7 深夜のふたり
「忘れてるっていうの? 完全に? そんな、おかしくない?」
「あまり、疑問形ばかりにしないで、混乱するから」
「でも、本当に『あの子』なら、私達に接触してきた目的ははっきりしてるわ。それとも、まったくの別人だって言うの?」
シンヤはソファセットに深く腰をかけて、自分の爪をかんだ。
トワはキッチンに入ってコーヒーを二人分入れると、シンヤのもとに戻ってきた。
「とにかくしばらく様子を見ましょう」
「トワ……そんなこと言って、あんたまさか、あの子ここに置いておくつもり?」
「……あぁ、シンヤはコーヒーには砂糖が要ったのよね」
トワはその会話を微妙に逃すと、背を向けてキッチンへ戻った。
夜闇は綺麗なグラデーションを作って、理解を期待しないメッセージを秒刻みで送り続けている。白みはじめた空。
シンヤの視線が背中に痛い。それだけの力を持った目だった。
彼女はグラニュー糖のいれものを探してカウンターの奥にしゃがみこんだ。
「……そんなこと言ってためらっていると、殺られるわよ」
「……」
「さっきのコトコの動き、見たでしょう?そりゃあ、あの子が少なからず混乱しているってことは認めるわ。そうじゃなきゃ、獲物も持たずにトワの背後に近寄るなんてことありえないもの。でも、体は覚えてる。さっきだって……」
「……もし、コトコが銃を持ってたら、私、殺されてたわね」
トワは立ち上がってふり返った。
キッチンカウンターに手をかけると、少し微笑む。
「ごめんなさい。コーヒーに入れる砂糖がないわ」
「要らない」
表情を険しくして、シンヤは押し黙った。
夜明けが始まろうとしている。この窓の向こうで。
鳥が大きく鳴いている。羽音まで聞こえそうなほど大きく。
昨夜までの風は、この夜中におさまっていた。今はただ、始まりの静寂があるのみだ。「……ありがとう。心配してくれてるのね」
トワが言った。
シンヤはフンと鼻をならした。
「でも、もう少しだけ待って欲しい。本当に私が思っている通りかどうか分からないし、もしコトコが彼の妹でも、忘れてしまったのなら、彼女が生きていることは私達の不安要因にはならない。彼女を組織に送り返したらどう扱われるか……」
「あの子が直接障害にならなくたって、誰かがあの子を迎えにくる。そうしたら、今度はその人間が私達の障害になるのよ。あの子はひとりで育ったんじゃないもの。必ず誰かが同じ方向から私達に関わろうとする。それは、コトコを私達のそばにおいておく限り永遠に続くわ」
「そうね、……シンヤ、私とパートナー解消する?」
「……この分からずや」
シンヤは低い声で言った。
対峙するトワは小さく笑っている。
「そんなこと、するわけないでしょ」
シンヤもつられて笑った。
静かに、優しく。
トワは安心したように目を細めた。
「そう言ってくれるって、分かってたから」
「そうよ。あんたみたいな全身脳みその考えすぎ人間には、脳まで筋肉の私みたいなのがいいの。……分かった、あんたは私が守る」
そこだけ真剣な声色で。
「何が起こっても絶対に。それに、あの子の前でもイイコにしてるわ」
「……ありがとう、シンヤ」
カウンターの中で大きく息をつく。このパートナーが自分のために捧げてきてくれたものを思って。
「私、シンヤのこと大好きよ」
「そんなこと、私が知らないとでも思ってるの?」
そうして、また大笑いする。
トワはカウンターの下の戸棚をのぞいた。そうして顔を上げる。
「あ、普通の上白糖ならあるけど、コーヒーに入れる?」
「入れる。こんな苦いもの、素で飲んでるあんたの気が知れないわ」
「私は甘いコーヒーを飲める人間の気が知れないけど」
シンヤはにやっと笑った。
「私達って、ほんと、真っ向から対立してるわよね」
「ほんと、気が合わないわね」
トワも今日初めてにっこりと大きく笑った。
時間を目覚めさせる太陽が、シンヤの背中から昇りはじめる。