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プロローグ

設定ゆるゆるでお送り致します。ミドルネームは覚えなくて大丈夫。

 中庭を一望できるテラス席は貴族のご令嬢達に占められている。ちょうど語学の講義を終え、皆思い思いに喉を潤しているところだ。もっとも、女性が集まればお喋りに花が咲くのは少女から熟女まで常識である。この日もとりとめのない話があちこちから小鳥の囀りのように漏れ聞こえていた。


「まあ……、それでは婚約を解消なさったの?」

「そのようね。どうやら『婚約破棄を叩きつけてやった』と喧伝しているようだけれど。婿入り予定だったのでしょう? 躾不能の駄犬なのかしら」


 顎を上向かせ口元にカップを傾けるこの友人は、ただ紅茶を嗜んでいるだけなのに妙に色気がある。編込んだブリュネットの髪を片側から肩へ下ろしていて、その反対側では下品にならない程度の後れ毛が目の下の黒子へかかっていた。日頃から落ち着いているし立ち居振る舞いも上品なのだが、なぜだか常に色気が滲み出ている。


 アティリナは友人であるミリアーナの青い瞳を見つめた。いつもは大抵微笑んでいる彼女が今日は語気を強めている。


「イヴは心痛で倒れてしまったに違いないわ。その彼女がいない間に喧しく騒ぎ立てるだなんて、紳士として如何なものかしら」


 アティリナは昨日から休んでいるもう一人の友人を思い浮かべてそっと瞬きをした。昨日事情を知らないままお見舞いの手紙を送ったので、今日あたりには返事が届くかもしれない。恐らくミリアーナもそうだろう。それよりも早くに元凶の自慢話が耳に飛び込んで来たのだが。


 つまるところ、彼女達の友人のイヴェット・ロザリア・リシュリュー伯爵令嬢が、ダヴィド・ヤン・ルセル子爵令息との婚約を解消したのだと言う。ダヴィドは婿入り予定でしかも家格の差もある為、あまり気後れしないようにとイヴェットが何かと心を砕いていたのを知っている彼女達にしてみれば、今日のダヴィドの行動は眉を顰めるどころではない。


 アティリナは長く息を吸って、長い時間をかけて吐いた。緑色の目を伏せて、カップに沿えた手をじっと見る。グレーがかったベージュ色の髪が緩やかなウェーブを描いて背中で艶めいていた。腹ただしいのは自分も同じだ。特にここ最近のイヴェットは見ていられない程心を痛めていたのだから。


「……そうね。何か心を落ち着ける効果のあるお茶を送ろうかしら」


 とにかく今は、あの優しい心を癒してほしい。ポツリと呟くと、険しい顔をしていたミリアーナの顔がゆっくりゆっくり柔らかくなっていった。


「ええ、そうね。本当にそうだわ。……では私はよく眠れるという噂のお茶にしましょう」


 二人は顔を見合わせて静かに、少し悲しそうに笑った。どれだけやり切れなさで破裂しそうでも、友人のことを思いやった方がいいに決まっている。


「二人がかりでお茶を送ったら、イヴはお茶でお腹がいっぱいになってしまうわね」

「あら? それならお菓子もつけましょう」

「ふふっ。ミリィったら、ショコラを送るつもりでしょう?」

「勿論。彼女はショコラの妖精ですもの」


 イヴェットの笑顔を思い浮かべながら、今度こそ二人は穏やかな微笑みを浮かべてカップに口付けた。イヴェットは綺麗なブロンドにこぼれそうな灰色の瞳をしていて、平均的な女性の背よりも拳一つ分ほど小さい。背だけでなく手も口も耳も小さい印象で、存在が何とも可愛らしいのだ。そしてショコラが大好物である。つまりはショコラの妖精と言うことだ。


「でも、婚約を解消する方が出たと言うことは、今後続く可能性もあるわ。考え難いけれど、アティのところは大丈夫ですの? あの方もセネヴィル男爵令嬢と懇意にしていらっしゃるのではなくて?」


 心配そうに見つめてくる青い瞳に困ったように笑い返し、アティリナはのんびりと焼き菓子を口に運んだ。


 このフロイゼン王国では、ある程度の年齢になった貴族は学園で学ぶことが推奨されている。元々は男性しか学問が出来なかった門戸を、数代前の女王が女性にも開放したのが始まりである。ただ、貴族女性の労働は一般的でなく、雇用もなく、小賢しい女は煙たがられる風潮は今も続いており、学園では女性向けの教養科目と男性向けの講義とを別々に開講しているのが実情だ。


