第71話 お節料理のあいつ
今日も今日とて、熊おっさんの欲望を振り切ってなんとか前に進めた。本当に研究熱心なのは良いけど、研究バカのきらいがあるので困る。
市場は今日も鮮やかな色彩に包まれている。真夏の実りの季節。屋台の棚は、色取り取りの野菜で満たされ、見ている私もワクワクしてくる。見た事のある野菜もあれば、見た事も無い野菜もある。
母に色々教わりながら歩いていると、ふと香る懐かしい匂い。それは、諦めていた郷愁の香り。
「あれ? うみのかおりがする……」
くんくんと目を瞑り、匂いに誘われて歩いていくと、極彩色の中、モノクロームの屋台に行き当る。
「おぉおぉ、いらっしゃ……なんだい、子供かい……」
元気のない店主の気の無い言葉は私の耳を素通りしていた。強烈な潮の香り、海の産物。見開いた瞳からは、ぽろぽろと涙が勝手に零れる。
「ぼうだら……。いや、これは……ばかりゃうだ」
塩をして、干して乾燥させた鱈の開き。懐かしさのあまり呆然と手を伸ばすと、店主の叱責が飛ぶ。むー、感動の再会に無粋なと眺めると、随分と毛色の違う格好をしている。真夏の盛りと言うのに、毛皮の多めな上着。何より、刺繍なんて殆ど入っていない、生成りの服が浮いていた。
「あらあら、ティーダ……。って、ティーダ。こっちにいらっしゃい」
ふらふらとはぐれた私を見つけた母が、にこやかにこちらを手招きする。表情も口調もいつも通りだが、私には分かる。何だか慌ててる?
てくてくと母の元に戻ると、他の屋台の隅に引き込まれ、そっと耳打ちされる。
「あれは、海の魚よ。美味しくないのよ」
その言葉に、驚天動地を感じ、見開いた目を母に向けてしまう。
「うみはちかいの?」
「遥か北の方から交易に来ているって言っているわね。毎年、冬に獲った魚を夏に持ってくるの。最高級品なんて言っているけど、生臭いし、寝ぼけた味だし、煮ても焼いても美味しくないの」
その言葉に、ぽんと手を叩く。それ、戻し方と、調理方法が間違っている。しかも、冬の脂がのった北国の鱈を干した物が半年で熟成されて食べ頃の最高級品だ。うわぁ、食べたい。
「てんいんさん、げんきないの」
「この市場では、詐欺ってばれているから。あんなに美味しくない魚を買わなくても、川で幾らでも獲れるもの」
「あぁ、それできげんがわるいんだ……。ねだんはたかいの?」
「交易品と考えると、かなり安いわ。中継基地を幾つか作って、それを卸してきているそうね。遊牧の人達は、魚が恋しい時にそのまま焼いて食べるそうよ。塩辛くて、お酒が無いと食べられないから、酒盗みなんて呼ばれているわ」
あぁ、そのままジャーキーみたいに炙って食べているのか……。塩分過多で死んじゃいそうだけど、良い事を聞いた。
「あれのたべかた、おかねになる?」
私が可愛らしく首を傾けると、母が胡乱な表情を浮かべる。
「もう……。ティーダは好きね。茄子の時もそうだったものね。良いわ、買ってあげる」
こういう時に優しい母がしょうがないなという表情で、店主に交渉に向かう。結果として、思った以上に安価に立派なバカリャウ一尾がゲット出来た。
「てきとうなおおきさにきって、まみずでもどすの。みっかみばんくらいで、みがもどるの」
その言葉に、母が首を傾げる。
「そのくらいだと、まだ触った感じ硬いわよ? それに生臭いわ」
「みずはあさゆうにかえるの。あくぬきとしおをとばすの」
母がその言葉に若干疑いの色を浮かべながら、金づちで砕いたバカリャウを甕に浸ける。私はきらきらした瞳で、そっと甕を覗き込む。すぅっと息を吸い込むと、ほのかに香る、潮の香り。
「あ、すずしいばしょでほかんするの」
布で蓋をした甕は、居間の風当たりの良い、陰に置かれた。
「またティーダが何かしているのかい?」
父が夕飯の時に、見慣れない甕を見つけて、聞いて来たが、母と目を合わせて、にこりと微笑む。
「ないしょ」
二人で声を合わせてみた。
「てぃーだ、くちゃい!!」
「おちゃかな、くちゃってる!!」
いつも通り庭で遊んでいると、フェリルとジェシが鼻を摘まんで、ててーっと後ずさる。くんくんと嗅いでみるが、鼻が馬鹿になっているのか匂いが分からない。確かに、海に慣れていない人間にしてみれば、潮の香りは異質かなと。偶には仕返ししようかなとにこっと微笑み、ばぁっと接近すると、二人に怒られた。もう、理不尽な。
ちなみに、ラーシーは凄く気になるのか、家の中にいる時は甕の周りでクンクンしている姿をよく見かけるようになった。
適度な弾力を持ったバカリャウは瑞々しい身をてらてら輝かせている。だけど、母は若干嫌そうな顔だ。
「まだ生臭いわ……」
臭いが消えるまで戻すから、塩気も旨みも抜けて、ボケた味になるんだろうな。
