2 私の名前 ネオンの明滅
手には拳銃があった。
それ自体が殺人的と思えるほどの重さの拳銃を、ためらうことなく私の左手は掴んでいた。
一体これはどうしたことだろう。私は一体ここで何をしているんだろう。
混乱。
目を凝らすなという心の奥底にある思いを振りきったのは、好奇心。私は足元に焦点を合わせた。
ヒト……であったもの。
うつぶせに倒れているものは、人間だった。
部屋の壁にもたれかかるようにして立ちながら、私はその死体を見つめていた。
頭が痛い。
息が熱い。
しかし、死体と一緒という特異なシチュエーションに置かれているわりには、どこか冷静だった。冷静に、ただただ死体を見つめていたのだった。
どういうわけか、私はタンクトップとジーンズという街歩きに適していない格好だった。どこかに服を捨ててきたか、それとも……。
うつぶせの人間は驚くほどの量の血を流していて、私の足元まで迫っていた。
避けるように、少しだけ体をずらす。
倒れているのは男だった。腹ばいになっている上、部屋が暗いためにはっきりとは分からなかったが、そう年をとっているわけでもなさそうだった。いや、幾らか若い。
逃げよう、とは不思議と思わなかった。
銃刀法違反、住居不法侵入、殺人。
このままじゃ、疑う余地なくして現行犯だ。
私は何をやっているんだろう。
死体と面接して、拳銃を持って。
こんなの普通じゃない。
尋常じゃない。
私の世界は……、
そこまで考えて、ふと思う。
私の世界は、どんなだった?
どこにあった?
どこへ行った?
混乱。
何故ここにいる?
私は何をした?
私の名前……、川嶋コトコ。
思い出せる。
この街も知っている……トウキョウだ。
でも……。
そうして拳銃より死体より、私の頭の中のほうが怖くなって、叫びそうな心を必死で押さえながらもたれていた壁からに座り込んで……呻き声をあげた。
右手の腕に血がにじんでいた。自分の血だ。
ぺたんと尻もちをついて、力が抜けたようにうずくまった。
逃げたい。逃げなきゃ。
……どこへ?
私の帰るところはどこ?
だめだ、思い出せない。
よもや現実に『ここはどこ、私はだれ?』という身の上になってしまうなんて、ばかばかしくて涙が出そうだった。唇を結んでも、呻き声が洩れた。
どこに行けばいい?
……誰に聞いてる?
助けて。
……誰に求めてる?
分からない。
混乱。
とにかく拳銃を隠そうとポケットを探ると、しおれたハンカチと裸のままの一万円札が数枚出てきた。
まさかこんなはした金のためにこの男に強盗を働いたんじゃないだろうな。
もしそうだったら、強盗殺人だ。
否定する根拠がなくて、ひどく情けない気分になった。
唯一希望が持てるのは、精神判定制度がまだ残っているということだった。嘘発見器でも絶対に分からない。何故なら、本人もこれがどういうことだか分かってはいないからだ。
泣き笑いのようになりながら、私はうずくまった。右手がひどく痛んだ。
窓の外からネオンがしのんでくる。静寂よりも人を孤独にする無邪気な音楽が耳に小さくささやいて、そのどれもに聞き覚えがないことに少なからず憂鬱になった。
逃げるところもない。誰も知らない。
ここにたった今産み落とされた天使のように、地上で生きる術を知らない。
見ているだけの絵本の世界に迷い込んだような、圧倒的な非現実感。
うずくまって声を押し殺して。
ただ、何も変わらないことを望んで。
しかし、次に聞こえてきたのは、もっとも恐れていた人の足音だった。
消しているようだが、かすかに感じる人の気配。背景を彩る音楽の中で、それだけふちどったような存在感で感覚に引っかかる。
ひとり。
焦りに近い思いが心を支配する。
一瞬浮かんだのは警察という言葉よりもっと複雑なものだった。でも言葉にできない。形にならない。
顔を上げる。
じんとした右腕を持ちあげて、腰を浮かせる。
近い。
それだけ考えて、ふっとおかしくなった。
近い? ここがどこかも分からない、世界の座標の中で私の位置も分からないのに、近くってどこ?
