第124話 酒宴
体に染みついた死臭を落とすため、薬草を溶いたお湯で体を清める。ダーダーも遠征という事で長く湯も使えておらず、豪快に頭から桶に浸けていた。
「ぷはぁ。いやぁ、爽快、爽快。湯を使えるのは本当にありがたい」
旅塵を払うというには些か風情に欠けるのは、人となりなのだなぁと苦笑しながらごしごしと体と頭を洗う。くんくんと嗅いでみて、独特の臭いが無くなったのを確認し、ざぱりと桶を傾ける。
「さっぱりとした。しかし豊かな村だな」
ダーダーが目を細め草原に沈みゆく太陽の最後の一筋に照らされている村を眺める。秋のつるべ落としの中、ふわりと陽光が消えた瞬間、秋特有の寒風がふぅるりと首元を冷やす。
「軍務、お風邪を召しますよ?」
望郷とも取れぬ眼差しで村を眺めていたダーダーを父が諭す。魂が返ってきたような表情を見せ、破顔すると大きく口を開く。
「いやぁ、重畳、重畳。屋根のある場所で眠れるだけでもありがたいが、このような接待を受けられるとはな。立派になったものだ」
湯一つでと思ったが、それは私が生まれてからの話だ。祖父の、父の時代を知っている人にとって見れば訪問客に湯すら持成せない時代があったのを記憶しているのだろう。
少しだけ誇らしい顔で父が微笑み、家へと向かう。
「おぉ、久しいなティン。それに殿下も立派になられて」
にこりと笑みを浮かべながら皿を運ぶ母と、口を曲げながら頬を染めるヴェーチー。
「ダーダー卿、殿下はお止め下さい。ここではただのヴェーチーです」
「ほぉ、あのお転婆が。男子は見ぬ間に大きくなるものだが、女子も然りか。はは、重畳」
呵々大笑しながらどかりと胡坐を組むダーダー。その杯にとろりと注がれる透明な酒。
「これが例の酒か。ワインとも違うという。随分と強い酒と聞いたが、主上が下賜を嫌がる。そこまでの酒なのか?」
憧れをその相貌に浮かべ、杯を覗き込むダーダー。
「生のままでは、少し飲みにくいですが。まずは味見と」
父が同じように杯に注ぎ、両手を添えて高らかに掲げる。
「軍務卿のご行幸感謝致します」
軍事の司令官は、有事において王の代理人になるので、宴においては最上礼となる。私達は父の後ろに畏まり、座屈する。
「構わぬ。今日は無礼で頼む。何よりの馳走、感謝する」
ダーダーの言葉で宴が始まった。
くいと杯を傾け合い、父とダーダーが乾す。と、目を見開き、次の瞬間けほんけほんと咳き込むダーダー。
「うぉほん……。これは、きつい。喉が、臓腑が焼かれるかと思うた。しかし」
破顔し、何度も頷く。
「美味い。かっかと興奮が胃の淵より上がってくるようで、心が猛る!!」
と叫ぶと、ぐぃと杯を差し出してくる。正直、ニューポットは煙臭いだけの味の無い酒だ。美味い不味いの話以前の筈なのだが、どの時代も男はアルコールに魅了されるものだなと。
「少し味を調えましょう」
父が秋成りのスモモの汁を杯に投じ、果肉を皿に並べ差し出す。それを興味深そうに眺めていたダーダーがスモモの果実をひょいと抓み、口に含む。
「ふむ。強い酸味に、程よい甘み。何とも秋の風情を感じるな」
そう言いながら、杯を傾けると、訝し気な表情を浮かべて黙り込む。と、ふんすふんすと鼻で息をしたと思うと、晴れ晴れした表情を浮かべた。
「これは見事。果実の味ともまた違う。酒精の香りと相まって、何とも玄妙な。ふむ、珍奇」
杯を扇ぎ、くんくんと嗅ぎながらにこにこと微笑むダーダー。
「ふぅむぅ。何とも面白い。酒にした果実とは全く違う。鮮烈な香り。なのに酒精は臓腑に広がる。なんとも、このような境地があるとはな」
「酒だけでは始まりますまい。肴も楽しみ下さい」
父の言葉に、我に返ったようにダーダーがひょいと燻製の川魚を抓む。そこそこ大きなアマゴに似た香りの強い赤身の魚なのだが、ダーダーが抓むと小魚のように見えてくる。
「これよ、これ。王都に入る黄金魚は城でしか味わえぬと、城下は嘆いておるわ」
「おうごんぎょ?」
聞きなれない言葉に私は首を傾げる。
「然り。この色合い、黄金のようだというので城下では黄金魚と呼ばれておる。味も値も黄金よ」
呵々と笑うダーダーの言葉に、笑顔の口の端が引き攣る。燻製する事により茶味がかった色が着くが、それを指して黄金とは……。それに結構な量を出荷しているはずなんだけど、王都までは中々行き届かないかと改めて思う。
