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3.猛犬注意

 午後の陽射しが潤む中、この日もアティリナは図書館で地図を広げていた。以前レオナールと会った時間帯と同じである。

 貸した淑女教本は数日後に戻って来た。『大変参考になった』というメッセージカード付きである。定型文と言えば定型文だが、アティリナの持つレオナールのカードの中では新文面だ。その他に交流はないが、アティリナとしては以前より婚約者が人間に近付いたような気がしている。


「良い人は見つかりましたか?」


 聞き覚えのある声に顔を上げると、前回と同様、レオナールが微笑を浮かべていた。今日もダークブロンドの癖毛に色味のない灰色の目で、崩れる気配なく貴公子然としている。


 アティリナの肩には、力が全く入らなかった。ほら、やっぱり婚約解消だろう。前回会った時の話を報告したところ、家族からは「婚約解消はアティリナの思い込み」と注意されたわけだが、この反応はどう見ても解消の意志アリではないか。


 アティリナが何か答えるより前に、レオナールが伏せてあったメモ用紙を捲る。それに目を通すやいなや、怪訝そうに眉を寄せた。


「領の情報?」

「はい。家族から文句が入りまして、選び方を変えましたの。まず年齢の近い男性のいる領を調べて、その領とうちとで何か出来ないか考えるのです」


 適度な中年男性を挙げると父母ともに大反対をした。弟に至っては「希望ってそういうことじゃないから。やり直し」と即座に差し戻して来た。そして「むしろやり直すな。今の婚約を死守しろ」と追伸が入った。随分としっかり者に育ったものである。


「ただ、実際に何か事業をするなら、どこか商会を援助してやらせた方が良いと弟が言っておりまして。商会とコネクションのある家、と考えますと、なかなか候補選びが難しいのです。楽しいのは楽しいのですが」


 貴族は商売に向かない。ノウハウがないからだ。メイルード伯爵家は代々「身の丈に合わないことはしない」をモットーにする気質で、伯爵家の教えの根幹に「無理はしない、安定は尊い、日々のご飯が美味しいって幸せだよね!」的思考が流れており、それは領民の気質でもある。

 レオナールはメモ用紙を元に戻した。ほぼ無意識に目は地図が最新であることを確認している。


「領の話は抜きにして、あなたの希望はないのですか?」

「さあ、特には。女性のお友達やお知り合いは多いのですけれど」


 アティリナは軽く肩を竦めた。レオナールと夜会に参加すると彼はさっさと1人で挨拶回りに行ってしまう為、アティリナには長い自由時間が訪れる。そんな時に1人でいても暇なので、必然的に似た立場の女性の友人や知り合いが増えていく。そして婚約者のいる女性に声をかけて時間を無駄にする未婚約の男性も少ないので、婚約後は自然と男性の知り合いや友人が増えなくなるのだ。


「ああ、そうだ。レオナール様は男性の噂話だとか、何かご存知ありません?」


 レオナールは目を見開いた。唖然とした声が漏れる。


「……私に聞くのか」

「はい。レオナール様はお知り合いも多くいらっしゃいますでしょう? 悪い噂を持つ方をご存知ではなくて?」

「……? 悪い噂?」

「ええ。今、イヴの為に『危険な男性リスト』を作っているのです。色々な方が協力して下さっていて、とても良いものになりそうなのですわ。あ、イヴと言うのは……」


 レオナールが息を吐いた。


「リシュリュー伯爵令嬢でしょう。婿入りの枠が空いたので、婚約希望が殺到しているとは聞いていますが」

「まあ、お耳が早いのですね。私、イヴには幸せになって頂きたいのですわ。その為には、次のシーズンで悪い男性から逃げ切らなくてはいけませんでしょう?」


 悪い男性、と呟いてレオナールが苦笑した。アティリナの緑色の瞳が深い色を湛え、柔らかなウェーブを描くグレーベージュの髪は実に柔らかそうだ。彼女自身は良い男性と結ばれたいという意志がないのに、友人が悪い男と結婚するのは阻止したいらしい。


「熱心なのですね」


 レオナールに似つかわしくない、随分とぼんやりした呟きが落ちる。アティリナは微笑んでいた頬から少し力を抜いた。少し寂しげで達観したような、大人びた笑みである。


「嫁ぎ先によっては、お互いもう会えないこともありますもの。酷いと手紙も出せませんでしょう? 領地が離れているだとか、議会の派閥が違うだとか。でも、良い方と結婚できれば幸せでいてくれると信じられますもの」


