4.婚約者視点
微妙に長くなってしまいました。
ご令嬢と言うのはシナを作るか従順かのどちらかで、基本的に思考は皆似たようなものだと思っていた。外見こそ個性が出るが、その他は全てに於いて無個性。せいぜい家格と親族と友人の数が違うぐらいだろう。
そして悪いことに面倒臭さは皆共通している。婚約者になったのだからと丁寧に扱ったら要求が増えるし、では控え目にしたらしたで要求が増える。それらの要求に応えたらまた要求が増え、応えなかったら泣く喚く拗ねる試す病に倒れるときている。面倒くさい。家の事がなければ関わり合いになりたくないぐらいだ。
だから今の婚約者は親しみ過ぎず、冷たくし過ぎず、礼儀は忘れず、と適度な距離感を維持してきた。おかげで面倒な要求を突き付けられることなく無事3年過ごして来られたのだが、最近、その婚約者に目から鱗の事実を告げられた。最初こそ自分の気を惹いて何かを要求する為の作戦かと疑ったが、どうもそうではないらしい。
おかげで今までの「ご令嬢」の認識が木端微塵だ。さらに今に至るまでの己の数々の行動を次々と思い出し、穴があったら入りたい気持ちで一杯である。無駄に記憶力の良い頭を憎いと思ったことは初めてだ。
「やあ、レオナール殿。今日はまた随分と辺鄙な場所にいるじゃないか」
読んでいた本から顔を上げると、若い男が人の好さそうな笑みを浮かべて立っていた。ベージュの髪に緑色の瞳。目の前の彼の方が髪の色は赤がかっているが、色彩は己の婚約者と似ている。
「れっきとしたテーブルですよ。屋内なだけで。セドリック殿はテラスへは?」
「また、そういう恐ろしいことを仰る」
そう言って、セドリックは分厚い本をレオナールと同じテーブルに置き、席についた。学園内には憩いの為のオープンスペースがいくつか設けられているが、一番広いのは中庭へ出られるこのホールで、広いテラスと繋がっている。テラスは女性に人気があり、アティリナ達が日頃使っているのもそこである。一方、このホールに置かれたテーブルは屋外が華やかで明るい分だけ暗く陰気に見えるらしい。つまり人気がない。
今日レオナールが使っているのは、そのテーブルセットの1つだった。もっとも、静かに読書をしたい者にとってこの屋内のテーブルは丁度良いようで、セドリックも日頃こちら側の住人だ。
「また教授から呼ばれたと伺いましたが」
「雑用ですよ。なぜ誰も彼も俺になら雑用を押し付けてもいいと判断するのか、理解に苦しむ」
思い切り渋面を作ったセドリックに、レオナールは苦笑で応じた。
彼は末端の末端にいる下級貴族なのだが、ミリアーナの婚約者でヴィルヌーヴ侯爵家に婿入り予定という変わった立場にいる青年だ。気さくで驕ったところがない好人物なだけでなく、厄介な案件の処理能力がとんでもなく高い。その能力の高さが侯爵の目に留まったと専らの噂である。
セドリックとは講義や図書館などで顔見知りになり、今では会えば雑談や討論をする仲だ。その彼の婚約者がアティリナの友人だと知って驚いたものである。
「ところでレオナール殿。俺の婚約者殿が聞いてこいとせっつくので伺いたいのですが」
レオナールと目を合わせずに、セドリックは唐突に切り出した。全身から「嫌々」という気配が、湯気のように立ち昇っている。
「婚約の話ですか? それともセネヴィル男爵令嬢?」
「前者です前者。不躾で申し訳ない。あー、難があるなら誤魔化しますから」
まさに平身低頭、といた体である。仕事を押し付けられる達人であるセドリックは、婚約者にも何かを言い渡されていたらしい。まあ、そうだろうな、とレオナールは再び苦笑する。ダヴィドが婚約解消したせいで、現在、エステルに関わっている男性陣に対して窺うような目が向けられている。レオナールに直接聞いて来たのはアティリナだけだが、まともに答える前に本人が早とちりしてそのままになっていた。
レオナールの頭に、楽しそうに次の婚約者を選んでいる彼女の姿が蘇る。先日ダヴィドに襲撃された日、「暫らくは人気のない場所に近付かないように」と言い置いたせいか、ここ数日は図書館で見かけない。それは良い事であり、悪い事でもある。最近、彼女との会話を楽しいと感じ初めていたので。
「婚約を動かすと言ったことはありません。今、彼女が楽しそうなので申し訳ないとは思っていますが」
