一章 2
不死とは。
読んで字の通り。この文字が読めるなら大方の人間がその意味を理解できるだろう、死にあらずというそのままの意。
神話に登場するような神や、物語の中では不老不死などは聞かない単語ではないだろう。霧坂の場合不老ではないので歳はとってしまうわけだが。
とはいえ、それを得ることが人生の命題になるような代物であることには違いない。
そんな神秘性と非道徳性が共住しているような概念を生まれながらにしてその身に宿している少年はきっと人生を謳歌している。
……といったことは全然なく。
「あぁ……。死にてぇ」
命の尊さも何も蹴り飛ばすような言葉が少年の口から洩れる。
目覚めたてのぼやけた目に映る携帯端末の時計は何度見ても〈15:25〉で、それは指定された時間からは既に二時間以上経過してしまっていること示していた。
寝起きの頭にも即効に理解できる。静かにただ雄弁に自分が遅刻したことを示す端末をとりあえず枕元に戻して一度、深呼吸にも似た深いため息を零す。
人間こうなっては最早焦りすら湧いてこない。
起き抜けから圧倒的憂鬱を抱えることになった霧坂弘は気怠い体を起こし一応壁掛けのアナログ時計も確認したが分かったのは二分ほどのズレがあることだけだった。
「なんであの時間で了解したんだ昨日の俺は……」
だれに聞こえる訳でもない愚痴を零して霧坂の一日はスタートした。
「――今からでも一応向かうか? マジで報酬取り上げるからなアイツ……」
経験者は語る。アイツと呼んだのは取引先の相手の訳だが、この相手との待ち合わせへの遅刻が一度や二度ではないことは追記するまでもないだろう。
冷房を点けるかどうか迷う、そんな絶妙な気温の初夏の昼下がり。ムワっと纏わりつくような湿気が不快指数を底上げしていくマンションの一室、霧坂は決起したようにベッドから腰を上げる。
一般的に学生ならばもうそろそろ忌々しい授業からの解放が望まれる時間帯に悠々と顔を洗い、寝間着から着替える霧坂も生まれてこの方十七年。普通ならば学生よろしく黒板とにらめっこでもしていなければならない年齢である。
しかし、寝汗をタオルで軽くふき取って袖を通したのは学生服でもなければ今から向かうのは学び舎などでもない。昨夜の大捕り物、角の生えた侵入者『第二人類』を捕縛したその報酬の受け取りと諸々の報告等。
着慣れたシャツとジーンズに着替え準備完了した霧坂がもう一度携帯端末に目を落としたのと同時、軽快な音楽と微振動を以って着信を告げる。
反射的に手を伸ばし、通話に応じようとした体は表示された名前を見てフリーズ。そのまま着信が切れるまでの放置プレイに至った。
「……よく見たらむちゃくちゃ着信来てるじゃん。ホントどうすんのこれ……」
発信者はもちろんのごとく件の報告相手。見ればメッセージも数十件届いているので目を通してみたがパッと映る画面の分だけで十二分な怒りが伝わって来たので霧坂はスクロールしようとしていた手を止めた。
報告相手といっても相手は言ってしまえば取引先であり、お堅い物言いになるがこれが適切であろう。
霧坂が暮らす『トウキョウ』は『極東支部』の中心に当たる都市であり支部内の人間の半分近くが居を構えており、もちろんその中に角を生やした者などいない。
それもそのはず。この街を含む『極東支部』とは、人類が第二人類から奪還した元日本領地であるから。種としての敗北を喫した人類が取り戻したほぼ関東一帯をそう呼称するこの土地には第二人類の侵入など言語道断であり、その目的など詳しいことは知らないが度々侵入する彼らを野放しになどしない。
それくらいの確執が霧坂たち『人類』と角の生えた種族『第二人類』との間には存在している。
許可なく領地に踏み入ったそれらを可及的速やかに捕縛する、一応「なんでも屋」で通っている。それが霧坂の生業である。
着信相手はその仕事を霧坂へと斡旋してくれる人物であり、お得意様と言った相手なのである。
「うわ、まだ着信来てる……。――もう電源切っとこ」
鳴りやまない携帯電話に少々の狂気染みたモノを感じつつ遂に電源を落とした。ブラックアウトした携帯をポケットにしまい急ぐ。
「悪いのは俺だよ、分かってる。けどやっぱり時間がはえーんだよなぁ……」
子供の様な言い訳だと分かっていながらも口にせずにはいられない。
本来ならばこの報告もその日のうちに終わらせておくものなのだが昨晩の捕り物を終えた後強烈な睡魔に苛まれた霧坂はものの見事にその誘惑に敗北。
そのまま依頼主に引き渡してその旨を話したところ「報告は13時にまたここで」と。この言葉に生返事で応答してしまうという十割霧坂が悪い事の顛末がこれである。
これでごねても仕方ないと分かっているのでこうして素直に向かおうとしているのだ、電話には決して応答しないのだが。
鋼の意思で着信拒否を決め込んで向かう目的地はここから歩いて十数分の、近場と言えば近場。というかその取引相手との関係上霧坂が引っ越したのだが。
霧坂はその行き先を告げる相手のいない部屋から出て渋々、足を向かわせるのであった。
* * *
足取りは重く、同じく気分は沈んで、一日の役目を終え傾いていく太陽にこのまま焼き尽くして欲しいと懇願するくらいには極めて鬱な心情でビル群を往く。
