1.図書館にて
アティリナはのほほんとしている方だと自認している。契約だとか税金だとかは全くわからないし、婚約者との距離が全く近付かなくてもあまり気にしていない。
イヴェットへお見舞いのお茶とお菓子を送ってから数日後、彼女は学園の図書館で地図を広げていた。傍らには持ち込んだ貴族名鑑を、少し手元から離してメモ用紙とペンを、それぞれ机の上に置いている。
友人の婚約解消の件を領地のある実家へ報告すると、やはりと言うべきかレオナールとの婚約について大層心配する旨の返信が届いた。ただどうも必死さの足りない家系なのか、「解消と言われたら解消するよ。だから念のため次の婚約者候補を探しておくね。アティリナも希望があったらじゃんじゃん言うんだよ。パパ頑張るからね」ということだった。楽観的である。もっとも、いずれ家を継ぐ予定の弟からは「ふざけんな。頑張る意志を見せろ。せめて努力しろ」と真逆の手紙が来たのだが……。
貴族の婚約は家の都合だ。とは言え、金に困っているとか事業を興すだとか権力を増やしたいだとか、そんな目的がない場合は個人の好みが優先される。そして、政略結婚の話が持ち上がれば、そのような私的な婚約は解消されるのが普通だ。実際、レオナールとの婚約が持ち上がってアティリナは従兄との婚約を解消したし、事情は知らないがレオナールも過去数回、婚約を解消している。
しかし次の婚約者、と言われてもそう簡単には思い付かない。従兄は近所で気心も知れているという単純な理由で婚約していたのだし、今の婚約は降って湧いたようなものだ。つまり彼女は積極的に婚約者を探したことがないのである。ちなみに従兄にはもう新しい婚約者が決まっているので、戻すわけにもいかない。
だからまず、婚約者の決まっていない男性を探すところから始めないといけない。それにどうせなら双方メリットの生まれる家がいいだろう。できれば自領の可愛くて素朴な馬達が活躍出来そうなところがいい。馬は可愛い。本当に可愛い。
そんなわけで、アティリナはランチを食べた後から図書館に籠っていた。図書館を訪れる女性はあまりいないが、幸い男性向けの講義の真っ最中なのでジロジロ見てくる視線もない。
「何をしているんですか?」
突然声を掛けられてアティリナは顔を上げた。人気のない筈の館内に静かな足音が響き、すぐにその声の主が現れる。ダークブロンドの癖毛に灰色の瞳。涼やかな目元をしていて微笑は剥がれない。
「ごきげんよう、レオナール様。お久しぶりですわ」
顔を合わせるのは、前回のシーズン後から数えるとほぼ一年ぶりである。婚約者はいつも通り「ええ、そうですね」と穏やかに返した。
「それで、図書館で何を?」
いつもならさっさと終わってしまう挨拶だが、なんと今日は会話へ続くらしい。アティリナは少しだけ焦る気持ちを抑えて、柔らかく微笑んだ。この手の質問はさすがに教本にない。彼女はどうしようかと一瞬考え、まあいいかと素直に答えることにした。何せ今は社交の場ではない。多少の失敗をしても大きな問題はないだろう。
「次の婚約者候補を探しておりますの」
一瞬にして、レオナールの秀麗な眉が固まった。
「婚約者候補とは、誰のでしょうか?」
「私の、ですわ」
「あなたの婚約者は私だったと記憶しているのですが」
アティリナはポンと両手を合わせた。いけない、うっかりしていた。説明をすっ飛ばしてしまっては、いくら賢い婚約者と言えど困惑するのは当たり前だろう。
「はい。もしもの時の為の備えですわ。ご存知? イヴェットの婚約が解消されてしまいましたの。ああ、イヴェットと言うのは……」
「リシュリュー伯爵令嬢でしょう。知っています。つまり、私も愚か者の一人だと考えたと言う事ですか」