貴族にありがちな回りくどい物言いに、セドリックは何とも言えない顔で頭を掻いた。彼がどこまで知っているのかはわからないが、どこか釈然としていない様子だ。だが、すぐにそれを引っ込めて朗らかに笑った。
「そのまま伝えておきますよ。感謝します。なら、もう宜しいのですか?」
彼の緑の目がテラスの方へ走った。その先には男性の壁がいくつかと、隙間から艶やかなストロベリーブロンドが覗く。彼らはちょうどテラスから引き揚げてくるところらしく、男性陣の表情には警戒心が露わになっていた。先日ダヴィドと遭遇してつくづく感じたことではあるが、どうも学園内の女性全員がエステルを害そうとしていると思い込んでいるらしい。随分と旺盛な被害妄想である。
エステルの青い目がふいに何かに気付いたように固定された。間を置かず、花が綻ぶように微笑む。ごく自然に、レオナールの顔の表面にいつもの微笑が作られた。どうも彼女の視界に、レオナール・デュラン・ラローシェが映り込んでしまったらしい。
集団がレオナール達のいるテーブルへずるずると近付いて来る。それに伴って、エステルを囲む男性陣の目がより険しくなっていき、セドリックの頬が引き攣っていった。
「まさかラローシェ殿がこんな所に隠れていらっしゃるとは」
エステルの隣にいる男が嫌味をたっぷり含んだ笑みを浮かべた。恐らく図書館での出来事が伝わっているのだろう。どの顔も敵意に満ちている。幸い、今ダヴィドはいない。噂によると、エステルを婚約者にしようと駆けずりまわっているらしい。
エステルは傍らにいる男達が纏う非友好的な空気を少しも感じ取ることなく、ただただ嬉しそうに目を輝かせた。
「今日はどうなさいましたの? 席も空いていましたのに」
「どうもしていません。私はいつも通りですよ」
エステルは、わからないとでも言うように首を傾げた。いかにも純粋で邪気のない様子である。
レオナールは微笑の奥に不快を隠した。実は彼は自ら集団に加わったことがない。集団になる時はいつも誰かが声を掛けてきて、応じている間に集団の中の誰かがエステルに椅子を勧め、それを囲むように各々が勝手に彼と同じテーブルの席につくのだ。だから「どうしたのか」と聞かれたところで、「いつも通りですよ」という答えにしかならない。彼女は、レオナールが自ら席につこうがつかなかろうが、全く記憶していないのだろう。
「行こう、エステル嬢。彼はメイルード伯爵令嬢の味方だ」
その言葉にエステルの大きな瞳が震えた。口を手で覆い、長い睫毛を伏せる。
「そんな……。それは、でも、私が悪いの。きっと私がアティリナ様の気分を害してしてしまったのだわ。人を好きになるのは自由だけれど、嫌いになるのも自由ですもの」
悲しみに耐えるような姿は、まさに美しい心を持つ麗しいご令嬢だ。傍らに立つ男は気遣うように、そして周りを牽制するかのように、細い腰をぐっと抱き寄せる。彼らの女神はされるがまま彼に体を預けた。その憂いに満ちた横顔は美術品のように整っている。
「ご令嬢が皆、あなたのように清らかな心を持つとは限らないのですよ。中には嫉妬で醜悪な内面を持つ魔女のような者もいる。彼はそんな魔女に毒されてしまったのです。いずれきっとあなたを傷付けるでしょう」
また別の男がエステルに優しく囁いた。レオナールは表情を変えないまま、無感動にその光景を見ていた。どんな茶番だ。少し前なら変わった発言をするご令嬢だと観察したのだろうが、今となっては言葉の端々にある思い込みや気遣いのなさ、傲慢とも取れる受け身な態度の方が気になった。
「でも、レオナール様はお優しい方だから、私に酷いことはなさらないわ。先程テラスにいらっしゃらなかったから、ずっと、とても淋しかったのです」
瞬時に射殺さんばかりの視線が彼に突き刺さった。レオナールは内心溜息を吐く。そんな言い方では周囲の男性の立場がないではないか。と言うか、レオナールは別に頻繁に顔を出していない。淋しいも何もないだろう。あと、注意するのも馬鹿らしいぐらいだが、名前で呼ぶことも許した記憶はないし、証拠もないのにアティリナを魔女扱いするのはいかがなものか。
