8 迎えに来た男
まったく何のこだわりもなくかごに放り込んでいるようで、何か計算があるらしい。シンヤの買い物はそういう形だった。
数々の食材の間を通って引き返すことがない。かなり合理的能率的だ。
食事に関しては彼に一任しているというトワは、にこにこしながらついてきてときどき立ち止まっては余計なものを手に取って知らぬ間にかごに入れている。
当然といえば当然のことだが、拳銃を持っている『何でも屋』でもお腹は空く。ものを食べる。
ハードボイルドのヒーローだとしても、自動車の教習所で教官に怒られた経験がなければ街中でジェイターンを決めることは出来ないし、むせて咳きこんだ経験がなければ煙草は吸えない。
そんな当たり前のことをスーパーマーケットで発見してしまう。
かなり、昨日からの非日常に精神が侵されていたことにこの時私は初めて気付いた。
自分が思っているより参っているのかもしれない、この新たな状況に。
「コトコ、あんたはなに食べたいの?」
その声色に、近くにいた主婦一段がぎょっとしたようにこちらをふり返っていた。
同じトウキョウでも、ここは盛り場ではない。最近新しい高層マンションが立ち並んだばかりの新興住宅街だ。
自分が平均的中流階級、あるいはそれよりも少し上だと思っている古風な家庭人ばかりの場所で、シンヤの話し方は火星人が日本語を話した時と同じ位の驚異であったに違いない。いや、そこまで言うとかなり誇張か。
まったく動じた様子のないシンヤとトワは、私の答えを期待していた。
食べたいもの、考えたことがなかった。
「嫌いなものとか、特にない?」
「多分、ないと思う」
「今夜は刺し身よ」
「あ……、」
私が声を上げると、トワが少しだけ反応した。
「刺し身は、……多分嫌い、だと思う」
「生ものはだめなのね?」
トワが優しく確認するように言った。
うなづく。
「そっ。じゃぁ、煮魚に変更」
シンヤが明るく言った。
この変更に対しても彼はきわめて合理的にことを運び、結局買い物といっても十五分足らずの時間でしかなかった。
彼の天性の才能なのだろう。決断は驚くほど早く、柔軟性があった。
トワの運転する車でマンションについたのは、出かけてから三十分も経ってはいなかっただろう。仕事中ということを考えれば、彼らは本当にプロだ。
買い物袋三つ分の荷物を抱えてマンションの玄関に入る。
マンション一階の玄関先で部屋番号を入力して鍵をさしこむ。そうして初めてマンション内に入れる。賃貸マンションにしてはセキュリティー管理がきっちりしていた。
私達が玄関を開けて中に入ろうとすると、後ろからひとりの男が駆け込んできた。
「あぁっ、ちょっと待ってくださいっ」
スーツを着た若い男だった。
シンヤがごくごく自然に私と男の直線距離をさえぎる。
トワが笑顔のまま買い物の荷物をシンヤに預けて、右手を薄手のジャケットの裾に触れさせる。
男はシンヤよりも頭一個分低い位置にある顔をほころばせて、トワを見た。
「失礼ですけど、川嶋さんですよね」
「コトコですか?」
「あぁ、やっぱり」
トワの言った「コトコですか」が、彼には「コトコですが」に聞こえたらしい。ごく単調なシステムで反応する顔面の筋肉を、満面の笑みに変えている。
「このマンション、中に人がいないと入れないから、ずっと待ってたんですよ。私、鈴見と言います。武石さんに言われて来ました」
「タケイシ……」
「仕事を休んでいるので心配していると伝えて欲しいと、武石さんが言っていました。あの……彼から伝言を預かっているんですけど、今いいですか?」
トワが私達のほうをふり返って目くばせする。
私には何を伝える目くばせか分からなかった。
反対に、鈴見という男の言葉に心が反応する。
武石、仕事を休んで心配している、伝言……
