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(9)エピローグ



忘れていたいことがある。

忘れていてはいけないことがある。


そうしたものを忘れたり、忘れなかったり・・・日々募る様々なものを、いくつ手にとどめて置けるのだろう。

大事だと思うのはいつも失った後で、大事なものはいつも指をすり抜けていく。


でもそれはきっと自分がまだまだ未熟で、子供で、それが大事だって認める事が出来ないだけで。

だからきっと、失ってしまわなければならないものなんてひとつもなかった。


それでももしも間違ってしまったのならば、今の俺に出来る事は一つだけ。


全てを無かった事に出来ないのであれば。


今の俺に出来る事は、一つだけだ。




(9)




「久しぶりね、サクラ」


そう言って微笑んだ俺が愛したその人は目に涙を溜めていた。

ドアを開いた俺の胸に飛び込むとしっかりとしがみつき、それから強くシャツを掴んだ。

何が起きたのか理解できないまま、俺は自然とその腕を彼女の背中に回していた。


「・・・・・・・・・・・姉貴・・・・・・・・なのか?」


都内にある俺が住むアパート。来客なんて新聞屋くらいしかないはずのドアが開いて、そこに立っていたのが長年求めていた愛する人だったその驚きは言葉に出来ないほどだった。

腕の中に彼女が居るということをだんだんと実感すると、自然と涙が溢れて体が震えた。

そうしてしばらくの間玄関先で抱き合っていた俺たちだったが、ずっとそうしているわけにもいかないので姉貴を部屋に上げることにした。

そこでようやく気づいたのだが、姉貴の後ろ、ドアの影に隠れている小さな子供が一人。見た目姉貴そっくりであることに驚愕したが、とにかく話を聞かないことには埒が明かない。

ベッドの上に腰掛けさせそれからコーヒーを淹れる。子供に何を出せば良いのかわからなかったのでカフェオレにした。

唐突過ぎる来訪に何の用意もしていなかった俺はインスタントコーヒーを淹れるくらいしか出来なくて、落ち着かない気持ちのままベッドに腰掛ける。

姉貴は上着を脱いで長い髪を指先で弄りながら俺を待っていた。


「サクラの部屋、思っていたより綺麗ね」


「・・・・・・・そりゃ、俺だってもう子供じゃないから」


「そうね。それに思えばサクラは昔から神経質っていうか、細かい性格してたものね」


「むしろ大雑把で片付けないのは姉貴の方だったろ」


「そんなに昔の事、もう覚えてないわよ」


お互いに小さく笑い合う。見た目が変わり、大人になった彼女の姿に抱いていた動揺が少しずつ和らいでいく。

少女にもコーヒーカップを差し出したが、俺を怖がるかのように姉貴の後ろに隠れてしまっていてどうにも嫌われてしまっているようだった。

仕方なくテーブルにカップを置いて腕を組む。


「それでどうしたんだ急に・・・・?」


「あー・・・・うん・・・別におかしなことじゃないでしょ?姉が弟の家を訪れるのは」


コーヒーを口にしながらそういって言葉を濁す。

それはそうだ。だがそれは普通の姉弟の関係ならであって、俺たちはそうじゃない。

俺たちはそうじゃなかったからこそ離れ離れになり、手の届かない場所に離れていったんじゃないか。

だっていうのにこんなにあっさりそれを破ってしまった。破らせてしまった自分もいる。

玄関先で追い払うことだって出来たはずなのに真逆の行動を取ってしまったのは何故か。

やはり心の底から・・・魂のようなものがずっと彼女のことを求めていたからなのかもしれない。

長く沈黙が続いた。俺も彼女も、何も言葉を発しなかった。何を言えばいいのかわからなかったし、その必要もなかった。

何年も連絡を取っていなかった彼女が今目の前に居る。心から愛していると言うのに今それを素直に喜ぶことが出来ないのはやはり後ろめたいからだろう。

彼女を抱き、両親を悲しませ、誰からも異常だと言われ、彼女も異常にさせ、だから俺は身を引いた。

彼女を俺から遠ざけたくて身を引いたのに・・・何故こんな、あっさりと破ってしまうのだろう。

長い間俺はずっと考えていた。コーヒーカップが冷たくなるまで。結論は・・・でなかった。

出る前に彼女の手が俺の手を取っていて、自然とベッドに押し倒されていたから。


「・・・・・・・・・・・・やめろよ。子供が見てるだろ」


「いいのよ、見せに連れてきたんだもの」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・意味がわからない・・・・とにかくやめろ。どいてくれ」


「本当にいいの?どいちゃっても・・・・?」


目を細め楽しそうに笑っている。余裕たっぷりなその態度はあの頃となんら変わらない。

手を取り指を絡め、笑っている。笑っている。笑っている。

この唇が。この瞳が。麻薬みたいに俺の思考を鈍らせる。魔性の女というやつがいるとすれば、きっとこんな感じ。

強引に力で押し返すと盛大にため息を付いて逆に押し倒した。


「・・・・・・・・・知らないぞ、どうなっても」


「そんなのもう今更でしょ」


「・・・・・・・・・・かもな」


目を閉じて深く心を閉ざす。様々な思考をシャットダウンする。

乱暴に姉貴の・・・・ヒイラギのワイシャツに手をかけ、ボタンごと強引に引き剥がす。

視線は逸らさない。ただ彼女だけを見つめ続ける。長い間そうしてきたように。

正直に言えば、我慢出来なかった。彼女という存在を取り上げられるのに馴れていたのに、ようやく我慢できるようになってきたのに、強いて言えばそれは喫煙のような・・・やめたくてもやめられない、抑えたくても抑え切れない衝動。