 男性であれば卒業単位や論文数が決められていて、規定を満たせば学位の授与もあるのだが、女性は二、三年好きな講義を聞けば義務を果たしたことになる。当然学位は与えられない。そんな彼女達が学ぶ教養科目は外国の語学と芸術学で、外国語を使用するお茶会や演劇鑑賞会が開かれることもある。実は高いレベルが求められるのだが、しっかり学んだとしても「小賢しい」と見做されない適度な科目を設定したところに、学園側の苦労が見て取れる。


 さて、学園では男性と女性とで講義は分けるが、施設の使用については全く分けていない。学園はあくま

で学園なので、貴族の社交場よりもマナーや決まりごとが緩いため、婚約者の決まっていない男女が歓談する光景はよく目に入る。


 しかし、半年程前から少し常識外れの集団が目につくようになった。集団の中心はエステル・シエラ・セネヴィル男爵令嬢で、学園に通い出すまでは病気で屋敷に籠っていたらしい。そのせいなのかはわからないが、学園内の女性達との交流が全く上手くいかず瞬く間に孤立してしまった。


 孤立だけなら常識外れとは言えない。彼女の何が眉を顰められているのかと言うと、例えば、何かにつけて悲鳴をあげて男性に抱き寄せられたりだとか、講義以外常に男性に囲まれた状態だとか、そういった慎みのなさが目につくのだ。あまつさえ、何かにつけて「きゃっ」とか「怖い」とか「酷い」だとか言ううえ、すぐにビクッと肩を震わせるので、一度誰かが「物音を立て続ければ追い払えるのではなくて? 悪霊払いの儀式と同じですわ」と清々しい笑顔で言い放ったとか。


 アティリナ達からは見えないが、きっと今も男性集団の中に女神のごとく座しているのだろう。ちなみに、件のイヴェットの元婚約者も集団の中の一人である。さらには、頻度は少ないがアティリナの婚約者の姿を見る日もある。


「レオナール様のお考えはわかりませんわ。セネヴィル男爵令嬢と同席されている姿は見ますけれど。立ち去らずに」


 ソツのない貴公子という言葉が似合い過ぎる己の婚約者を思い出しながら、アティリナは首を捻った。レオナール・デュラン・ラローシェ侯爵子息は彼女の3歳年上の婚約者で、見るからに知的そうな人物である。あと顔が良い。絵本から出て来た王子様のようだと言われている。


「まあ、それは一大事ではなくて?」

「ええ本当に。女性と同席する暇と情緒をお持ちだったの。なんだか人間のようで、少し親しみを持ちましたわ」


 言っている内容は酷いが、現実として、寄って来る女性をにこやかに躱す婚約者の姿しかアティリナの記憶にはない。さらに、常に穏やかな微笑みを湛えながらも目は笑わないし、その他何らかの感情が宿る気配すらないと来ている。全く、とことん、人間味を感じないのだ。

 現在、14歳で婚約が決まって3年程経つが、仲は良くも悪くもない。付き合いはずっと表面的で、お互い礼儀は欠かさないまでも必要最低限の会話のみである。まさに、よくある家同士の政略結婚の典型例と言える。

 ミリアーナは僅かに驚いたように瞬きをした。


「全然お話しなさらないの? アティとのお茶はとても楽しいのに」

「まあ、嬉しい。私もミリィとのお茶会が大好きですわ。そうね、レオナール様は無駄話はなさらない方みたい。だからとても楽をさせて頂いているの」


 アティリナは良くも悪くも田舎伯爵のご令嬢なので、婚約した当初はキラキラしい婚約者殿との時間をどう過ごせばいいのか不安だった。だがいざ会ってみるとレオナールはアティリナに対して想定範囲内の最小限の行動しか取らず、特に距離を近付けようともしないので淑女教育の教本に書かれた模範解答集をそのまま使っていれば事足りる。会話は基本的にやれ挨拶、天気の話、庭の話、お礼などなど。しかも双方それに不満を感じないようで、ある意味今の状態で安定してしまっていた。