レオナールは片方の口の端を持ち上げた。笑っているが例によって目は全く笑っておらず、今はその笑っていない事実を隠そうともしない。並大抵のご令嬢なら瞬時に頭が冷えそうなほど、親愛のない笑みである。
しかし、アティリナはふふふと含み笑いをした。元々彼女はレオナールから義務以上の情を引き出せるとは思っていないし、だからと言って特段嫌われているとも思っていない。むしろその酷薄な表情を、照れ隠しの一種だと理解したらしい。社交の場と違って人間っぽい。珍しい。結果、彼女ののほほんとした頭は「恋を隠そうとする微笑ましい行動」と勘違いした。
「あら、宜しいのに。恋とは人を愚かにするものだと聞き及んでおりますもの。でも話に触れられるのがお嫌でしたら、もう黙っておきますね。どうぞお気になさらず」
そう言って、アティリナは再び地図に目を落とした。
一方、レオナールは二、三度瞬きをした後、片眉をくいっと上げてアティリナの傍らへ回り込んだ。彼はちょうど今の時間帯に履修すべき講義はないので、特に急ぐ用事はない。長い指が無造作に置かれた彼女のメモを掬い上げ、色味のない目が素早く文字を追った。しかしすぐさま微笑が消える。
「まさか、これが候補ですか?」
近くから聞こえてきた驚いたような声色に、アティリナは顔を上げた。メモには候補になり得る未婚男性の名前を記している。
「まだメモの段階で、候補未満ですけれど」
レオナールはなぜか眉を寄せ、アティリナはそれを驚きをもって見つめる。今までの付き合いで友好的になったことはないが、悪化したこともなかったからだ。
「全員、年齢が離れ過ぎています」
「ええ、はい。メイルード領にとって良い方を探していくと、全員三十~四十代になってしまいますの。私、年齢が高い方もふくよかな方も頭髪が心許ない方も問題ございませんわ。ただ、不潔は駄目なのです。脂分の控え目な方をと考えますと、そのメモの中にはいないかもしれません」
レオナールは唖然とした様子で再びメモを見た。確かに年齢は皆中年と言って間違いない。そして書かれた爵位に目が行く。公爵、侯爵はなく、子爵、男爵が殆どで、伯爵もあるにはあるが線で消されている。……ひょっとしてこれは不潔を示すラインなのだろうか? 思わず視線が己の袖口へ動いた。汚れはない。よし。
レオナールは黙っていても女性が寄って来る。基本的には顔か、受け継ぐ予定の爵位が目当てだ。過去の婚約者達も大抵そうで、ご令嬢側からの申し出があり家格に問題がないから婚約したわけだが、レオナールとの親密度が上がらないことに苛立ち、あるいは悲しみ、最終的に先方から婚約解消を願い出るのである。
アティリナとの婚約はそれらとは事情が違い純粋な政略結婚なのだが、彼の中ではご令嬢とは大抵似たようなものという認識が出来上がっている。だからこの目の前のメモの内容は全く想定していなかった。てっきり夢見がちな、非現実的な物だろうとタカを括っていたのだが。
彼はメモを戻し、何気なく地図に目をやった。そして何かに目を留めたかと思うと、次にアティリナが開いている貴族名鑑を手に取り、ひっくり返して背表紙を見る。
「地図も貴族名鑑も、どちらも少し古いようです。情報は最新のものを扱う方が良いと思いますよ」
至極真っ当なアドバイスが口から飛び出た。アティリナは婚約者の意外な言葉にきょとんとした顔を向け、それからふわりと笑った。お互いに教本から外れた会話をしたのは今日が初めてかもしれない。意外と会話出来るものだ。それになかなか親切ではないか。
「ありがとうございます。今日のところはこの貴族名鑑を使いますけれど、以後気をつけますわ」
彼女はレオナールに向き合い、きちんと頭を下げた。それから広げた地図を折り目に沿って畳み、元の場所へ戻しにいく。心なしか足取りは軽い。地図は図書館に収蔵されているものを借りているので、最新版を探して来ればよいだろう。