「乱暴ね」


「乱暴さ・・・・言っただろ、『どうなっても知らない』って」


「それはいいけど・・・・変わったわね、サクラ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・」


変わりもするさ。それに変わったのは俺だけじゃないだろ。

そんな言葉が脳裏を過ぎると同時に急に苛立ちはじめる。何もかもが変わっていないわけがなくて、俺と彼女の間にも確実に時間は流れていて、離れ離れになると自ら決めたはずなのにその現実が余りに悲しくて、胸がきつく絞まる。

だからあとは強引だった。そうして何がどうなったのかというのはろくに覚えていない。

とにかく俺は彼女を強引に犯した。多分大筋はそんな感じ。彼女はそれを拒まなかった。

何もわからないくらい思考も飛ばして想いを重ねるのは心地よかった。身体がではなく心が。

長い間そうする事を待っていた気もすれば、何故今現れたのかという怒りもあった。

とにかくその時俺たちは隣に座って怯えていた少女の事なんかすっかり忘れていて。

それが後に俺が守りたいと願う・・・レンだってことも、知らないままで。

一晩中一晩中、ただ馬鹿みたいに心を求めていた。

枯渇していた砂浜に流れ込む水のように彼女の囁きは耳に染み込んで心を潤わせる。

何度も罪を重ね繰り返した頃のように、また同じように罪を繰り返す。

汗ばんだ肌に触れる度擽ったそうに、しかし幸せそうに笑う彼女の笑顔。

それだけは、ただそれだけは脳裏に焼きついている。

俺たちはその日一日一晩だけ幸せだった。長い間我慢していた何かを壊してしまうように。


だから俺はその日彼女が尋ねてきた理由も、隣で悲しい瞳を浮かべていた少女の事も、


何もかも思考の中から飛ばして弾いたまま、眠りに着いた。


しかし当然朝は来る。目が覚めて最初に見たのが彼女の顔ではなく、小さな子供の顔だった時・・・俺はその顔を思わず突き飛ばしていた。


「・・・・・・・・・・・・・・??」


自分でもわけのわからない動作だった。驚いた、というのもあるが・・・だからといって小さな子供を思い切り突き飛ばす事はないだろう。

首をかしげながら子供を見るとその子は怯えた目で俺を見上げていた。当然と言えば当然なのだが。

それでも謝ることもしなかった。俺にとって興味関心は隣でまだ眠っている女のほうにあって、その女が連れてきた子供になど興味はないのだから。

服を着て立ち上がる。とりあえず腹も減る頃合なので台所に向かうと、何故か子供も着いて来る。

おどおど、おっかなびっくり。それでも決して俺から離れることはない。触れられない距離、少し離れた場所で少女は俺をただ見つめていた。

その態度に何だか無性に苛立ち始め、頭を掻き毟ってため息を付いた。

そういえばこの子何なんだろう?とその時俺は始めて思考した。まだ寝ぼけたままの思考でそれを問う。

その姿は十年ほど前に眺めたあの姉貴の姿にそっくりであり、しかし姉貴とは違う・・・怯えた目をしている。

頬に張り付いていたのは白いガーゼ。目の下にクマを作った少女はじっと、震えながら俺を見ていた。

やかんに水を入れてガスコンロに火をつける。視線がさっきから突き刺さるようでかなり居心地が悪い。

仕方なく振り返ると少女は驚いたように物影に隠れる。


「・・・・・・・・・お前、何なんだ?」


少女は答えない。扉の影から俺を見つめながら今にも泣き出しそうな顔をしている。

盛大にため息を付いて頭を抱えた。いちいち相手にするのも面倒になり無視を決め込む。

そういえば昨日この部屋に入ってきたときからずっと俺のことを見ていたような気もするが・・・。

しばらくすると寝癖ぼさぼさの髪を手櫛で直しながら姉貴がベッドから置きだしてきて、俺たちは軽く挨拶した。


「それで、何してるのサクラ」


「見てわかんないのか?朝飯作ってんだけど・・・」


「・・・・・・・あたしパン食なんだけど」


「知るか!うちはご飯なんだよ!朝は味噌汁飲むもんなんだよ!」


「意味わかんない・・・・パンにしてよ」


「ご飯だ!うちに居る間は俺のルールに従ってもらうからな!」


唇をとんがらせながら渋々退却するろくでもない女を見送り味噌汁を作る。

朝食を作っている間ヒイラギはTVで流れるニュース番組をただぼんやりと何も言わず眺めていた。

姉貴が目覚めると今度はその傍から一時も離れようとしない女の子。まあ、それも当然なのだが。

思えば最初からこの環境そのものが狂っている。出会ってはいけない俺たちが出会い、あんなことになって、そこになんでまた、女の子なんかがいるんだか。

思い出そうとすると軽く眩暈がした。それくらいに何も覚えていないくらいに何もかもが圧倒的だった。

しかしもうそれすらどうでもいい。どうせ壊れた世界の狂った登場人物だ。気にしていたら身が持たない。

朝食をテーブルに運ぶ。TVを一緒に眺めながら朝食を摂る。

それはまるで普通の景色で。あの頃繰り返したはずの景色で。何故こんなにも懐かしいのか。

俺の正面には女の子が座っていた。食事中なのに俺にべったりくっついているヒイラギとは違い、行儀よくご飯を口に運んでいる。

その姿を飽きもせず俺もまた眺めていた。小さな口でもぐもぐ一生懸命にご飯を食べる動作を焦点もあわせず眺める。

しばらくそうしていると俺の様子に気づいたのかヒイラギが耳元で囁く。


「あの子に興味があるの?」


「・・・・・・・・・・・・・・・ないわけがないだろ?」


見覚えのない、しかし見覚えのある少女。そもそも何の意図も無くこの女が連れてきたとは思えなかった。

蕩けるような甘い声で囁くその言葉に抵抗もせず味噌汁を口にする。


「あの子の名前はレンよ。愛染レン・・・あたしの娘ね」


「・・・・・・・・・・・・・・・」


