6 夜 中埜貿易という名前
勢いづいた銃口が私の右目の前で止まった。
彼女も私も呼吸を止めていた。これだけのリアクションをとったにも関わらず、空気はほとんど震えなかった。
シンヤ、彼に聞こえていただろうか。
トワは睨んでいた目で私の存在を認めると、驚いたように息を吐いてこちらを見つめた。澄んだ目に穏やかな光が灯った。
私は空を掴んだ左手が手持ちぶさたで、しかし固まったまま、まったく下ろすことができなかった。右手にも必要以上の力がこもっていた。
彼女の手を反射的に掴んだことが信じられなかった。
混乱。
トワは昨日と同じ困惑したような曖昧な目をすると、その瞳で掴んだ右手を見た。
「……コトコ、痛い」
「あ、ごめん」
私は掴んでいた右手を放した。
銃口が下がるのを義務的な感情が目で追っていた。
体全体が弛緩する感覚。昨日トワに会った時と同じだった。
この反応の早さ。昨日誰のものかも分からない銃を持ちあげた時と同じ、混乱に乗じて隠れた自分がもうひとり存在している気配がした。
この反応をどこで覚えた?
左手は銃を掴もうとしたのではなかったか?
「……どうしたの、コトコ。寝てなかった?」
トワは静かに言った。
彼女の優しさは、問わないことだった。昨日もそうだった。何も聞かない。
私は首を振った。
「目が覚めちゃって、トワがいないから、」
「探させた? ごめん、ソファで寝ちゃったみたい」
嘘だ。寝てはいなかった。
気付いていた。
「ごめん、こっちこそ起こしちゃって」
けれど問わなかった。彼女が聞かなかったからだ。
不意に後ろで気配がして、私はふり返った。すぐに扉が閉まる音がかぶる。
トワは少し微笑んで言った。
「シンヤね。物音がしたから、起きてきてくれたのよ」
壁を通して聞こえた彼の寝息を思い出した。
彼もプロだったということか。夕べ聞いた話し声からは想像もつかない反応だった。もしかしたら、彼は自分を必要以上に俗に見せるためにああいった話し方をしているのかも知れなかった。
私は静かに息をつくと、トワのほうに向き直った。
「……それ、いつも持ってるのね」
今はもう見えない拳銃を示す。
トワは静かに笑ってみせた。
「いつもってわけじゃないわ」
「仕事だから?」
「そうね。トウキョウは銃規制が厳しいから、持っているだけで犯罪になってしまうもの」
「でも今は持っている」
「必要だから」
「私は何故脅されていたの?」
彼女はかすかに沈黙した。
即座に分からないと返されなかったことに、私も沈黙した。
遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。
かすかに蒼い光が窓の外で佇んでいる。
彼女は息をついて答えた。
「理由はよく分からない。コトコは覚えていないの?」
うなづく。
「あの銃をどこで手に入れたかも?」
「分からない」
今度は首を振った。
銃なんてもの、そうやすやすと素人の手に入るものなのだろうか。私はそんなことは知らなかった。……と思う。
あんな殺人的に重厚な代物をいつも腰にぶら下げている人間の気が知れなかった。
トワが私の周りにいる時はいつも拳銃を持っていると思うと、少しだけぞっとした。
それから、ふと思いたって問う。
「ね、」
「ん?」
「……あの死体はどうしたの?」
「あぁ、」
トワは少しだけ複雑な表情で返すと、
「引き取ってもらったわ。掃除屋の連中に」
「掃除? 死体を?」
「そういうのの後始末を専門にしてくれる人間がいるのよ」
「そう……」
よくは分からなかったが、聞き続けると気分が悪くなる類の話だということは分かったので、それ以上聞くことを諦めた。
そんなのは、全然想像もつかない世界。物理的な闇より怖い、闇の世界だ。
「眠れなくなるような話ね」
トワもそう言って微笑んだ。
全体的にトワの感情表現は控えめだ。その分シンヤが取ってしまっているのではと思われる。シンヤはオーバーなほど笑い、そして怒る。
私も真似をして静かに笑ってみせた。その通りだと思ったからだ。
「ごめんなさい、シンヤまで起こしてしまって。ちゃんと寝るわ」
「そうね」
彼女はここで眠るつもりだろうか。この朱い光の射し込む部屋で。
どこを向きながら?
私は彼女に背を向けた。パジャマの裾を擦りながら、先刻はあんなによく足音が消せたものだと我がことながら感心した。
ガラスのドアまで行き着くと、トワのほうをふり返った。
「コトコ……」
トワが静かに言った。
「中埜貿易の名に、心当たりは……?」
「中埜? なに?」
「……知らないならいいの」
彼女はまたあの困惑したような笑みを浮かべた。それはどこかで見たことのある笑み。
「おやすみなさい」
少しだけ彼女の顔を見て沈黙した。
そして私も答えた。
「おやすみなさい」