 それに、と強く笑いかける。レオナールは黙り込んでいた。


「自分達で色々と試すのは、意外と楽しいんですのよ? 作り話よりも奇妙な話を教えて頂いたり。おかげで、またお友達が増えましたわ」


 彼女達の元には多くの情報が集まって来ており、今は確認の真っ最中だ。あまり大々的に聞き回ってしまうと男性側への誹謗中傷と取られる可能性もあるため、噂話に詳しい学園内のご令嬢に話を聞き、ひとつひとつの信憑性を確認するという地味な作業を行っている。


 当初は自分達が持つ情報プラスアルファぐらいのリストを考えていたのだが、集め始めてみると内々に伏せられているようなディープな情報まで寄せられて来てしまった。これは、噂話を収集する際に「イヴェットの為に」と正直に理由を話したせいだ。学園内のご令嬢に限定して話を聞いたせいもあるが、皆彼女の婚約解消に思う所があったようで「何か役に立てば」と話してくれたのである。


 その時、ふいに図書館内に足音が響いた。足音は最初ゆったりとした調子だったのだが、突如速足になり、一直線に近付いてくる。


 それにしてもうるさい。レオナールも足音を立ててはいたが、こんな靴底を床に打ち付けるような騒がしさはなかった。アティリナが何事かと目を向けると、そこには大柄の男性が立っていた。暗茶の短髪にブルーの瞳、引き締まった体躯は図書館にはあまり似合わない。


「おや、ルセル殿か。物音は控えられた方が宜しいのでは?」


 アティリナと同様に顔を向け、レオナールは穏やかに注意した。アティリナも同意見である。と思うと同時に、広げている地図に手を伸ばした。何となくあまり顔を会わせたくない人物なので、出来ればすぐにでもこの場を去りたい。彼がイヴェットの元婚約者、ダヴィド・ヤン・ルセル子爵令息である。


 ダヴィドはレオナールの言葉を無視して、ずんずんとアティリナの真ん前まで歩いて来た。彼女の前には机があり、机越しの真正面の位置でダヴィドが止まる。机があって良かったかもしれない。


「何か?」


 淑女教育に従って、アティリナは即座に微笑を貼り付けた。こうすると全くもって伯爵令嬢である。

 ダヴィドは片側の口の端を持ち上げて嫌な笑みを作った。アティリナの隣にいるレオナールのことは気付いていないのか無視しているのか見もしない。


「いえ、特に何も。まさかこんな所にご令嬢がいるとは思いませんでしたので、思わず確認してしまいましたよ。こんな、男性の出入りの多い密室に」


 つまりはいたぶりに来たらしい。ささやかな皮肉には気付かないアティリナでも、彼の悪意は容易に感じ取ることが出来た。しかし同時に内心首を傾げる。今までこういう絡まれ方をしたことが全くなかったからだ。

 だが、アティリナは焦らなかった。確認しに来たと言うのなら、今ので確認出来ただろう。じゃあもう用は済んだに違いない。彼女は地図の端を手に取って、静かに片付け始めた。ただ机の反対側へ近寄るのは遠慮したい気がするので、あれこれ引っ張ったり寄せたりと苦労しながら折り畳んでいく。


「成程。家格の低い男とは口も利かないか」


 嫌な笑みをそのままにダヴィドの苛烈な目がぐっとアティリナに集中する。……こんな人だったろうか? アティリナはイヴェットに紹介された頃のダヴィドを思い浮かべた。あの時は正義感の強い好青年だと思った筈なのだが。アティリナはチラリと視線を走らせ、机が間に挟まっていて良かったと心底思った。机がなかったら飛びかかられていたかもしれない。


「失礼致しました。お話の相手が私だとは思いませんでしたわ。恐れ入りますが、何と仰ったのかもう一度お聞かせ頂けますかしら?」


 アティリナは投げつけられた嫌味をさらりと流した。彼女も社交界で揉まれている身だ。特に女性をホイホイ惹き付ける婚約者がいるので、嫌味攻撃に遭うことは珍しくない。感情的な嫌味はまず聞き流し、しつこければ冷静に聞き返し、まだ同じ事を言うなら静かに否定するのが基本である。

 そんなアティリナに苛立ったのか、ダヴィドの顔から笑みが消えた。眉間を寄せ、本格的に睨み付ける。


「魔女め。貴様が学園内の女達と何を企んでいるのかは知らんが、今に見ていろ。どうせエステル嬢を孤立させているのも貴様の扇動なのだろう。浅ましい女だ」


 低い声は刃物のように尖っている。一方、向けられた側は「あー、なるほどー」とお気楽に納得した。最近、例のリスト作りの為に色々なご令嬢と会っているし、雑談が弾みに弾んで人が集まり、テーブルが1つで足りないぐらいの規模のお茶会と化してしまうこともある。それがエステルの何かに触れたらしい。