トワを行かせてはいけない、そう感じる。トワ、彼について行ってはいけない。
しかしそれは言葉にならず、それよりも先にシンヤが笑顔で応えた。
「いいわよ。行ってらっしゃい」
「先に行ってて」
トワが、にこやかに言った。
実直そうな鈴見という男はぺこりとこちらにおじぎすると、トワを引き連れて駐車場のほうに戻った。
シンヤはそちらをふり返らないままにエレベータホールに入って行って、最上階から二番目のボタンを押した。
「さっきの、あんたの知り合い?」
視線を合わさないで、彼は尋ねた。
私は首を振った。そうして質問で返す。
「ねぇ、私って会社員だったの?」
「さぁね。そんなこと、私が知るわけないじゃないの」
「でも、会社休んで心配してるって……」
「武石って名前に、聞き覚えは?」
「……多分、どこかで。タケイシのタケは植物の竹じゃなくて、武士の武だったと思う」
「聞いたことあるのね」
シンヤは静かにため息をついた。
エレベータが到着して、無感動の白いクロスの個室を目の前に呈示した。
私達はそれに乗り込む。
「武石ってどういう人か知ってるの?その人が私を脅していた人?」
静かな重力を感じながらシンヤに尋ねた。
シンヤは静かにため息をつくと、私のほうをふり返って優しく微笑んだ。
「トワに聞きなさい。あんたのことは私よりトワのほうがよく知っているから」
「トワが……」
「あの子、料理もできないしネクラなところがあるけど、私なんかよりずっとあなたの役に立ってくれるわ」
彼はやんわりと質問をさえぎると、そのまま微笑んで前を向いてしまった。
シンヤはトワが好きなんだ、と思った。
多分それは(彼の観点でこういうのもおかしいのだけれど)母性愛のようなものだ。トワの行動には、なにかしら不安定なところがある。それを押さえているのが彼なのだろう。たった一晩過ごしただけでもそれが分かる。
トワは今、鈴見という男と何を話しているんだろう。
シンヤは心配ではないのか。
それからしばらく沈黙していたが、ふと思いたって口を開いた。
「シンヤ」
「なに?」
「私達、どうして名前を呼び捨てあっているの?」
それは初めから思っていたのではなく、今ふと思いついた疑問だった。口にする言葉、何の違和感もない名前。
しかし、依頼人と護衛という関係にしてはなれなれしすぎる。
あるいは昔からの知り合いなのだろうか。
「あんたがそう言ったのよ」
シンヤは振り向くこともなく言った。
「自分をコトコと呼んでくれって、あんたがはじめに言ったの。だから私達も、トワとシンヤでいいって言ったのよ」
私の名前は川嶋コトコ。
『コトコと呼んでくれて構わない』
私が言った。その時のトワの顔が浮かんでくる。
『私の名前はトワ』
彼女が言う。
『あなたがコトコね』
私の名前はコトコ。
「ねぇ、」
「何よ?」
シンヤは質問ばかりの私を呆れた様子でふり返った。
私はその顔にお構いなしで質問した。
「私の名字はなに?」
「なぁに、急に?あんた自分の名前覚えてたんでしょ?」
「私はなんて名のった?」
シンヤの質問を無視する形で問いかけた私に、彼は一瞬押し黙ると、
「小暮コトコ」
静かに言った。
チンと澄んだ音がして、エレベータの扉が開いた。24階のフロアにつながる扉が。
シンヤは私を一瞥すると、先にエレベータから降りた。
やっぱり、
やっぱり私は名前を偽っていた。
小暮か川嶋かどちらが偽名かは分からないけれど、私の名前はひとつではない。そのことが自分の胸をはやした。
どちらかがあるいは……。
しかし考えはそれ以上には及ばず、私は小暮の名前もまた記憶のうちにあることを確認しただけだった。
小暮
確かに私はその名前も聞いたことがある。
私は一体どこまでが私なのだろう。