驚きはなかった。それはもう見れば判るくらいで、だから驚く必要もなかった。

目の前の子供は・・・レンは無表情に凍った瞳でただ食事を続けている。


「・・・・・・・・・・思ったより動揺しないわね。つまらないわ」


「いちいち驚くのは子供の頃だけだ・・・・それにそんなのとっくに気づいてた」


「ふうん・・・・じゃ、その子が誰の子供だかも?」


立ち上がる。飲み終わった味噌汁と空になった茶碗を手にとって姉貴の手を払いのける。


「一つだけ確かなのは・・・・・俺の子じゃないってことだけだ」


いらいらした。それは多分誰でも当然だと思う。

心の底から愛している人が別の誰かとの間に生まれた子供なんかを連れてきたら。

でもそれは別におかしなことじゃなくて。姉なんだから別に普通のことで。

台所に立っているとその子が俺を真似してなのか、両手に皿やら茶碗を持ってくる。

おっかなびっくり差し出されたそれを乱暴に払いのけるとレンはしりもちついて俺を見上げていた。

何が起きたのかわからないといった表情。床に落ちた硝子は砕け散り、不快な音を響かせる。

俺を見上げるその瞳が、無機質なその瞳が酷く気に入らなかった。だから俺は少女を蹴飛ばした。

呻き声一つ上げないで床を転がり、床に落ちていた硝子の破片で切ってしまったのだろう・・・瞼の上から血を流しながら、それでもじっと俺を見つめていた。

少女の襟首を掴み上げて持ち上げる。苦しそうに顔を歪める少女。それでも俺を見つめている。

ベッドの上に放り投げると箒と塵取りを取り出して破片を掃除した。


「悪かった。でも、俺にあんまり近づくな」


「・・・・・・・・・・・ごめん・・・・なさい」


この部屋に入って最初に少女が呟いた言葉は、消え入りそうなくらい寂しく空に消えていった。

割れてしまった茶碗。そういえば何故いくつも食器を持っていたのだろう、俺は。

何となくそんな事を考えながら、その男が使うには余りに可愛すぎるデザインの破片を片付けた。

振り返ると姉貴はそんな俺の様子を笑いながら眺めていた。自分の娘が今正に怪我を負わされたというのに。

その目は酷く楽しそうで、吐き気がするくらい綺麗で黒く渦巻いている。

だからきっと、俺もあんな目をしているんだろう。黒く渦巻いているような、吐き気がする位綺麗な目を。


「泣かないんだな」


「うん?」


「その子」


加減した自覚はあったのだがどれほど先ほどの蹴りを加減出来たか俺にもわからない。

少なくとも少女にとっては相当な痛みだったのだろう、胸を押さえながら必死で息を切らし耐えていた。

それでも涙を流す事はない。わめき散らす事もない。静かに部屋の隅っこ、まるで自分に与えられた場所はそこしかないとでもいわんばかりに隅っこで丸くなっていた。


「泣かないわよ。だってレンはとってもいい子だもの」


ヒイラギがレンを見る目は愛情に満ち溢れていた。しかし同時に何か憎いものでも見るような侮蔑と怒りも混じっている、非常に複雑な色をしていた。

でもその気持ちは俺にもわかる。複雑すぎて自分にも理解出来ない感情を俺もレンに抱いていたから。

ヒイラギが呼び寄せるとレンはすぐさまヒイラギの胸に飛び込んでいった。安心しきった、心から安らいだ顔で。

何度も胸に頬擦りしながらレンは目を閉じていた。ヒイラギもまたそんなレンを優しく抱きとめる。

懐いているらしかった。まあ、当然なのだが。俺は視線を逸らす。


「レンはあたしの宝物。愛染ヒイラギが生きた証だもんね」


「・・・・・・・・・・・・・・生きた証、ね」


というよりは生き写しというのが正しい表現だと思った。

怯えた目で俺を見る少女は母の腕の中で幸せそうに目を閉じている。

ベッドに座って食後のコーヒー(ここだけは何故か洋風)を飲んでいると、ヒイラギはレンを放して言う。


「この子をね、サクラにプレゼントするわ」


「・・・・・・・・・・・・・・・は?」


プレゼント?


「うん、『あげる』っていってるんだけど」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」


あげる?何が?


「この子の身体も、心も、命も、人生も、何もかもよ。全部丸ごとひっくるめてあんたにあげるわ」


何を言っているのか意味がわからなかった。少女は母の手を離れ俺の前に立っている。

その目はやっぱり真っ白で何を考えているのかわからない。何も考えていないのかもしれない。

しかし全てを見透かすようなその瞳が俺を捉えて放さない。まるで何か抗えない力で縛り付けられているかのように。

それが気に食わない。何か俺の心の中にあるラインをざらざらと擦り上げる。

姉貴は少女をベッドの上に座らせると俺の手を引き、強く強く引いて息がかかるほどの距離で囁く。


「かわいいでしょ、レン・・・・あんたの好みにドンピシャのはずよ」


「・・・・・・・・・だからなんだよ」


「良かったじゃない、何をしてもいいのよ?誰にも禁じられない、あんただけのモノ・・・・生かすも壊すもあんたの自由。ずっと壊したかったんでしょう?それを実現できるのよ」


ああ、またこれか。

この目が・・・・甘い香りが俺の全てを台無しにする。

逆らう事が出来ない。眩暈がする。少女の前に立つ。シャツに手をかける。

昨日の夜のように。この気に入らない、姉貴の贋作のようなこの不出来な憎たらしい人形を、壊す。

殺してしまえ。こんなものいらない。こんなものがいなければ俺が姉貴と・・・・違う、だからって一緒になれたわけじゃないけれど。

でも俺の目の前にこの子の存在を許す事は出来ない。他の誰かと彼女が愛した記憶なんて存在を許せない。目の前から消し去りたい、この俺の手で、全てぶち壊して無かった事に。

