが何を反省しているのかよくわからない。ドレスは貰って嬉しいものだし、勿論手紙も嬉しい。その気持ちこそが嬉しいのだから。それに、彼が昔何か行動を起こしたからご令嬢を信じられない現在に繋がっているわけなので、「何もしてこなかった」と自分を責める要素はないだろう。
「レオナール様が何をお考えなのかはよくわかりませんけれど……。我が家では愛するよりまず信じよと教わります。だから私、これからはまずレオナール様を信じるよう努力致しますわね。愛を得ようと焦ったりは致しません。でも、どうしても嫌であれば仰って下さいませ。すぐに教本を読み返しますから」
レオナールがご令嬢を信じ切れないのはわかった。でも、自分だって彼を信じ切れていないのだから、やるべきはまずそこからだろう。出来ればレオナールからも信じて貰えると嬉しいが、それは彼の勝手でアティリナにはどうにも出来ない。もし努力して駄目なら以前の乾燥した関係に戻るのだろうが、そうなったらそうなったで仕方ないだろう。
レオナールの顔には見覚えのある微笑が浮かんでいた。穏やかで、貴公子然とした微笑である。
「参ったな……。あなたは他のご令嬢と自分は同じだと言っていたが、否定したい私がいる」
相変わらず目は笑っていない。目は笑っていないが、いつもと何かが違うような気がする。そう、例えば温度のようなものが。
馬車の速度がゆるゆると落ちて行く。夜会の会場に着いたのだろう。窓をノックする音がして、赤毛の従者がパッと一息に扉を開いた。