2.危険人物リスト
天窓の輝く談話室に、軽やかなピアノの音が響いていた。この談話室は学園の端の方にあり、それほど騒音にはならないのだが、時間的にはそろそろ講義が始まるであろうことを慮ってグランドピアノの屋根は閉めている。
弾いているのは小柄なご令嬢だった。ハーフアップにしたうねる金髪に灰色の瞳、長い睫毛を伏せ、全てが小柄で華奢で纏う雰囲気から可愛らしい。本人に言わせると、手が小さいのでピアノを弾くには不利なのだとか。
つい先日婚約を解消したイヴェット・ロザリア・リシュリュー伯爵令嬢が10日ぶりに学園へ顔を出し始め、今日で3日が経とうとしていた。
「時間をずらせば随分と快適になるのね。初めて知りましたわ」
イヴェットはそう言って薄桃色の唇にほっとしたような微笑を浮かべた。いつも講義後にご令嬢で溢れるテラス席は閑散としていて、彼女達の他には講義のない男性達がちらほらと本を読んでいるだけである。今は一休みを終えたご令嬢達が帰った後で、さらに男性達は講義を受講している時間帯だ。
細やかで美しい刺繍が施された明るい若草色のドレスに、ハーフアップとは言え技巧を凝らして編込まれた髪、念入りに手入れされた真珠のような肌。学園を休む直前よりも愛らしさが何倍にもパワーアップしている。アティリナとミリアーナはそれはもう褒めて褒めて褒め倒した。これは侍女やリシュリュー伯爵夫人が燃え上がった成果だろう。夫人曰く「女の悲しみはより美しくなる為の糧」なのだと言う。
「私も。いつもと違うことは、してみるものですわね」
先程の軽やかな音色を思い出しながら、アティリナは微笑んだ。
イヴェットが学園に顔を出すようになって、やはり初日、二日目と注目の的になってしまった。さすがに学園内でゆっくりお茶をするわけにはいかず、彼女は講義を終えるとすぐに帰宅せざるを得なかった。そこで今日、講義後に学園の外れにある談話室で時間を潰してからテラスへ戻って来たと言うわけだ。
「でしょう? 皆様、雨の日でないと談話室をお使いにならないから」
今回の作戦を提案したミリアーナがおっとりと笑った。なぜそんなことを心得ているのか。
三人は暫らく、贈ったお茶やお菓子、イヴェットが休んでいた間の講義のことで談笑をした。談話室にいる時は歌を歌ったりピアノを弾いたりしていただけで、特に話という話はしなかったのだ。
「あら……」
ふいにイヴェットが顔を上げ、灰色の瞳を遠くへ投げた。楽しげだった顔から徐々に色が薄れていく。アティリナも彼女と同じ方向へ顔を向けると、5mほど先にいくつかの人影があった。
中心にはストロベリーブロンドのふわふわした髪の令嬢がおり、今その青い瞳は怯えたように揺れていた。竦ませた華奢な肩を寄せ、身を縮ませるように両手を胸の前で抱える。その彼女を取り囲むように4人の男性が立ち、うち1人が彼女の様子に気付いて肩を抱いた。
あれこそが噂のエステル・シエラ・セネヴィル男爵令嬢だ。外見は美しいに尽きる。イヴェットが妖精なら、彼女は女神といったところだろう。目を惹くのは、常に伏せられた目や物憂げな表情だ。妙に身を縮ませていて、誰に対しても怯えたような、あるいはどこか甘えるような目で見つめてくる。
彼女が学園に通い始めた当初は、慣れないだろうと多くのご令嬢が声を掛けてお茶に誘っていたものだ。アティリナ達も何度かお茶に誘ったことはある。しかし、何かにつけて謝るし、すぐに自分を卑下する。かと言って他人へ話題を提供することもなく、会話に入れなくなったらなったで突然涙ぐむ。そんな具合だったせいか、いつしか誰も誘わなくなってしまった。誰だってそんな気を遣う人間とは同席したいとは思わない。ただ、女性とは気が合わなくとも男性には受けが良かったらしい。今では彼女の周りを男性が常に取り囲んでいるような状態だ。離れるのは講義中ぐらいだろう。