地図を取り換えて戻ってくると、なんとそこにまだレオナールが立っていた。アティリナは驚くと同時に、不思議なものを見るような気持ちでその顔を見つめる。アティリナに何か用事なのだろうか。と言うか、用事がなければ去っている筈だろうから用事はあるのだろう。
「今日のあなたはいつもと違うような気がします。特に受け答えや言葉選びが」
見つめて来る目には何かを探るような、警戒するような、そんな心理が見て取れた。一方のアティリナは、ここまでの会話で「婚約解消で間違いない」と無意識に思い込んでいた。「婚約解消しない」と言わないし、婚約者候補探しに助言さえ寄越したのだから無理もない。彼女はそんな自分の無意識に、たった今指摘されて始めて気が付いた。気付くと同時に、今までミスしないように気を付けていたアレコレを、改めて意識的にきれいサッパリ解除することにした。
「お気付きになりました? これがお友達と話している普段の態度なのです。婚約者でしたら淑女教育の教本に則って会話しなければなりませんけれど、解消なさるのでしょう? 気が抜けてしまいましたの」
にこにこにこと笑うと、つられたのかレオナールの固まっていた頬が僅かに解けた。
「まだ解消していませんが」
「あら、そうでしたわ。でも解消なさるのでしょう? 日取りが決まったらご連絡下さいませ」
そう言いながらテーブルの上に地図を広げていく。最新版はかなり大きいようで端の方まで手が届かない。机を回り込んで広げようと一歩を踏み出すと、気付いたレオナールがごく自然に端を広げてくれた。
「まあ、ありがとうございます」
「婚約者と友人で態度を変えるのですか? 淑女教育とやらは」
少し硬い声を出しながら、レオナールは開いた地図の折り目を伸ばした。俯いていてその表情は見えないが、どうせ微笑んでいるに違いない。
「うふふ、私は田舎娘ですからそのように致しましたの。元々、家格に対して問題のない嫁であれば誰でも良いのが貴族の結婚でございましょう? 言うなれば、淑女教育とは問題のない嫁に見せかける為のノウハウのようなものですわ。秘密でしてよ?」
アティリナは茶目っ気たっぷりに人指し指を口元に当てた。秘密と言うなら、婚約者にこそ明かしてはならない筈なのだが、彼女がそれに気付く様子はない。
「なるほど。それはたいした教育ですね」
レオナールはアティリナへ片眉をくいっと上げて見せた。口元にはいつもの微笑ではなく、左右非対称の薄い笑みが浮かんでいる。皮肉なのか苦笑なのか呆れているのか。だが例によってアティリナは気付かない。撃たれた弾を見事にスルーして、それどころかパアッと弾けるように微笑んだ。
「まあ、お分かりになります? 教本が本当に素晴らしいの。長年の経験と知識の積み重ねの成果なのでしょうか、驚くほど実践的な内容なのです。想定質問と応答集までありますのよ?」
レオナールの動きが止まった。
「応答集?」
「はい。天気の話、庭の話、趣味の話、プレゼントへのお礼と、他にも色々ございますけれど。レオナール様は無駄なお話しをなさいませんでしょう? 本当に助かりましたわ。大活躍でしたの」
レオナールがぐいんと上体を起こした。アティリナの背丈は平均的だが、レオナールは平均より少し高い。その顔を見上げるような格好で、アティリナは僅かに首を捻った。元々の微笑が消えて無表情になっている。
「つまり、私との会話は全て本の範囲でしかなく、本に書かれた解答例をなぞっていただけと言う事ですか?」
低い声である。顔は変わらないが、機嫌はすこぶる悪そうだ。それはそうだろう。アティリナは気付いていないが、会話が下手糞でバリエーションもないと言っているに等しい。面と向かって「つまらない男」と断言されているようなものだ。