ダーダーがはむりと豪快に歯で身を毟り、咀嚼する。
「おぉ、これよ、これこれ。この地に来たからにはと飢えておった。この香り、この味わい。濃いよなぁ」
上機嫌で骨までしゃぶっては、杯を空ける。
おもてなしという事で、料理は多めに作っていたはずだが、見る見る内に父とダーダーの胃に収まっていくのは驚きを通り越して、笑えてくる。
「さて、ティーダの考えた鍋です」
母が、くつくつと音を立てた鍋をテーブルに置く。蓋を開けた瞬間、もうもうと上がる湯気と共に何とも甘みがかった胃をくすぐる出汁の香りが部屋に立ち込める。
「これよ、これ。この香りだ。館に入ってより香っておった、この香り。ようやく会えたわ」
母がよそった器を受け取り、すぅぅっと瞑目し、顔を揺すりながらいと馨しいといった表情を浮かべるダーダー。
「馬の首の肉と菜物を炊いた鍋です。お口に合えば良いですが」
「ほぉ、それはそれは。中々食べられぬもの。いざ」
水菜に似た植物と馬のタテガミ、それと細切りにしたネックを馬の骨で煮だしたスープで炊いた鍋。馬のハリハリ鍋と言ったところだろうか。
はむりと、水菜とタテガミを匙で掬い、口にしたダーダーが目を見開き黙り込む。静かな咀嚼が続き、嚥下と同時にほぅと熱い溜息を吐く。
「いかがでしょう? おくちにあいませんでしたか?」
美味しいと確信して出してみたが、今までの上機嫌と打って変わって、武将みたいなオーラを出して黙り込むダーダーを見て、ちょっとドキドキして口を挟んでしまう。
と、手を差し出し口を開かず、そのまま生のニューポットを口に含み、しみじみと天井を見つめるダーダー。
「ほぉ……。快楽……。いや、宮上に昇って幾年。付き合いもあって料理は堪能してきたつもりだ」
そう告げると、ぼろりぼろりと頬を伝うものが見えて、呆気に取られる。ダーダーのその両の眼からは滝のような涙が流れていた。
「斯様に優しく、繊細で、それでいて美味いものは無かった。武骨故、言葉にも出来ん。ただただ、有り難いな」
深々とした独白を私達は顔を見合わせながらどうしたら良いんだと思いながら聞く。
「相変わらず、涙もろい。激情家は変わりませぬな」
父が男臭い笑みを浮かべて言うと、くくと苦笑を浮かべるダーダー。
「ぬかせ。この武辺が死ぬまでにどれほどのものを味わえようか。況や明日死んでも良いと思えるほどの味にありつける事など夢にも思わぬ。ほんに良い子を持ったな、ディー」
にこやかに語るダーダーに場が和み、ご相伴という事で私達も食事を始める事になった。
母にハリハリ鍋を器についでもらい、そっと受け取る。立ち上る香気。あっさりとしながらも、どこか甘い香りは、牛とも豚とも鶏とも違う。
くいっと器を傾け、出汁を楽しむ。上品な馬の脂が適度に溶け出した出汁は臭みをうまく包み込み、あっさりとしながらもコクのある上品な香りを放逸に発している。
まずはタテガミを口に含む。とろりとしたゼラチン質が熱を加えられゆるりと緩み、舌に乗った瞬間どこまでも溶け出していきそうな広がりを見せる。舌に広がるのは圧倒的な甘さ。蜜を思わせるほどに粘度を感じさせる甘みの奥底から、品の良い脂の香りがもたげてきて鼻を抜ける。咀嚼と言う概念すらも忘れ、つるりと喉に流し込んでしまう。
はふはふと胃の熱さを感じながら、ネックを口に含む。筋肉質な肉はこりっとした歯応えを感じさせたと思うと、濃厚な肉汁を吐き出す。臭みを感じさせないただただ肉の旨味が凝縮された汁。それが脂が融けた出汁と共に口に広がり、得も言われぬ玄妙な味わいに変化する。
ほぉっと溜息を吐きながら、水菜を含めた三種を同時に食べる。はむりと歯を通した瞬間のはりはりとした繊維質を千切る触感が口の様相を変えてくれる。なによりも噛んだ瞬間に広がる辛みを含んだ緑の香気が鼻を抜ける鮮烈さ。やや甘みにだれた口をきりりと引き締めてくれる。脂が覆った舌を擽り、露わになった味蕾を再びタテガミのゼラチンと脂が揺蕩うように攻め立てる。甘みと旨味のハーモニーの中に、こりりとした肉を噛む充足感。そして弾ける肉汁。三味が一体となり、出汁に混然と広がり、一つの極致を見せた。
「何よりの馳走、感謝の至り」
ダーダーの言葉に、家族揃ってほぉっと溜息を吐きながら和やかな酒宴は進み、ゆったりとした夜は更けていった。