「女性の集まりについてはセネヴィル男爵令嬢に関係のないことですから、ご安心なさって? それと孤立の原因ですか……。大変残念なのですが、犯人は私ではありませんわ」


 瞬時にダヴィドの全身から怒りが立ち昇る。と同時に、アティリナの体が僅かに後ろへ押しやられた。レオナールが彼女を庇うように前に立ったのである。……婚約解消予定なのに、なんと紳士なのだろう。しかし、ならば尚更、巻き込んで怪我を負わせてしまうわけにはいかない。ここはレオナールの安全の為にもダヴィドをなんとか宥めなければ。


「犯人だと思っていた人物が空振りだったのですから、がっかりするお気持ちはわかります。きっと私に辿り着くまでに多くの時間と労力をお使いになったのね。お察し致しますわ」

「俺を馬鹿にしているのか!」


 怒鳴り声と共に、ダヴィドの拳が机に振り下ろされた。静けさに慣れた耳には酷い爆音だ。反射的に身が縮こまり、喉の奥が張り詰める。ダヴィドは下ろした拳を机につけ、さらに前屈みになって睨みつけてくる。


「ルセル殿、静かにしてくれ。ここは図書館だ」


 レオナールの冷静な声がした。眉間に皺を寄せ、今まで見た事もないほど険しい顔をしている。ダヴィドは今度こそレオナールを睨みつけた。


「それと、人に何かを申し立てるなら証拠を提示すべきだろう。立証せよ、とは教わらなかったか?」


 耳を打ったのは厳しい声だった。弾かれたようにアティリナの背筋が伸びる。ただの一声で辺りが緊張に支配された。今まで一度たりとも聞いたことのないその声は、今まで見て来た穏やかな顔とはまた別の、次期侯爵としての側面なのかもしれなかった。


 ダヴィドは奥歯をギリと噛んだ。そしてレオナール、アティリナと順々に血走った目を向けた後、再びレオナールを睨んで「ハッ」と息を吐き捨てた。


「さすが次期侯爵でいらっしゃる。ご立派なことだ」


 それだけ言い捨てると、彼は踵を返して去って行った。来た時と同じぐらいの荒々しさである。図書館の中にいるかいないか丸わかりだ。ある意味助かる。


 じっと耳を澄ませ、足音が聞こえなくなるのを確かめた後、アティリナはようやく息を吐いた。かなり緊張していたのか、がっくりと机に手をついて項垂れる。疲れた。いや、それほどダヴィドと会話した訳ではないが、もう帰りたい。それを合図にしたように、レオナールは机の上の畳まれた地図に手を伸ばした。


「大丈夫ですか?」


 顔を上げると、心配するようにこちらを覗き込む目と行き合った。いつもの笑っていない目よりも遥かに人間的で、感情があって、思わずドキリとする。確かに顔がいいのだ、この婚約者殿は。


「はい、ありがとうございました。あと、申し訳ございませんでした。巻き込んでしまいましたし、何やら怒りを煽ってしまったようで……」

「ああ……。あの台詞はなかなか面白かった」


 そう言ってレオナールは手を顎に当てた。それを見たアティリナは呆然とする。なんと目の前で、あの常々目だけは笑わなかった婚約者が、可笑しそうに笑っていたのだ。そんなに面白い話をしたわけでも、変な顔をしたわけでもない筈だ。いや、していないだろう多分。


「いや、失礼。少し前はそうでもなかったのですが、最近私は彼が苦手でね。何かにつけて突っかかって来るので、少し鬱陶しかったのですよ。どうも家格だとか跡取りか否かだとか、そういう事が気になるらしい。誰のせいでもないでしょうに」

「ええと。それはきっと、恋のライバルとか……」

「ないですね」


 何やら即座に否定が返ってきたが、この時のアティリナの頭の中は「笑った!」とか「喋った!」とか「長く喋った!」とか、その手の驚きで満たされていた。いや、だって約3年だ。約3年表面的な付き合いを続けて来て、婚約が解消に差し掛かってこれなのだ。衝撃を受け止めるので精一杯である。


「だからある意味、あなたは私に巻き込まれたとも言えます。恐ろしい目に遭わせてしまって、大変申し訳なかった」


 そう言って、レオナールは頭を下げた。先程の厳しさを完全に引っ込めた穏やかさ、優しさに、折り目正しい所作。何と信用に足る紳士なのだろう。ひょっとしたら、自分でない婚約者なら当の昔にレオナールの色々な面を見ていたのかもしれない。そして、そんなレオナールはどうしてもとても素敵な男性だった。――思わず惹き付けられるほどに。


 アティリナは随分ぼんやりと「この人が婚約者だったのだな」と、そんな事を思った。そしてそう思ってしまうと、この人との婚約が解消されてしまうのだと、ようやく、そう理解した。

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