さて、とレオナールは考えた。目の前では男達がアティリナを貶めたりエステルを気遣ったりで忙しい。あらゆる不愉快な点について是非とも論破してやりたいしその自信もあるが、論理的な話し合いが出来る人間がいるとも思えない。それに会話を開始すると、誰かがいつものようにエステルへ椅子を勧めて集団が形成されてしまうかもしれない。図書館での一件があった後だ。アティリナには目撃されたくない。
「あー、失礼。……失礼、そろそろ教授と約束した時間なので退席を。そうだな、ラローシェ殿もご一緒にいかがですか? 教授が先日の討論の話に興味をお持ちのようでしたよ」
会話に割り込む形でセドリックが立ち上がった。ついでに「レオナール」ではなくあえて家名で呼び掛ける。彼の言う「討論」だの何だのは真っ赤な作り話だ。今の今まで完全に存在感を消していたのだが、何かを感じ取ったのかもしれない。
その場にいた誰もが一斉に口を噤み、視線だけがレオナールに集中する。レオナールはありがたく誘いを受けることにした。「是非」と心置きなく立ち上がった彼を、エステルは心底意外そうな、驚いたような顔で見つめてくる。それはあまりにも純粋な驚きで、……なぜか醜悪なものを感じさせた。
「ただいま帰りましたよ。……で、何くたばっていらっしゃるんですかレオナール様」
自室に現れた赤毛の従者が、慣れた手つきで冷めた紅茶を新しいカップに注ぐ。そしてそれをぐいっと呷ると、許可も取らずに残っていた焼き菓子を貪り始めた。一応、それらは彼用に準備されたものなので、主人の軽食を盗んでいるわけではない。
レオナールはソファに寝転がっていた上体を起こし、肘置きに置いていた長い脚を床へ下ろした。行儀が悪いにも程があるが、幸いここは自室である。主人を咎める筈の従者はアレなので、何の目も気にならない。
「結果は?」
「ルセルのお坊ちゃんを含めて、婚約解消したのが3人ですかね。今はお互いが牽制し合っている状態で、どう転ぶかなぁ。近々夜会も始まりますから、当面は贈り物合戦じゃないですかねぇ。アティリナ嬢に危害を加えるって発想には至らないと思いますよ」
従者はそこまで言い切ると、残る焼き菓子に手を伸ばした。静かな室内に、サクサクと噛む音がひたすら鳴り続ける。
「マリウス」
「ふぇいふぇい。へねふぃるらんしゃく……」
「子供か」
溜息を吐くと、ドン、ドン、という音がした。胸に詰まったらしい。乳兄弟なので古い付き合いではあるが、確認しなくても阿呆である。
「あー、苦しかった。えーと、セネヴィル男爵令嬢ですね。なーんか目的が全く読めないですねー。今のところプロポーズ全部に平等に喜んでますよ。あれはないわー。ひょっとしたら目的そのものがないのかな」
大方自分の予想通りで、レオナールは長い息を吐いた。多分にアレな感じがするマリウスではあるが、人を見る目はある。その彼にエステルの周りの男性陣をざっと調べさせたのだ。何せ図書館の事がある。一応、ダヴィドは卑怯を嫌う男ではあるので、女性に突然手を上げるとは思えないが、それでもアティリナ1人の時に対峙させるのは不安だ。
「ついでに、アティリナ様の周りは楽しそうと評判ですよ。何とかリストでしたっけ? 完成のお礼にお茶会をやってるんですよね?」
図書館でのことがあったのでレオナールはすっかり忘れてしまったが、あの後もアティリナ達は情報を集め続け危険人物リストを完成させたらしい。今は情報提供をしてくれたご令嬢達を招いて、小規模なお茶会を順々に開催している真っ最中だ。理由が理由だけに、あまり大がかりなパーティーには出来ないため、私的なお茶会ということにしているのだろう。
「もっとも。楽しそうな分だけ、アティリナ様が悪く見えるみたいですが」
レオナールは秀麗な眉を寄せた。私的なお茶会なのだから他人にとやかく言われる筋合いはない筈だが、それを納得することさえ出来ないようだ。
「ところで、いつ誤解を解くんです? 婚約の件」
マリウスが使ったカップを片付けながら何気なく問いかける。レオナールは深くソファに体を沈め天井を仰いだ。
「……次の婚約者選びが、やたらと楽しそうでな」
ぶはっ、とマリウスが吹き出した。腹を抱え、肩を震わせている。
「マリウス」
物凄く嫌そうな顔でレオナールは一応従者を注意した。自分に対して物怖じしないし、自分に足りない面をそれとなく補ってくれる良い従者ではあるが、いかんせん遠慮がなさ過ぎる。案の上、笑い声が止む気配はない。