少女は怯えていた。けれど抵抗もしなかった。恥ずかしそうに唇を噛み締めながらベッドのシーツを強く握り締めて。


「・・・・・・・・・・・・・何だ、これは」


シャツを剥ぎ取った時、俺は正気に戻っていた。

少女の胸から腹部にかけて縦に・・・何かで引き裂かれたような傷跡があったから。

振り返る。姉貴はけらけらと、楽しそうに笑っていた。何を考えているのかわからない、俺にはわからない目で。

俺の知らない姉貴がそこにいた。少女を愛しているのは間違いないはずだったのに、俺のことを愛しているのは間違いないはずだったのに。

胸がずきずきと痛んだ。自分は何て恐ろしい事をしようとしていたのか。少女は相変わらず怯えた目をしている。

息を呑む。俺は、俺は、俺は・・・・・・俺は何をしようとしていたんだ。


「どうしたのサクラ。ダメじゃない途中でやめちゃ」


甘い声が耳元で囁かれる。吐息が頬に触れる。

すぐ後ろにピッタリとくっついて、ヒイラギは笑っていた。


「壊したいんじゃなかったの?誰かの人生も・・・愛情も・・・身体も心も踏みにじりたかったんじゃないの?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・違う・・・・・」


「自らを苦しめたかったんじゃないの?あの時、あたしの首を手にかけた時みたいに・・・・」


「違う・・・・・・・・っ」


「殺したいんでしょ・・・・そして理解したいんでしょ?自分自身が罪人だって、確認したいんでしょう?」


「違うっ!!」


突き飛ばした。全身がガクガク震えて、恐ろしくて堪らなかった。

目の前にいる愛しい人が、心の底から愛したはずの人が、俺を憎んでいて恨んでいて当然の人が。

静かに笑っている。とっくに壊れてしまっていたそれは、俺を見て笑っていた。


「またあたしを拒絶するの?あの時一人で勝手に逃げ出した時みたいに」


「やめろ・・・・」


「どうしてあたしも連れて行ってくれなかったの?ううん、そうじゃない・・・あんたはただ自分の罪から逃げ出したかったのよ・・・他の全てを傷つけたくないと口で言いながら、あんたが言う傷つけたくない全てを傷つけて・・・・狂わせて逃げ出したのよね」


「そうじゃないんだ・・・!」


「うそ。うそばっかり。本当は自分が何かを背負う覚悟がなかっただけ。そのくせ一人前に嫉妬したり他人を許さなかったり・・・自分の事ばかり棚に上げていいものね」


「ちがうちがう・・・・ちがう・・・・・っ」


ベッドに倒れて頭を抱える。姉貴は言葉を止めない。


「あんたみたいなのは最低よ。生きているだけで全てを台無しにする・・・・本当は自分が望んだ事も全部あたしのせいにして、誰かに押し付けて、逃げ続ける臆病で卑怯で醜悪な最低の人間なのよ」


「・・・・・・・・・・・・・・・」


「でもねサクラ・・・・大丈夫よ、安心して」


俺の身体を抱きかかえる優しい声。

温かくて緩やかで、恐ろしく俺の心を強制する・・・しかし落ち着く声が聞こえる。


「あんたの事は、あたしがずうっと、ずうっと永遠に愛してあげるからね」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ううっ・・・・うぅうううう・・・・っ」


涙が零れた。


無理だ。


俺はこの人から逃げられない。


俺はこの人を愛する以外に道はないんだ。


この優しくて恐ろしい声に逆らう事なんか出来ない・・・だったら早く壊れてしまいたい。

何もかも判らなくなるくらい壊れてしまって、もう本当に狂った異常者になってしまいたい。

誰か俺を壊してほしい。粉々に砕けて塵になって風に飛ばされるまで。

姉貴の目は優しい、俺の知っているそれに戻っていた。涙を零しながら天使のような笑顔で俺を抱きとめる。

そうだ。逃げられない。永遠に。俺が逃げたかったのは、もしかしたらこの笑顔なのかもしれない。






産まれて始めて親父にブン殴られた時、俺はどんな目をしていたのだろう。

自分がどんなに間違っていたってそれを認められない俺はどんな目をしていたのだろう。

口の中に広がる血の味。爪を立てた畳。歯軋りすると奥歯がグラグラしていて涙が溢れた。

自分自身の無力さや整理のつかない様々な感情が瞳から零れ落ちてそれを止める手段を知らなかった。


「嘘だ・・・・ッ!!!」


叫んだ。声にならない声で。自分が何を言っているのかも判らないような奇妙な声で。

そうしなければ耐えられなかった。胸からこみ上げる後悔の波と吐き気の中必死で畳を殴りつけた。

体内を駆け巡るおさえ切れない衝動が俺を駆り立てていた。何かを壊したくて仕方が無かった。

子供っぽい、余りにも幼い感情は何もかもをめちゃくちゃにした。畳も、襖も、拳も・・・。


俺のそれまでの人間関係も、俺という心さえ。


頭を抱えて壁に何度も何度も叩きつけた。止めに入った親父を振りほどき這って部屋を出た。

とにかくどこかへ逃げたかった。こんな現実もこんな自分も理解したくなかったから。

叫び声を上げながら雪の降る庭に飛び出し、泥だらけになるのも気にせず塀を越えようとした。

親父に引っ張り降ろされもう一度殴られると自分でも奇妙な事に笑いがこみ上げ、頭の中が真っ白になった。


「嘘なんだろ・・・・姉貴?」


握り締めた拳。手の平に滲んだ血が白い雪の上に零れて落ちて染みを作る。

とめどなく零れる涙はそのとききっと彼果てて、流れる血もそのとききっと全て入れ替わった。

心を凍らせて出来る限り何も考えぬように、全てを忘れられるようにとシャツを強く握り締めた。

泣きじゃくっている母さんと俺をまた殴った親父と、雪の上に血を吐き出した俺と。

そんな俺たちの様子を彼女は縁側に座って眺めていた。理解できないといった不思議そうな表情で。

首をかしげたその姿に自分の中にあった何かが音を立てて焼けて落ちて。

手加減も出来ぬまま親父を殴り飛ばし縁側に駆け寄って手を伸ばした。


「俺を裏切ったのか!本当は何とも思ってないくせにッ!!!」



そんな俺を優しく微笑んで見つめると彼女は言葉も発しないまま唇をゆっくりと動かした。


「・・・・・・・・ね・・・・・」


細くて白い首に両手をかけた。


「死ね・・・・・・・・・」


哀れむような穏やかな瞳がゆっくりと閉じて。

自分の瞳から零れる何かで何もかもが見えなくなって、叫んだ。


「死ねえええええええええええええええええええええぇぇえええぇえ〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!!」