 アティリナにとってこれほど楽なことはない。むしろ、自力で臨機応変に対処しなければならない方が大変だ。こちらは馬と戯れるのが好きなだけの田舎娘で、流行も煌びやかな趣味もないのだから。


「私と婚約した後も女性がとにかく寄って来ますもの。きっと女性と喋るのはうんざりなのね」


 レオナールは放っておいても女性が寄って来るタイプだ。顔が良い、頭も良い、家柄もいい、そして品行方正で女遊びをしない。夜会では女性を避ける為なのか男性とばかり会話している印象だったので、エステルを避けない様子は意外の一言に尽きる。だからきっと恋に違いない。あの婚約者にも実は若者らしい一面があったのだなぁと、アティリナは他人事のように考えている。


「もう、アティったらのんびりしているのね。あの方が愚かだとは思いませんけれど、婚約を解消するつもりが少しはあるかもしれませんでしょう?」


 ミリアーナが呆れたように溜息を吐いた。婚約者が表面的でしかないことを「楽で助かるわ」と喜んでいるこの友人は、ちょっとどころかかなりのほほんとしているのかもしれない。と言うか、婚約者への興味がゼロにも程がある。


「婚約の解消はそう珍しいことではありませんし、先方から申し出があれば受けるしかございませんわ。焦っても疲れるだけですもの」


 政略結婚は状況が変わればサッと解消されるものだ。間に強い情がない分だけ余計にあっけない。


「ただ、解消になるとラローシェ領の魚介や果物が安く回って来なくなりますわね。ディナーの品数が減ってしまうわ。それにうちの可愛い馬達の活躍の場が減ってしまうのは可哀想ね」


 毎日の食卓と自領の可愛い馬達に思いを馳せてアティリナは溜息を吐いた。

 メイルード伯爵領は馬や酪農が盛んで、特にメイルード産の馬は、温厚で山道も平気で力が強く骨も蹄も丈夫という、力仕事や農作業に適した馬だ。その一方で小型で足が遅い為、軍用には全く向かない。そんなわけで今まではメイルード領内でしか飼われていなかったのだが、ラローシェ侯爵の発案で陸路での運搬に使われ始め、ここ数年でかなり需要が増大した。一方ラローシェ侯爵領では港で交易、広大な土地で農業を盛んに行っているため、侯爵領としても良質な馬を入手出来るルートは是非とも確保したい。双方メリットのある婚約なのだ。


「もう、のんびりしているのね。ああ、でも、そうだわ。メイルード産のチーズも好評なのではなくて? ラローシェ侯爵領はワインが有名ですもの。例えば、チーズを人質に取ってはどう?」

「どうかしら。逆に魚介と果物を止めると脅されると手も足も出ませんわ。チーズとでは量が桁違いだもの」


 どうしても話が呑気な方向からより呑気な方向へ飛んで行ってしまう。家同士の事業だとか契約だとか難しい話は勿論あるが、アティリナにとってはむしろ食卓の品数の方が身近ではある。物や人が行き来するということは領内が潤うということだし、珍しい物が領内に広がることは生活が豊かになるということだ。どうせ生活するなら豊かで楽しい方がいいだろう。


「ねえ、アティ。こうなったら直接聞いてみてはどう? だって婚約者でしょう? お節介を言うようだけれど……。私、お友達が心配ですわ」


 そう言ってミリアーナは微笑んだ。とても同い年とは思えない色気である。

 ちなみにこのミリアーナも婿を取る予定で、こちらは領地経営をビシバシ教育している真っ最中らしい。彼女の婚約者も例のエステルの集団に危うく吸収されかけたものの、危ない雰囲気を感じて即逃げたのだとか。誰からの、どのような危険なのかが気になるところだ。


「ふふ。ありがとうミリィ。機会があれば聞いてみますわ。じきにシーズンですもの」


 議会シーズンになれば毎晩夜会が開かれる。婚約者ならエスコートするのは当然なので、会う機会は必ずあるだろう。もっとも、そこまで待たなくとも手紙だとか直接会いに行くだとか手段は色々とある筈なのだが、アティリナののんびりした頭からはすっぽり抜けているらしい。


「私のことよりもイヴですわ。この後ご都合は如何かしら? お菓子を見に行きましょうよ。せっかくの贈り物だもの。素敵なショコラを選びたいですわ」


 いつも通り朗らかに笑う友人に、ミリアーナは微笑み返した。

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