足音が間遠になってゆく。耳につく。
宙をさまよう感覚が、前方の壁を指示する。
薄いクロスが剥れかけて、コンクリートの外壁がむき出しになって目に痛い。それでもじっと見つめる。
確かに誰かいた。静かにこちらに移動している。
開け放たれた扉のすぐ裏。
呼吸を静かに留めて、そうして吸う。
瞬間、
どこかにリンクした左手が、手放しかけていた拳銃を握った。
戸の裏から人影が転がるようにとびだしてくる。
女。
彼女は胸の位置にあった両手を伸ばしている。
その手には拳銃。
私は素早い動作で掴んだ拳銃を引き上げると、とびだしてきた人物に照星を合わせた。
向き合った相手の照星が、自分の右目を狙っているのが分かった。
すべての音が、光景が遠ざかる。
銃口が黒々とこちらを向いていた。
この薄暗い空間の中でひときわ深い闇だった。それが今、自分を捕えている。
「銃をおろせ……!」
彼女が鋭く言った。
その瞳は迫力があった。髪は黒いが彫りが深く、肌の色は日本人離れした白さ、なにより目の色が薄い栗色だった。
正直言って、どうしようもなく焦っていた。
目線まであげた拳銃は、自分の理性によってではなく、ほとんど反射的に持ちあげたものだったからだ。まったくの無意識だった。
どうしたものか持て余す。
このままではこの女に撃ち殺されかねない。しかし、下ろしてしまったらその後どうなるのかまったく見当がつかない。
いっそ警察だったら良かったのにとさえ思った。そうすれば少なくとも今よりは今後の状態に希望が持てる。
彼女は私のほうをじっと見つめて、それから何かに気付いたように目を見開いた。
はじめ、彼女が床に伏せっている死体を見て驚いたのだと思った。
しかし違った。彼女は確かに私を見ていた。
「コトコ……」
彼女は構えていた銃をおろした。
意外な展開に、私も銃をおろさざるをえなかった。
彼女は私のことを知っている。そうして、今すぐ銃を向け合うような関係ではない。それだけのことに驚いた。
警戒を解くな、心が叫ぶ。彼女に警戒を解くな。
彼女は銃を握り締めたままゆっくりと近づいてきた。
「ど……いうこと? あなたが彼を……殺したの?」
彼女は静かに言った。
私は立ち上がることができなかった。
警戒している心には悪いけれど、安堵が体中の筋肉を弛緩させていたのだ。
「何で? そんな銃なんか……どこで手に入れたの……?」
自分も拳銃を握っているくせに、こっちがおかしいような発言をする。少しだけ腹が立った。
困惑したような、もの言いたげな顔が近づく。
あんたは何で拳銃なんか持ってんのよ、といいかけて、あぁ、と思い出す。
無意識にあふれてきた言葉が口をつく。彼女の名前。
「トワ……」
「なに? どうしたの?」
歩み寄って、目の前に膝をつく。
「コトコ、怪我してるの? 血が……」
顔を近付けて手を伸ばし、血の流れている右腕を取ろうとする。
とっさに私は腕を引いていた。
伸ばしかけていた手を驚いたように止めて、トワはまた困惑したように私を見つめた。
私も自分のとっさの行動に動揺していた。
「あ、ごめん……」
何を警戒している? 何におびえている?
分からない。でも何か恐れていることがあったはずだった。
私は今度は自分から右腕を差し出すと、左手に持っていた拳銃を床に預けた。
トワは床に置いたままにしてあった私のハンカチと数枚の一万円札をちらりと見ると、何も言わないままハンカチで血をぬぐった。視線を合わせない。
床の死体も見たはずだが、努めて何も言わないことに決めこんだようだった。
じりじりと流れていくネオンの反射が目に眩しく映った。
不思議と静かな空気がおりてきた。
深く息を吸い込むと、冷たい壁に背中を預けた。
力が抜けて、ただ重力のなすがままに沈みこむような感覚が全身を支配した。
「髪……切っちゃったのね」
ハンカチで傷口を縛りながら、彼女が呟いた。
髪……?
