第1話 拉致監禁かと思ったけど、違う何かだった
気付くと、四肢の感覚が無い。目も開けられない。周囲の音もはっきりと聞こえない。呼吸をしている感覚も無い。頭の中は恐怖で満たされ、パニックに近い状況に追い込まれる。
荒木晋、今年五十歳。同い年の妻と、今年大学を卒業する娘、そして大学に入学する息子、二児の父だ。パニックに抗うべく、自分自身を思い起こしていく。娘の就職決定パーティと言う事で、三人は今晩食事に行くと言う事になっていたはずだ。
私は……仕事が忙しいという理由で不参加だった。いや、そもそも誘われてもいない。娘の思春期辺りから子供達へのアプローチが分からなくなり妻に任せきりだった……。結果は家に居場所がなくなった。五十の誕生日だというのに、この体たらくだ。それでも、妻を、子供達を愛している。無事に戻らなければ……。
そう思いながら四肢に力を籠めると、感覚が無いと思っていた四肢が僅かに動く。身動ぎをした程度だと思うが、格段の進歩だ。私の手足は存在するのか?
両手両足から返ってくる淡い感覚では、何か柔らかな壁に触れている。目を見開き周囲を確認したいが、瞼が重くとてもではないが開かない。大丈夫、きっと帰る事が出来る。そう念じて心を落ち着けていると、何か楽器……太鼓のような音が周囲に響いているのが分かる。
どん……どん……どん……と。遠く、微かに感じる音と振動。
ふと懐かしいものを感じ、力を抜き、そっと耳を澄ますと、はっきりと伝わる温もりと……鼓動。そう、この響きは鼓動。心臓の力強い、鼓動。耳の中に直接伝わってくる、響きと揺動。これは、魂の音。母なる大地の律動。そんな事を考えていると、揺蕩うように意識は霧散し、眠りの淵に落ちていった。
どれ程の時間が経ったのだろう。抵抗を諦め、ただ筋力の衰えへの恐怖に煽られて四肢だけは動く範囲で動かしていた日々は。
一つだけわかった事は、四肢を動かしていると何か膜のような物を隔てて、大きな存在が全身を撫でるような雰囲気を感じる事があるのだ。いつもいつもではない。時折感じるこの感覚は、恐怖を誘うというよりも、何か安心を与えてくれる。心配しなくても良い、そんなメッセージを帯びているような温かな感覚だった。
状況が動くまでと大人しくしようと思っていたが、どうもこの時に至って周囲の様子がおかしい。いつもなら変わる事の無い鼓動の律動が早くなり、周囲の柔らかい壁は不規則な伸縮を繰り返している。
その時になって恐怖が再燃する。映画で見た、捕食のシーン。地球外生命体に繭のような物に包まれ、食べられる。そんなイメージが思い浮かびパニックの兆候が表れる。妄想だ、思い込みだ、そう断じる心の声もあるが、五感はほぼ失われ、微かな感覚だけで周囲を認識している状況では幾ら杖家の男子とはいえ、恐怖に戦く。
足元がきゅうと締め付けられ、頭が細いチューブのような物に押し出されようとしていると感じた瞬間、恐怖が頂点に達した。このままでは咀嚼される。逃げる方法を講じなければ。
そう思った時だった……。開かない瞼を通して、届く暖かな光。焦りに満ちていた心は静かに落ち着き、四肢は自然と丸く収まる。このまま流れに身を任せても大丈夫だ。沸き上がってくる不安を押し殺し、状況をそのまま受け止めようとする思いが打ち勝つ。
ぎゅうぎゅうと締め付けられながら、じりじりとチューブの中を進む。いつまでこの苦しみは続くのか。それだけが頭の中に満ちた時だった。ずるりとチューブから解放される。その瞬間、瞼に突き刺さる強い明かり。
恐怖に身を縮こまらせ、次に何が来るのかと備えていると、くるりと体をひっくり返される。倒立の姿勢で足を掴まれているようなのだが、どうにもはっきりしない。記憶より大分短い。
だが、そんな呑気な事を考えていられたのは刹那であった。胃から登ってくる液体が鼻を口を目を耳を圧迫する。あまりの苦しみに大きく口を開いた瞬間、でれでれと温かな液体が口や鼻から流れ出る。
その時気付いた。私はどうやって呼吸をしていたのか。力の限りに肺を膨らませると、冷たい懐かしい空気の匂い。ただ身近にあったそれを感じた瞬間、心が決壊した。大の大人が泣くなんて。そんな事を考える余裕もない。辺りを把握するなんて考えられず、力の限りに嗚咽を吐き出した。
「おぎゃぁ!! おぎゃ、おぎゃ、おぎゃぁぁぁ!!」
あれ? 赤ちゃんの声が聞こえる。そんな事を感じながら力尽きるように意識が深い眠りへと導かれていった。