「ちょうりしたら、においはきにならないよ」
と言う訳で、最後に果実酒で漬け込んだ柔らかで脂ののった身を手で毟っていく。じゃが芋は無いので、よく使われているタロイモみたいなねっとりしているけど香りの弱い芋を茹でて、崩していく。たっぷりの戻したバカリャウと芋に塩と香草、卵を加えてよく混ぜる。
「このくらいのおおきさにまるめて」
ぎゅっと握りこぶしを作り、小判くらいの大きさにまるめてもらい、小麦粉を塗していく。最後に、たっぷりの椿油に投入する。植物油由来の爽やかな香りの中に、海産物が熱せられる時独特の香ばしい香りが立ち込め始める。
「あら……美味しそうな匂いね」
母のお腹の辺りから、くぅっという音が響いたのを聞き逃さなかった。きつね色よりちょっと濃い目に色付いたら完成と言う事で、藁の上に置いていく。
お皿に野菜を盛り付け、油を切った小判をバランスよく乗せたら完成だ。
夕飯の皿の上に乗った、茶色い丸い物を見て、父が首を傾げる。
「見慣れない物だね……。またティーダかい?」
ふふふと、二人で微笑んでいると、諦めたように父が二又のフォークで刺して、はむっと頬張る。と、はふはふ湯気を盛大に出しながら噛んでいたが、表情が明るいものに変わる。
「これは……。魚なのかな。でも、塩味と香りが良い。あぁ、お酒が飲みたいかな。ティン、お願いしても良い?」
父の言葉に、母が呆れた表情を浮かべながらも、そっと立つ。
「珍しいわね。ディーが家で晩酌なんて」
少しだけ嬉しそうに母が、カップを二人分置くと、そっと杯を傾け合う。
「あ、やっぱりだ。この香りが酒に合うね。うわぁ、勝手に手が伸びちゃうよ」
そこそこの量を作ったが、肉体労働慣れしている成人男性が本気を出して食べ始めたら、敵わない。急いで、母と一緒に、手を伸ばす。
「あら、本当……。生臭くないわ……。それに、この身の部分の脂の甘さと塩の感覚が良いわね……」
母も絶賛だ。
私もはくりと口に放り込む。まず外側の直接熱が通った部分はさくっと、そこを抜けるとねっちりした歯応えが通る。ほっこりとねっちりの共存した歯応えの中に、柔らかな異物が潜んでおり、それに歯が触れた瞬間、瑞々しい魚の脂が旨みと一緒に流れ出し、芋と合わさって得も言われぬ食感に変化する。熱の通った生臭さは、香草の香りの後ろで荒々しいベースのように味の旋律の土台となりながらも、演奏そのものをしっかりと支えてくれる。その堅牢な土台の上に、塩味と甘みのコラボレーションが確立する。慌てて、三人で熱々を貪る。上顎が火傷するなんて気にしていられない。
懲りない私達は、茄子の時の同じように、皿が空になると、放心したように寛ぐ。
「結局、あれは何だったんだい? なんだか最近部屋が生臭かったけど」
父の言葉に母が笑いながら答えを告げる。
「酒盗みよ。美味しかったでしょ?」
その言葉に、父が驚愕の表情を浮かべる。
「あの剣みたいな硬さの魚かい? 偶に外で珍味だって出されるけど、塩辛いし、生臭いし、美味しいものではなかったけれど……」
とそこまで告げて、私の方を向く。
「ティーダ……?」
「あい!!」
父の視線を受けて、元気よく返事をする。
「これをどうしたいんだい?」
「あぶらをつかうから、いちばのやたいでだすほうがいいの。きょうきゅうがてっていしているようだから、あんかにうみのさかなをおいしくたべられるの」
私が告げると、言葉を吟味した父が苦笑を浮かべる。
「そうか……。北との関係を良くすると言う訳か……。そこまで気にしなくて良いんだよ?」
父が優し気に告げるが、私の思惑は違う。北の海、海の幸、雲丹、蟹、イクラ!! 美味しい海産物を食べたいのだ!!
後日、父が主導で、兵のお店と言う事でバカリャウコロッケを出してみたが、これが大ヒット。珍しい美味しい物と言う事で、村の人間にも受け入れられたが、特に村に訪問していた商人達がこぞってレシピを求めてくる事態になった。だが、教えないがな。
バカリャウのお店の主人も、毎日舞い込む大口の注文に涙ながらに狂喜乱舞していた。実際に実物を食べると、感動で涙が止まらなかったようだ。どうも、故郷でもこんな感じで食べる事は無く、話の種が出来たと喜んでいた。
結局兵が直接儲けられる手段が出来たと言う事で、若干軍事維持費の方が楽になり、村の財政そのものも上向きに変化した。こういった小さな積み重ねで、経済を刺激していく方が性に合っているなと、今回の顛末を振り返ってみる。
ただ、全然気づかなかった。今回のレシピがあんな関係を産むなんて事は。それはまた、もう少し先のお話。今は取り敢えず、バカリャウ美味しい。海最高!!