「・・・・っく・・・っはは・・・・ふふふ・・・・・あっはははははははは!あははははははははははっ!!」




背中をぞくりと、悪寒が走った。

力が入らなくなって手を放すと姉貴は逆に俺の首を絞めて言う。


「ええ、そうよ。あたしはね・・・別にあんたのことなんかなんとも思ってないわ。こう言えば満足なの?『あんたのことはお遊びでした。少しからかってやったら本気になるもんだから、正直もう迷惑に思ってる。だからその事をお父さんとお母さんに報告したし、あんたにはもう近寄って欲しくない』・・・・ってね!!!」


「う・・・・・うぐっ・・・・ふうっ・・・・・くうぅぅぅぅ・・・・っ」


涙がぼろぼろ零れた。

あの冷たい笑顔が、冷たい瞳が、自分が愛した人の本当の姿だなんて思いたくなかった。

確かにあの何度も心を重ねた夜の中、彼女は心から俺を愛してくれていたはずなのに。

何故こんな事になってしまったのだろう。何故こんなにも悲しいのだろう。

姉貴は壊れた玩具を見る子供のように無邪気で残酷な瞳を浮かべ俺を突き飛ばした。

そうして倒れ、泥だらけになっている俺に告げる。


「あたしね・・・・子供が居るの」


「・・・・・・・・・は・・・・?」


「だから、赤ちゃん。勿論あんたのじゃないわよ?全然あんたが見ず知らずの男の子供。意味わかる?」


首を傾げる。鮮やかな笑顔で。心の中にあった何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。

自分自身の人格を形作っていたのは全て彼女への思いと彼女と過ごした思い出だけ。いつも孤独だった俺から愛染ヒイラギの存在をひっぺがしたら、あとはもう本当に何も残らない。


「あ・・・・あああっ・・・・ああああああああああっ!!!!」


何度も頭を地面に叩きつけた。拳を叩きつけた。何もかもが悔しくてたまらなかった。死んでしまいたかった。

何よりも悔しかったのは、だまされたとかそんなことじゃなくて。子供とかそんなことじゃなくて。


「ちくしょう・・・・っ!!!!」


そんな風に・・・・姉貴のあの無邪気で可愛くて素敵で何もかもを吹っ飛ばしてしまうような、あの笑顔が。


「ちくしょうううううううう・・・・・・っ!!!」


こんなに冷たくなってしまうまで、俺は気づく事が出来なくて。


「・・・・・・・・・・くそおぉぉぉぉぉ・・・・・」


結局俺は、彼女の心を守ってあげる事が出来なかったんだ。




何度泣き叫んでも変わらない現実。

俺が東京へ行ったのは俺の判断ではなかった。そうしたほうがいいと両親が勧めてくれたのだ。

俺は言われるがまま家を離れた。それから姉貴とは一度も顔をあわせることもなかった。

死んでしまいたかった。消え去ってしまいたかった。それでも俺は生きている。何故なのだろう?



あの頃大事なものは全て壊れて消え去ってしまったはずなのに、何故まだ意味もなく生き続けるのだろう。





「・・・・・・さくら・・・・・」


誰かが俺の名前を呼んでいる。


「さくら・・・・」


ゆさゆさと、か細い力で俺を揺すっている。


「さくら・・・さくら・・・・・・・」


ゆっくりと瞼を開く。そこにはあの姉貴の顔があって。


「ひいっ・・・・い・・・あっ・・・・・あああああっ!?」


慌てて押しのけて飛び下がる。そこは俺の部屋で、俺は気を失っていた。

目の前にいたのは姉貴ではなく、俺が心の底から憎んだ誰のかもわからない子供だった。

突き飛ばされてもその子は俺を見ていた。みっともなく震える俺をじっと見ていた。

そうしてゆっくり近づいてくる。俺がモノをなげてそれがぶつかって転んでも、何度も起き上がる。

少女は俺の目の前に立っていた。そうして俺と同じく震える手を、小さくて細い手を、俺の頬に触れさせる。

その手は冷たくて、あの頃の姉貴の手そのもので、その子が震える身体を抱きしめてくれた時、俺は言葉を失っていた。

少女は・・・・レンは俺の身体をぎゅっと抱きしめて何度も俺の名前を呼んだ。

とめどなく溢れていた涙がぴたりと止まって、心臓の動悸も収まり、全身の震えが止まる。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


少女を抱きしめていた。少女の身体はまだ震えている。それが止まるように優しくずっと抱きしめていた。


「だいじょうぶだよ・・・・さくら・・・・・だいじょうぶだから・・・・」


「・・・・・・・・・お前・・・・・・・」


少女はずっと俺を見ていた。

いつでも、どんな時でも、不安そうに、瞳を曇らせて。

それは何故?俺が怖かったから?俺のことが恐ろしかったからなのか?