そんなことをつらつらと考えていると、エステルと目が合った。と、同時に彼女の肩がビクッと震え、肩を抱く男性とは反対側にいる男性へ縋るように身を寄せる。すぐに別の腕が彼女の腰に回され、この場から離れるように歩き出した。彼女を取り囲む男達はばらばらとアティリナ達を睨み、口々に何かを――恐らく悪態なのだろうが、吐き捨てながら去っていく。今日のところはイヴェットの元婚約者の姿はない。
「どうしましょう、怖がらせてしまったわ。繊細でいらっしゃるのね」
もしかしたら怖い顔になっているのだろうか。それはいけないと、アティリナは己の2つの目尻や頬を指で押し上げたり下げたりした。すると、ミリアーナが声を立てて笑い、イヴェットもつられて笑い出した。どうやら変な顔になっていたらしい。終いには笑っている事自体が可笑しくなってしまったのか、二人とも体を折って肩を震わせ始めた。念の為に言っておくが、淑女の振る舞いとはかけ離れている。
「私、2人がお友達で幸せですわ。2人とも何も仰らないんだもの」
たっぷりと笑い終えると、目尻の涙を拭いながらイヴェットがしみじみと言った。顔からも体からも力が抜け、ブロンドの髪は陽光を弾いてただただ美しい。ころころとしたイヴェットの声が妙にくっきりと耳に届いた。
「あら、私にも人並みの好奇心はありましてよ? より楽しい話題を選んでいるだけですわ」
ミリアーナが悪戯っぽく微笑んだ。同意を求めるように、青い瞳がイヴェットとアティリナを順々に見る。
婚約解消の内情は元婚約者が大袈裟に騒ぎ立てているので今更誰も確認しないが、学園に戻った彼女の元へわざわざその元婚約者の悪口を言いに来る者がいる。そればかりかエステルの噂話や悪口の輪に引き込もうとまでしてくる。それだけ不満が溜まっているということなのだろうが、イヴェットにしてみるとあまり嬉しいお誘いではない。
「音楽と同じで、人との出会いは大切にしたいの。あまり信じてはもらえないけれど、私、後悔はしていませんわ。人を好きになるのは自由なのだから、人を嫌いになるのも自由であるべきよ。……ただ、今はとても悲しいけれど」
リシュリュー伯爵家は代々音楽家や芸術家を支援している。イヴェットは最後に拗ねたように付け足して目を伏せた。だが、すぐに視線を上げて小首を傾げてみせる。そして僅かに潤む灰色の目を細めて笑みを作った。
「でも、じきにシーズンが始まってしまうでしょう? 今、屋敷にたくさん絵姿が届いているのだけど、気が乗らなくて……。このままだと、夜会で出会った悪い男性に騙されてしまいそうですわ。まるで歌劇ね」
アティリナとミリアーナは顔に微笑を貼りつけてやり過ごした。イヴェットは冗談にしたくて言ったのかもしれないが、いかにもあり得そうな未来である。傷ついたご令嬢をターゲットにするタチの悪い遊び人が泳ぎ回っているのが夜会なのだから。
「今は辛いですわね。イヴは頑張ったもの。でも、いつかイヴの前にもっと素敵な男性が現れるに決まっていますわ。だから今は悲しくても、変な小石に躓いては駄目よ?」
ミリアーナはイヴェットの手を取り、それを己の両手で包み込んだ。その温かさにイヴェットの目がいよいよ潤み、すぐに苦笑を浮かべて引っ込めようとする。
そんなイヴェットを見つめながら、アティリナは自分とレオナールの関係を思い返した。婚約が解消になっても、お互いきっと傷付きもしないだろう表面的な関係である。メイルード家はとことん「無理をしない」をモットーとする家なので、愛よりも信用と安定を重んじる教育方針なのだ。
「アティ? どうなさったの?」
目元にハンカチを当てながらイヴェットは不思議そうにアティリナを見た。声もどこか潤んでいるようで、何度か小振りの咳を零している。アティリナは困ったように弱く微笑した。
「イヴは素敵だと思いましたの。私は愛するよりまず信じよと教わりましたから。私とレオナール様の関係は、皆様より乾燥しているもの」
イヴェットの軽やかな笑い声がした。ハンカチを目尻に当てながら、彼女はおどけたように肩を竦めて見せる。
「愛を優先させ過ぎると、私のようにハンカチの洗濯が追いつかなくなってしまうわよ? 私もアティぐらい軽やかでいられたら、もっと穏やかに生きていけると思うのだけど」