近場とは言えど外はそれなりの気温、歩くのを嫌う人種ならば公共交通機関でも利用も一考の余地に入る距離だ。汗が染み出し衣服が張り付き始めた嫌な感覚もある。まだ家を出て数分程度でこのザマだ、これからの夏が嫌になる。
とはいえ今霧坂の頭の中ではそんな事は些末な事で、
「なんなんだ、アイツ……」
先ほどから視界の端に映る、霧坂の後を付けるように真っ黒に塗りつぶしたてるてる坊主が歩いている。
……というのはもちろん比喩。その正体はてっぺんからつま先まで黒色でコーディネイトされた人影だった。
その体をまるごと包み込むような明らかにサイズ違いの黒い外套。全身黒、は若干嘘。どうやら頭部の布と胴体の布は別々なようでその隙間から淡い蒼色が尾を引くように伸びていた。
歳、や顔立ちどころか最早性別すらも読み取れない。髪は相当長く腰辺りまで伸びているので女の子だろうか? ぐらいの予想がせいぜい。
もちろん、このどこか宗教観バリバリの存在が『どちらか』も分からない。
ともかくこの漆黒の服装に流麗な蒼。なんとも言えないその配色に懐疑の心はどうしても向いてしまうわけで。
キョロキョロ、と周囲を見渡すサマを見るとますます不信感が高まっていく。
「(なんだろう、この私は怪しい者です。って自己主張されている感じは……!)」
木を隠すなら森の中とはよく言った言葉で。
今日に至って上を見上げれば華麗に、とは言わないが空を移動する者もいる。
街を見渡せば物珍しい自分の『要因』の力で芸をして生活費を稼いでいるような人間もいる。そんななんでもありのような世界で己の素性を隠すように歩いているのは逆に怪しいのだ。
つまりここまで何もかも隠している隣にいる存在は異端そのものなのである。
そんな明らかな不審人物は親に付いていくカルガモの子供のようにどこか不安を煽るような足取りで霧坂の後を付いてきていた。
職業柄と言うべきか、ある種社会の黒い部分に足を突っ込んでいる身分である。後をつけられる経験がない訳ではないし、何かしら恨みを持たれていてもおかしな話ではないとも思う。
いつ何時背中を刺されようと理不尽だとは思わないように生きている、むしろ理不尽だと感じるのは大概相手側な訳だが。とはいえそんな相手がコレだとしたら拍子抜けもいいところだ。
後ろに目を向けると相変わらずさらさらと蒼の長髪を揺らしてぎこちなく歩いている。
とはいえこのように度々視線を向けている訳だが隠れる素振りどころか気にもしていない節すらある。刺客の類ではないのかもしれない。
ならあの不気味な存在はなんなのか? 思考を巡らせる霧坂が戻した目にはたった今赤に変わった信号機。
「っと、危ね……」
たたらを踏むように少し体をよろつかせてブレーキを利かせる。幸いというかこの微妙な時間帯も相まってか車通りほぼなくそのまま進んでいてもなんともなかったと言えば底までなのだが。
そんな交通ルールをギリギリのところで守れた少年の横からひょっこり、と全身黒づくめのなんとも怪しい人物が現れる。
相変わらず怪し気に周囲を見渡している。
髪の色も国産とは思えないモノだ、海外の支部から旅行者か何かだろうか? それならばこの挙動不審振りにも一応納得がいく。
こじつけではあるがとりあえず外人さんということで隣の怪しげな存在に納得したところでもう一度目を向けると、
「………………」
「うっ……」
思わず声が漏れる。
深く覆ったフードで確実ではないが恐らく目が合った。慌てて目を逸らすがお相手の視線は未だブレない。
互いに見合ってから数瞬、黒衣の人物は凝視をするのを止め歩みを再開した。
もちろん、信号機の色は変わってなどいない。しかし前方の赤信号が危険を告げるのを無視して道路へとゆっくりな歩みを進める。
「おい、アンタ今は――」
――赤だぞ。とその人影に教えようとした言葉の続きは出なかった。
不幸にも今日の道路は空いていた。ここまで待ってようやくトラックが一台しか来ない程度には。
どうせならそれすらも来なければよかったのに、向かってくる無骨な鉄の塊は猛スピードで駆けていた。唐突に目の前に人が飛び出してくるなんて運転手も思いもしなかっただろう。耳をつんざくような警告音が交差点に響き渡る。
もしかすれば余計なお世話かもしれない。
目の前の不審者は何かしらこの窮地から無事に生還できる『要因』を保持しているのかもしれないし、身を投げたくなる諸事情があったのかもしれない。
――けれど。
足は、その四肢は勝手に動いていた。
霧坂の左手はトラックと向き合う黒衣を掴む。
今、どんな表情をしているののだろうか? そんな事はフードに覆われ定かではない。が、左手で握った布越しの腕の感触にどこか安堵したのを覚えている。
銀の鉄塊が目前まで迫る咄嗟の中、霧坂の伸ばした手は目の前の黒い外套を思い切り引き寄せた。
そうして入れ替わるようにしてトラックの前に召喚された霧坂は握った手の先へと目を向ける、すると深く被って覆っていた頭部の布はその勢いでまくれ上がった。
覗いたのは、少女の顔と背景の黒にも映える爽やかな空色。吸い込まれるように深い海のような群青の瞳。
そして。
二つの、龍のような角だった。