違う・・・それは違った。今俺はわかった。今更になってやっとわかった。

少女は、レンは、俺のことを、俺に大丈夫だよって、俺が震えているのを見て、不安になって・・・大丈夫だって伝えたくて、でも俺があんな態度だから近づけなくて。

それでも勇気を振り絞って今俺の目の前に、俺の腕の中に、静かに・・・・俺を哀れんで微笑んでいた。


「・・・・・・・・・・・・・・・さくら」


腕の中にある小さな存在は俺の名前を呼んでは何度も頬擦りした。

そんな不器用な、何の関係性もないはずの俺たちが、何故こんなにもお互い安心するのか。

レンはずっと、俺の事を助けようとしてくれていた。俺のことを見ていてくれていた。あの時乱暴に服を脱がした時だって、それを否定したりしなかった。

俺の心を、乱暴で狂っていてどうしようもないくらい寂しがってる心を、全部受け止めてくれた。


「・・・・・・・・・・レン・・・・・ッ」


抱きしめる。強く強く。何故こんな事に気づかなかったのだろう。

レンはずっと・・・・俺のことを見ていてくれたのに。


「逃げよう・・・・・・レン・・・・」


ここから。この現実から。連れ出さなくては。


「俺と一緒に、逃げるんだよ・・・・レンッ!!!」


「・・・・・・・・・・・・・」


レンは答えない。そんなレンを抱きかかえて立ち上がると、扉の前にはレンの母親が立っていた。

愛染ヒイラギは穏やかな、しかし明確な敵意を持って俺の目の前に居た。

俺を愛していると、俺を守りたいと、何度も言ってくれたその唇で、瞳で、俺を縛り付ける。


「どうしたのサクラ?どうして怯えているの?」


「・・・・・・・・・・・・・・・どいてくれ・・・・・」


「どうして?」


「どいてくれ・・・・!俺は・・・・俺はあんたの人形じゃあないっ!!!!」


叫んだ。ずっと長い間抱えていた想いを。

確かに俺は彼女を愛している。今でも愛している。弱かったのは俺だ。強かったのは彼女だ。

間違ったのも俺だ。正しかったのも彼女だ。それでも、心の底から愛していても、


「あんたが、俺の全てでも・・・っ」


そんな冷たい香りで笑うあんたを見ていたくない。


「あんたのこと・・・・愛してても・・・・っ!本当に愛してても・・・・っ!!!」


様々な記憶が頭の中を逆流し、訳のわからないまま、涙を流したまま、言葉をひねり出した。


「あいしてるからっ・・・・・・・・間違ってるって、言わなくちゃいけないんだよぉっ!!!」


強くレンを抱きしめて言った。

レンがいてくれなかったら俺はきっと言えなかった。レンの温かさが俺に強さをくれる。

身体は震えていた。レンがいてももう止まらない。姉貴を前にして、俺は心底怯えていた。

彼女を、じゃない。世界が壊れていくのを恐れていた。そしてそれを壊そうとしているのが今まさに自分であることが堪らなく恐ろしかった。

そうしなければいけないところまでもう自分たちはきてしまっていたのだという事実が。

レンを守らなくてはならないという強い気持ちが。

そして・・・・・何より彼女の世界を壊してしまう事が・・・・恐ろしかった。


「そう・・・・・・あんたはあたしを否定するのね・・・・サクラ」


ヒイラギは俺の目の前まで歩み寄ると俺の手を取り自らの首にかけさせた。

あっけに取られる俺相手に彼女は・・・どうしてだろう、こんな時になって・・・幸せそうに笑う。


「だったらあたしを壊して出なさい。鳥籠から・・・・あたしの思い出という箱庭の中から」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・俺は・・・・・」