「ご興味がおありでしたら、一冊お貸し致しましょうか? あとで届けさせますわね。私は読み終わっておりますもの。お気になさらず」
安心させるように肯くと、レオナールは片手で顔を覆って天を仰いだ。大袈裟な動きだが、なかなか様になっている。顔が良い男性と言うのは何をしても絵になるものなのかもしれない。
「ご令嬢とは皆似た発言をするものと思っていたら……」
思わず、といった様子の呟きにアティリナは大いに同情を覚えた。レオナールは自分と婚約する前に大勢のご令嬢と言葉を交わして来た筈だ。その度に似たり寄ったりの反応しか得られないのでは、面白味も達成感もなかったに違いない。大抵の人はうんざりしてしまうだろう。それでも彼が真っ当に対応しようとしていたのは知っている。彼女が目にした範囲だけでも、誰に対しても常に丁寧さだけは崩さなかったのだから。アティリナは彼の過去の苦労に思いを馳せた。
「でも、これはきっとレオナール様が品行方正でいらっしゃると言う美徳ですわ。女性と戯れるのがお好きな方は、女性の隠された姿を暴くのが癖になると言いますし。どうぞ、自信をお持ちになって?」
「それは完全に意味が異なります。どこで聞いたんだ……」
ぼそりと呟きが落ちると同時に、レオナールは顔を覆っていた手を元に戻した。しかし次の瞬間、何かに思い至ったのか不思議そうに眉根を寄せる。
「しかし、失礼ながら淑女とは言い難いご令嬢もいましたが」
繰り返すが、彼は黙っていても女性に言い寄られるタイプだ。中には積極的にしな垂れかかって来たり、わざと蠱惑的な振る舞いをしたりする女性も少なくなかった。どこの娼婦かと思ったものである。
「それは悪女教育ですわね」
「は?」
打てば響く。アティリナの明快な答えに今度こそレオナールは呆然とした。
「男性を誘惑することに重きを置く悪女教育と言うものもございますの。教本は、貴族男性に使える手練手管が余すところなく記載されている経験と情熱の集合体らしいですわ。でも、使いこなすには相当の修練が必要で、さらに個人の適性も求められるとのことです。私は持っておりませんが」
つまりあれもこれも教育で教本だったらしい。考えてみればそうだ。貴族の娘なのだから、娼婦を目の当りにする機会も男性を誘惑する女性を見る機会もあるわけがない。それでも男性に迫るのだから、どこかで知識を仕入れていなければおかしいのだ。
彼はにこにこしている婚約者を再び見つめた。
「あなたは婚約を解消されると困るでしょう?」
「ええ、そうですね」
アティリナは素直に肯いた。レオナールに元の微笑が戻る。
「だから、私への接し方を変えたのですか?」
アティリナの緑の目が驚いたように見開かれる。レオナールの口から薄く息が漏れた。がっかりしたのか、やはりという思いなのか、彼本人にもわからない。しかし、次にアティリナは口を覆うように手を当て、恥ずかしそうに両目を伏せた。
「お恥ずかしいですわ。ついお喋りが過ぎました。聞いて下さるのが嬉しくて、色々と要らぬ事をペラペラと……。戯言だと思って聞き流して下さいませ」
レオナールの目に困惑したような色が浮かぶ。アティリナに腹芸など出来る筈もないのだが、ありもしない真意を探るような顔だ。まあ、教育と教本の話を聞かされたばかりの身としては、疑い深くなるのも無理はない。一方のアティリナはそれを見て何かを勘違いしたらしい。
「まあ……、そんなに気になるのでしたら、後で別の淑女教本もお届けしますね。質疑応答集が著者によってかなり違いますから、読み比べをすると楽しいんですの」
親切心に溢れた微笑みを向けた後、彼女は再び地図に集中し始めた。その横顔は真剣そのものだが、どこか楽しそうである。
その日レオナールが屋敷に戻ると、彼女の言葉通りに三種類の淑女教育の教本が届いていたのだった。