アティリナは苦笑した。軽やかと言うよりも荷物を抱えられないのだ。そのせいで応用が利かなかったり、何もできなかったりする。
「2人を合せて半分にすればちょうど良いのではなくて? 要はバランスだと思いますわ。ねえ?」
紅い唇にたおやかな手を当て、ミリアーナがくすりと笑った。指の軌道なのか動きの速さなのか原因はわからないが、所作は普通のご令嬢と変わらないのにやたらと大人っぽい。もっと言えば妖艶である。彼女ならばよくわからない小石が寄って来ても、簡単に指先で弾き飛ばしそうだ。
貴族は政略結婚が当たり前とは言え、アティリナも年頃の乙女である。それなりに恋や愛や素敵な結婚への憧れはある。彼女はふとテーブルの縁を見つめた。思考が一瞬にして収束する。こうなったら、イヴェットは幸せになるべきではないだろうか。いや、ならないと駄目だろう。イヴェットのように愛に身を捧げる人は、身を捧げる分だけ深く幸せを得てもいい筈だ。その為には、悪い男に捕まらないこと。まずはこれが必須に違いない。
「そうだわ。こういうのはどう? 今イヴは次の婚約は考えられないのでしょう? なら、次のシーズンは危険な男性に捕まらない為の準備をしましょうよ。そうしたら素敵な男性が現れた時に、間違いなく自由でいられるのではないかしら」
イヴェットは驚いたように目をぱちくりさせ、ミリアーナは黙って次の言葉を待っている。
「例えば、『近寄っては駄目な男性リスト』を作るとか。参加者の中にいるとわかれば予め注意を払えますし、もし夜会で出会ってうっかり心惹かれても後でリストを読むと頭が冷えるかもしれませんもの」
夜会ではエスコート役の男性と常に一緒にいるわけにはいかないし、友人とだけいられるわけでもない。まして婚約者のいない令嬢ともなれば夜会を梯子してもおかしくないぐらいで、シーズン終わり頃には判断力もなくなってくる。だから前もって出来る対策はあまりないのだが、予め要注意人物の情報を頭に入れておくのとおかないのでは、心構えが全然違う。
「名案ね。各自が持っている『駄目男情報』を集めませんこと? 有名人ならともかく、小物は意外と被らないものですわ。噂話に詳しい方にも聞いてみましょう。出来れば男性からの情報も欲しいところですわね」
ミリアーナはおっとりと肯いた。社交界に名を轟かせている危険な男性であれば全員情報を共有しているのだが、厄介なのは全く名を聞かなかったり、醜聞が揉み消されていたり、知っている人だけが知っているような、そんな隠れ駄目男である。こちらは口外が憚られるので、友人間だけでひっそり情報共有をするだけになる場合が多いのだ。
「協力ありがとう、ミリィ。ああ、そういえば。いつ頃のお話なのかも併せて聞いて下さる? わかる範囲で構わないのだけれど」
勿論、と再びミリアーナが肯く。レオナールから助言を貰って以来、アティリナは「情報は最新」を心がけているのだ。あと、実はリストを作ること自体が楽しくなってきていたりする。
話は着々と纏まっていく。誰に聞いてみるだとか、誰と誰が詳しいだとか、あの辺りには聞かない方がいいだとか。
「あの、2人とも。気持ちはとても嬉しいのだけど、そんなに大袈裟にしなくても……」
呆気に取られていたイヴェットがようやく口を挟んだ。まさかこの3人の外へも広がる話になるとは思わなかった。その彼女の方へ2人がふわりと振り向く。どちらも満面の笑顔だった。
「まあ。イヴを置いて楽しんでしまったわ。せっかくのリスト作りなのだから、イヴも是非教えて頂戴ね?」
「駄目男の被害者を減らすとても良い機会ですわ。徹底的にやりましょう。ええ、徹底的に」
本筋には不要なので書いていませんが、ミリアーナは次女で、姉がどこぞの貴族と駆け落ちしたせいで婿を取らないといけなくなったという裏事情があったりします。
駆け落ちした当人達はやがて金が尽き、男は実家へ逃げ戻ってしまい、姉君は即修道院へ駆け込みました。
そんな事があって、ミリアーナは駄目男を徹底的に封じる事にノリノリです。