震える手に力を込める。力が入らない足を必死で立たせる。

幸せそうに、ああ、なぜだろう・・・俺をあの時愛していると言ってくれた瞳で、彼女は俺を見る。

ぎりぎりと、ぎりぎりと・・・・・両手に込めた力が強くなっていく。

いっそ一思いに殺してあげたいのに・・・迷いや後悔がそれを許さなかった。

全身を駆け巡る言葉に出来ない愛情と罪の意識が俺の中にある何かをごりごり削り取っていく。

それが正気というものだったのか、それとも彼女との思い出だったのか、或いは他の何かなのかわからない。

ただ指先から伝わってくるその嫌な感触だけは、絶対に忘れちゃいけないんだと思った。



あの夕暮れの帰り道や暗い部屋、ストーブが照らす彼女の肌の色や。

始めて彼女が家にやってきた時の綺麗な黒髪、泣いた俺につられて涙する泣き顔。


ヘタクソだった料理の腕前や片付けられない部屋を俺が片付けたこと。

学校でいじめられた時まっさきに助けてくれたこと。その背中と強く俺の手を引くその力が羨ましかったこと。

その横顔や力強い言葉がいつも助けになってくれたこと。一人の道を支えてくれていた事。


「ヒイラギ・・・・・・・・・・・・・・」


今までずっと、俺を縛り付けていた名前。

でもきっと、彼女と言う箱庭の中で俺は今まで守られていた。

どんな時もその想い出があれば、生きていけたから。


「俺は・・・・・・・・・・・・・・本当に・・・・・・・」


それにきっと、縛り付けていたのは彼女だけじゃなくて・・・・・・。


「あんたを・・・・・・愛してた・・・・・」




彼女の唇がゆっくりと動く。

その言葉がなんだったのか、俺にはわからない。

しかし、その言葉が『愛してる』だったと思うのは・・・・俺の最後の我侭だ。

力を失って倒れるその身体を抱きとめた時、俺の世界は崩れて落ちた。

叫び声を上げる事も出来ないまま、ただもう動く事もない身体を強く抱きしめて涙を流した。

それが俺に出来る最後の事。彼女に何もしてやれなかった俺が唯一やり遂げた事。

レンはそんな俺たちを見て、それから俺の頭を撫でてくれた。

姉貴の癖だった、あの少しだけ乱暴な手つきで。


「ううっ・・・・・・・・・」


全てが終わってしまった。今俺は誰も居ない、何も居ない荒野に投げ出された。

そこにいるのは俺の隣で一緒に悲しんでくれる小さな少女だけ。


何もかもが・・・・・・消えてなくなった世界で、ただレンだけが俺を見つめていた。








「姉貴を殺したのが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺?」


その事実をずっと忘れていたのは、多分あの時心がめちゃくちゃになってしまったからなのだろう。

カナタが俺に手渡した書類の中にはその一部始終、当人たちしか知ることも出来ないようなことが記されていた。

全て憶測に過ぎないはずのその活字たちは確かに俺の中にその記憶を取り戻させる。

漠然とした絶望感の中、俺はカナタが最後に記した言葉に苦笑した。


「・・・・・・最後まで諦めず足掻け・・・・か。警察に出頭しろ、とかじゃなくてね・・・」


あの女らしいと思った。しかしこうなってくると本格的にあいつ何者なんだろうか。

何はともあれ俺のやるべきことは決まった。すぐにカナタを尋ね、里見の電話番号を訊くと、


「それも調べてあるわ」


「はや!」


「でもそれ、有料ね」


そりゃそれが仕事なのだから、仕方ないのだが。

いくらだ?と尋ねる俺に悪戯っぽく笑ったカナタは俺の唇に人差し指を当て、静かに告げる。


「全部終わった頃に請求するから・・・覚悟しておいて」


それは、遠回りに『逃げるな』と。

『生きろ』と、俺に告げていた。






「レン・・・・・・何をしてるんだ!?」


「あたしも・・・・サクラと一緒だから」


もう死んでいる、文字通り息絶えているヒイラギの死体にレンは何度もナイフを突き立てた。

レンの提案で俺たちは他県にある山まで来ていた。俺は普通車免許も車も所持していたので、移動は簡単だった。

特に他の誰かとかかわりがあるわけでもない俺はヒイラギの死体を持ち出すことに成功した。

レンの故郷であるその山間の町、いくつかある山のうちの一つを選び、その山の中にある池までやってきていた。

そこでレンはナイフを何度も何度も突き立てた。冷たくなった死体からは派手に血は飛び出なかった。

それでもレンの両手も、姉貴の身体も赤く染まっていく。まるでレンは何かを掻き消すように懸命にナイフを突き刺す。


「サクラ一人に背負わせないから・・・・レンが一緒に背負ってあげるから・・・・」


ナイフを手に、少女は寂しく笑った。両手を血に染めて、優しく。

レンはかつて母だったものを両手で掴むと引き摺り始める。俺は首をかしげてそれを手伝った。

やがて辿り付いたのは人気のない倉庫だった。随分前に討ち捨てられたのだろう、人の気配は全く感じられず、月明かりが割れた窓から差し込んでいた。

むしろ幻想的なその場所に転がっていたドラム缶。あらかじめそれを知っていたかのようにレンは死体をドラム缶に入れると、薪をくべ始めた。


「レン・・・・・?」


「ママがね・・・・言ってたの」


少女は懸命に、血だらけの手で作業を進める。


「自分がサクラに殺されたら、こうしなさいって」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・そんな」


じゃあ、それは、つまり、あの時彼女は・・・・俺に殺されるつもりで・・・・。


「ママはね・・・・消えたいって・・・ずっと言ってた」


物陰にあった何かの容器から液体を注ぎこみ、マッチで火をつけてドラム缶に投げ入れた。

燃え盛る炎が、ぱちぱちと・・・ぱちぱちと燃えて、ゆっくりと姉貴の身体を包み込んでいく。

レンはその炎に照らされながら悲しげに母の死体を見上げていた。


「ママはずっとね・・・・消えたいって。サクラに消してほしいっていってた。でも確かにサクラのこと・・・愛してたんだよ?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


俺は答えなかった。もう何かを考えるだけの余裕も、そんな気もさらさらなかった。

目の前で踊るように揺れる焔の陽炎が、想い出を全て焼き払っていく。

それから目を逸らす事が出来なかった。炎を背に微笑むレンから、目を逸らすことが出来なかった。


「・・・・・・・・・サクラ、そんな顔しないで?