耳の下でばっさりと切り落とされた髪を感じた。
はたして自分の髪は長かっただろうか?
よく分からない。そうだったかも知れない。
「トワ……」
「ん?」
私は息のこもった小さな声で言った。
「ここ……どこ?」
そこでようやくトワは顔を上げた。ハンカチを握った手が止まる。
じっと私の顔を見つめた。
「なに? どういう意味?」
困惑したようなあの顔。どこかで見覚えがある。
「文字通り」
「トウキョウ……それとも、何でここにいるか分からないってこと?」
私は正直にうなづいた。
本当のことを言えば、彼女が誰かもよくわからない。いや、喉もとまで出かかっているのだけれど、形にならない。
何か不安定な言葉が、舌の上に乗ったまま乾いている。
「……どうして?」
「分からない」
私は首を振った。
彼女の抑制された声がなおさら苦しくさせる。
デジャヴの逆だ。あったこともおぼろげにしか思い出せない。
「シンヤはどうしたの? マンションにいなかった?」
「シンヤ……?」
誰? マンション?
彼女は顔を険しくして私の顔をのぞき込んだ。
「……覚えてないの?」
うなづくべきだろうか。よく分からない。
どれが覚えているもので、どれが覚えていないものか分からなかったからだ。
私はトウキョウを知っている。
彼女の名前がトワだということも知っている。
拳銃という単語も、マンションという単語も、そうだ、自分の名前が川嶋コトコだということも知っている。
背後で騒々しくかかっている音楽は覚えていない。
シンヤというのも誰か分からない。
彼女の言うマンションの所在も。
「私のことも?」
「名前だけは」
「……大丈夫よ」
何も聞かないまま彼女は言った。
無責任な確約、……でも、
少しだけ笑んで、彼女は立ち上がるように私を促した。
痛む右手を避けて私は立ち上がった。
「とにかく、ここから離れよう。マンションの場所は覚えてる?」
首を振った。
彼女はうなづくと、私の持っていた拳銃と数枚の札を拾い上げた。
「このお金は使っちゃっていい?」
うなづく。
「私のポケットの中に入ってたの」
「あなたのじゃないの?」
「分からない」
私は首を振った。
彼女はそれ以上は聞かないで、私の手を取った。そうして自分の上着を私の肩にかけた。
確かにいくらなんでもこの血だらけの腕じゃあ目立つ。
私はそれをぎゅっと握り締めて歩きだした。
ちゃんと物は識別出来る。薄暗くて見にくいし、聞き慣れない音楽は耳ざわりだったけれど、導かれるままに歩くことができる。
彼女についていってしまっていいものか、思案する心は口をつぐんだ。トワという名前を思い出したことが、最後の砦だったように思われた。
部屋から出てフロアの階段を下りながら、私はふり返って尋ねた。
「あの人は?」
「大丈夫。後でなんとかする」
こんな繁華街から、あんな血まみれの死体をなんとかするすべなんてあるのだろうか。心配に思ったが何も聞かなかった。
私の手を引きながら、彼女はふり返らなかった。
三階分の階段を下りて、裏通りに出る。
ネオンと音楽は思っていたほど騒々しくなく、人通りもまばら、ほとんど酔って足取りの危ない人間ばかりだった。それでも人間に会うということは
生温い空気の合間を縫って、二つのビルの地下を抜けた。足早に行き過ごす音楽と客引きは、後ろに流れて小さくなった。
今度こそ大通りに出ると、まばらな車の間にタクシーを見つけて、私を押し込むように乗り込んだ。
トワのスカートの後ろに射し込んだ二丁の拳銃が座る時にちらと見えたが、タクシーの運転手は関知しなかった。ふり返ることもなく余計なことを喋ることもなく、こういう時に無関心さは心地の良いものだった。
トワは何も言わなかった。
私も話すことがなかった。
無線の向こうで、どこかから漂流してきた無表情な声が、しきりに情報を垂れ流していた。
世界の座標の中で、自分が今流れているのが分かった。
始まりの場所が分からないのだから、どこに行き着くかなど分かるわけもなかったけれど。