己の婚約者は、どうやら自分の前で本当に猫を被っていたらしい。自分がたいして興味を抱いて来なかったせいもあるが、それにしたって罪深い。猫が剥げたら天然だ。よく笑う。ますます罪深い。
あの何でも楽しもうとする気質は良し悪しあるのだろうが、自分にとっては眩しい性質だ。彼は今までひたすら選ぶ立場だったので、持ち込まれた縁を処理すればそれでよく、自分から行動を起こすなどという発想にすら至らなかった。だから彼女と、それこそ教本から外れた会話をして初めて気付かされたのである。自分は圧倒的に受け身だったのではないか、と。
「まあ確かに、婚約者選びはお止めになるでしょうが」
レオナールはソファに沈んでいた上体を重そうに起こした。婚約継続がわかれば止めるだろう。それと同時に、別の問題が引っ掛かる。
「婚約者に戻ると、教本の対応に戻る可能性が高い」
実際今も婚約者なのだが、彼女の認識では「解消済み」なのだ。今、彼女のその勘違いのおかげで友人対応を受けられているのだから、その根本を解決してしまうとまたあの面白味のない教本の関係に戻ってしまうに違いない。
正直、今の関係は悪くない。むしろ、出来ればずっとこのままでいたいぐらいだ。
「なに人の子みたいな事を仰っているんですか。相手に主導権を握らせたままなんて珍しい」
マリウスは約1歳下の主人を別人を見るような思いで眺めた。仕事も学業も熱心で探究心が旺盛な割に、人に対しては鷹揚で要求が少ない。使用人に対して細かくないし、口うるさくもないのは素晴らしい主だとは思うのだが、ご令嬢に対してだけは昔から上手く対応出来ないのだ。
「要求があるならお伝えしては? アティリナ様の場合は、受け身になっていると何も進まない気がしますよ」
レオナールの秀麗な眉が跳ね上がった。いささか、いや、かなり気になる単語があった気がする。
「……受け身?」
「受け身ですね。その顔で女性に積極的だと俺が面倒臭いので今まで言いませんでしたが」
レオナールが目を見開いて固まった。わかっていたなら言え、と怒鳴りたい衝動が腹の底から湧き上がってくる。が、彼は両目をぐっと瞑ってやり過ごした。主人の方針に従って働き、必要に応じて補佐や助言を行うのが従者の仕事なので、主人の意に沿わない行動は取らないのが普通なのだ。
今まで、というか、アティリナに対してはつかず離れずの距離を保つことこそが彼の意向だったのだから、非はレオナールにあるのであってマリウスを責めるのはお門違いだろう。
「だから正直、セネヴィル男爵令嬢の件は意外と言いますか、青天の霹靂と言いますか」
学園内には従者を連れて入っても良い。レオナールは日頃従者を連れて行かないのだが、ある日家からの用事をマリウスが伝えに来た時、偶然エステルと例の集団が周りに座っていたのだ。その事があってから最近まで、ねちねちと嫌味を言われ続けていた。
「しつこいな。言い寄ったわけじゃないと言っているだろう。異質な女だから観察していただけで」
「うわぁ、全くもって外道ですよねぇ。酷いなぁ。うら若きご令嬢を道化扱いするなんて」
「お前は誰の味方なんだ……」
エステルに対する感情は、一体何だったのだろう。珍しいご令嬢だとは思ったし、その異質な会話は眉を顰めるような酷いものだったが、なぜか目が離せなかった。だからと言って婚約者にしたいだとか、自分に対して何か感情を向けさせたいだとか、そんな想いは微塵も抱かなかったのだが……。もしかしたら毛色の珍しい小鳥が囀っているという程度の認識だったのかもしれない。
そこでふと気付く。エステルは慰めて貰う、喜ばせて貰う、笑わせて貰う、愛して貰う……そんなふうに人から貰ってばかりだった。まさに全てが受け身である。その一方で、彼女自身が誰かに何かを贈ったことがあっただろうか。
先程の怒りの衝動が凪いでいく。そしてぼんやりと、あの図書館で見た柔らかなグレーベージュが思い浮かんだ。アティリナは、きっと何の苦もなく相手へ何かを贈る人だ。おそらく彼女の友人達もそうなのだろう。そして自分は、……やはり受け身でしかない。
「マリウス。夜会の招待状はもう届いているか?」
その一言に、マリウスは瞬時に従者の顔に戻った。そして従者は用事を果たす為、音もなく部屋を出て行ったのだった。