彼女は問う。


「好きだったんじゃないの?」


俺は答えない。


「愛していたんじゃないの?」


俺は答えない。


「あなたはどうして、人を殺すの?」


俺は答えない。


「そうすることでしか、手に入らなかったんだよね?」


俺は答えない。


「愛し方を、知らなかったんだよね?」


俺は答えない。


「愛してあげるから、愛して欲しかったんだよね?」


俺は答えない。


「だったら、ずっとずっと愛してあげるね?」


振り返って、満面の笑顔で。


「ずうっと傍に居てあげる・・・・だから・・・ね?サクラ・・・・」


自分の胸に手を当て、告げた。


「いつか・・・・・あたしを壊しにきて?レンを・・・・・・ママみたいに、終わらせにきてね?」


それまでの間、ずっと、永遠に・・・愛し続けるから、と。

少女は俺を抱きしめて言った。血まみれの冷たい手で言った。

紅い風が吹く。炎に揺られながら静かに・・・・静かに意識が消えていく。



「レ・・・・・・・・・・・ン・・・・・・・・・・・・・」










「僕はその時、彼女に声をかける事も出来なかった」


燃え盛る炎の赤。死に直結するその紅蓮の中、女は確かに笑っていた。

声も上げず、しかし確かに笑っていた。頬を歪ませ、静かに・・・・笑っていた。

それが目の錯覚だったのかどうかは判らない。ただ男の目にそれは確かに見えていた。

死や血や炎の赤や黒さえ意味さえ持たず、少女もまたそれを見て笑っていた。

血の滴る赤い手をぶらぶらと揺らしながら。


「だから僕にはあれはやはり自殺なんだったとしか思えない。彼女は望んで自ら死を選んだ」


焔を背に少女は笑っていた。

長い間待っていた誰かの願いを叶えられると、笑っていた。


「だから僕はそれを見届ける義務がある。それを守る義務があるんだ」


カナタに里見の電話番号を訊いた俺は翌日すぐに里見と連絡を取った。

あの時、里見はレンに呼ばれてあの場所を訪れた。そうして血まみれのレンと俺、そして燃え盛るヒイラギを見た。

彼はすぐに全てを理解した。そうできるくらいの経験と知識と、レンやヒイラギへの思いが彼にはあったから。


「それを見届けるために・・・・俺をかばったんですか?」


「さっきも言っただろう?僕にはやはり、あれは自殺なんだったとしか思えない。君はそれに手を貸したというか・・・・嫌々付き合わされただけだろう」


「・・・・・・・・・・・そんな風に割り切れるんですか・・・?愛した人を殺した俺を」


里見は苦笑して、それから空を見上げた。


「君がレンにとって救いになるのなら、僕はレンのことを諦める」


「・・・・・・・・・」


「でもレンは心にも身体にも強い傷を負っている。彼女を構成してきた時間の全てが彼女をおかしくしている。ちゃんとした生活を送らせる事が出来るようになるには長い長い時間とたくさんのお金が必要になる。そうしなければ彼女はこの先一人で生きていく事は出来ない。だから僕はどんなに嫌われていても彼女の傷を癒したい。彼女が一人でも生きていけるようにと、ヒイラギに出来なかった事をしてやりたい・・・・人はどうしたって、一人で生きなくちゃいけない生き物だからね」


「俺は消えるべきなんでしょうか」


「・・・・かも、しれないね。君に対するレンの依存具合はもう正気の沙汰じゃない。君を失えば彼女は正気で居られないかもしれない。けれどねサクラ君、君には君の人生がある。君まで全てを犠牲にしてまでお母さんの残した呪縛に従うというのはどうなのだろうか、とも思う」


紫煙を吐き出して里見は語る。ゆっくりと、まるで自分に言い聞かせるかのように。


「君にレンを生活させろ、というのは少々酷な話だろう?君にだってこれから先様々な出来事が待っているはずだ。そうした全てをかなぐり捨ててまでレンと一緒に生きる覚悟がないのなら、君に出来るのは所詮そこまでだ」


「全ては俺が原因なんです・・・・」


搾り出す言葉。里見は黙って聞いていてくれた。


「全部俺が悪かった・・・・その俺に出来ることが・・・・何かを壊す事しか出来なかった俺に出来ることがまだあるんでしょうか」


「それは、君が決めることだよ」


顔を上げると男は苦笑しながら呟いた。


「もしもまだ君がその罪悪感の海の中から這い上がる気力と勇気があるのなら、よく考えるといい。君はまだ若く・・・未熟な故に様々な可能性を持つのだから」


「俺は・・・・・・・・・何かを壊す事しか出来なかった・・・壊されるのが怖かった臆病者です」


頭を抱える。ずっと忘れていた様々な感情を思い出すように。

恐れていたくなかった。苦しみたくなかった。忘れ去ってしまいたかった。

自らの罪も罰も全て。誰かを傷つけたという記憶さえも。

都合よく改竄して生きていたかった。そんな臆病者でどうしようもない俺を、レンの澄んだ瞳が見つめてくれた。

小さな手が、無邪気な笑顔が、俺を救ってくれた。


「なのに俺は・・・俺はあの子に何をしてやれるのか・・・そんな事すらわからない・・・っ」


レン。

俺たちは何度も同じ関係を繰り返す。姉貴と俺。俺とレン。そして彼もまたその輪の中の一人だった。

何かを求め、しかしそれが手に入らず、それを認める事も出来ず、逃げに逃げ自らの罪と業を深め、そうして生み出されてしまったのがレン。


「レンを守りたいという気持ちは俺の正直な気持ちなんでしょうか・・・・?ただあの日の姉貴にしてしまった事を償いたいだけなんでしょうか・・・?俺は、レンを利用しているだけなんでしょうか・・・?」


俺の問いかけに彼はどんな顔をしていただろう。俺は俯いて震えていたからわからない。

ただ彼は俺の肩を軽く叩いて力強い言葉で言った。


「そんなことはね、サクラ君・・・・誰にだってわからないものだよ」


あの日の姉貴のように。


「人とは都合よく生きるものだ。だからその本当の気持ちなんてわからないものだ」


寂しげに、言う。


「世界は少しくらい狂っている方が・・・・丁度良いのかもしれないな」




彼は俺を警察に突き出すもせず、レンも俺も庇った。

関係者が全員口を揃えて全てを否定し、俺は口を聞ける状態でなかった上警察に取り調べられることもなかった。

結果、不可解な自殺として処理されたその事件を、俺は何もかも全て忘れていた。



そう。



今の俺があるのは、レンがいてくれたお陰だってことさえ。



あの子は初対面を装って俺の前に現れてくれた。

そうして俺の傍に居てくれた。

だから今の俺がある。だから彼女の願いをかなえなくてはならない。

それがどんなに、俺にとって辛い事でも。


「あたしを・・・・愛染レンを、殺しに来てくれたんだね」


焔を背に、少女は言った。

だから俺は立ち上がり両手を少女の首にかける。

俺の手をとって涙を流しながら微笑む少女。俺は笑顔を浮かべて手に力を込める。

ずっとずっとこうなるために生きてきた。今までずっと、そしてこれからもきっと。


「サクラ・・・・・・・・・ありがとう」


涙をぼろぼろ零しながら少女はお礼を言った。

両手を血に染めた殺人者である俺に。

穢れきった、異常者である俺に。


「だいすきだよ・・・」






全てを終わらせる事で何かが変わったのだろうか。


いや、きっと変わらない。変わるはずがないのだ。


全てはきっと・・・・まだ目には見えない未来に続いているから・・・・。



次で終わりまーす。じゃあ続きかいてきまーす。

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