(6)レン
間違いにもいくつかの種類がある。
それが間違いだと知らず犯してしまう場合。
それが間違いだと知っていても犯してしまう場合。
それが間違いだとも知ろうとしない場合。
そもそも一体何が正しくて何が間違いだというのだろう。
常識的であれば正しいのか?大衆論であればよいのか?大勢が手を挙げそれを良いと叫べば良いのか?
では何が間違いだ?非常識であれば間違いか?異端ならば間違いか?誰もが指を刺し間違いと叫べば?
そんなものだ。その程度のものだ。人とはそんなものだ。そこに定義の線を引く事は誰にも出来ない。
ただきっと、多くの人の心の中にある善悪の呵責が判断する『それ』を、定義と呼ぶのだろう。
人はその手を何の罪にも汚さず生きる事は出来ない。無意識に、そして時には意識的に誰かの心にナイフを突き立てる。ぎりぎりと、ぎりぎりと鋸で切りつける。傷つけて傷つけて、壊そうとする。
それは人の心には根強いたどうしようもない羨望だ。誰かより優れたい、誰かより認められたい。
感情は常に反対の意味を持つ。誰かより愛されていると感じるために、誰かを傷つける。
そうしなければいけないのだ。それはどうしようもない心の渇望なのだ。決して癒えることのない、一生癒えることのない他人を傷つけるという悲しいまでにどうしようもない性なのだ。
誰かの背中を指差して笑わなければ人は自らの心の平穏を守れない弱い生き物なのだ。
大勢で徒党を組み、誰かを踏みつけなければ笑っていられない醜い生き物なのだ。
ではそれは悪か?誰もが悪だと理解し、しかしそれを自分が日頃行っていると誰もが認識しようとしないそれは、誰もが自ら望み願って忘れたそれは、悪なのか?
では認識できれば悪なのか?認識できなければ悪なのか?事実は関係ないのか?
人は都合よく夢を見る。悲しいこと、覚えていたくないことは忘れてしまえる。自分が犯した罪も傷つけた人の事も忘れてしまえば認識されない。罪も罰も呵責さえも。
見たいものだけをみて、自分よりもより一層悪行を行う人間に正義を解き、自らの血を洗い流す。
俺もその中の一人だ。忘れたくて仕方がない自分の汚さがあり、それを棚に上げ他人を責め立てる。
それは甘えであり、自己保身のためでもあり、誰かのためでもある。
そんなことはわかっているんだ。わかっている、ずっと前から。
俺は忘れたくない。どんな悲しみも苦しみも全て胸に抱いて生きていたかった。
全ての罪や過去と向き合って生きていくことこそ、何よりの贖罪であり何よりの感謝の言葉になるから。
それでも俺は出来なかった。
絶えられなかった弱虫な自分。
今更誰かに悪を解く事なんて出来やしない。
「人間ってのはね、まあそんなもんよ」
鞄を肩からかけた姉貴はいつもどおりの帰り道、あっけらかんとそう言った。
「間が悪ければ妙に突っかかられたり、手の平返したみたいにコロコロいい顔したりする。あたしはそうしないけど、人ってのはそういうアンバランスで自分ではどうしようもない感情の渦の中で生きてるもんなの。お父さんだって仕事が上手く行かなかったときは家族に当り散らすし、母さんだって不安な時は愚痴ばっかり言うでしょ?そのくせ自分たちは人にそういうことはするなっていうわけ」
それは悪い事だと思う?彼女はそう笑う。
俺は頷いた。それは悪いことだ。自分自身の感情すら管理できない人間なんて、狂ってる。
だってそうだろう?その所為で誰かを傷つけてしまうのにそれを正当化して何とも思わないなんて異常だ。
だから誰かの痛みを感じられない。傷つけた記憶と一緒に他人の痛みも凍らせてしまうからだ。
俺はそうなりたくなかった。最初からすべてを忘れるのだと知っていたのなら、俺は自分の感情なんていらない。
「でもね、案外そう上手くも行かないものよ」
俺の頭をわしわし撫でながら姉貴は笑う。
「サクラもいつかわかるわ。人は時に自分ではどうしようもないような感情に突っ走ってしまうものなの」
それこそ狂っている、という俺に対し姉貴は頷いて言った。
「そう、世界なんてね・・・・・狂いきってるのよ、最初から」
だから少しくらい狂ってるくらいのほうが、丁度いいの・・・と。
そう言って彼女が見上げた茜色の空は血のようで、しかし鮮やかで美しかった。
俺にはどうしてもその狂った少女の事が、悪だとは思えなかった。
(6)
人に優しくしなさい、というのは親父の口癖だった。
間違ったことをするな、というのも親父の口癖だった。
それは俺が顔も覚えていない本当の母親の口癖であり、親父はその教えを告いでいた。
俺はその言葉に憧れていた。心酔していたと言った方がいいのかもしれない。
片親であるから故に人より痛みを感じることが出来た俺はもっと人に優しくしなければと思った。
そんな事を考えている五歳程度の子供だった俺が生まれて始めて父親を信じられなくなったのはそう遠くない未来だった。
再婚。子連れの女と結婚した父は変わった。今までの教えや俺の事よりも新しい母親と女の子を可愛がった。
俺にとっては異常事態だ。自分自身が信じていた世界も、その中心に居た親父も、変わってしまったのだから。
そもそも再婚ってなんだ?死んだら違う女と結婚するもんなのか?そんな普通に乗り換えちゃっていーもんなのか?と、幼いながらに思った。
愛ってそんなもんなのだろうか?いや、そんなもんなのだろう。けれど納得出来ない自分も居る。
俺が信じていた間違った事をするなという親父の姿は、いつしか俺の目にかすんで見えた。
新しい母親はきれいな人で、新しい姉もやっぱりきれいな人だった。でもだからなんだっていうのだろう。
俺は一人でもよかった。親父さえしゃんと俺の前を歩いてくれればよかったんだ。新しい母親なんかいらない。新しい姉なんて要らない。そんなのが欲しかったわけじゃない。
一人でも寂しくないくら自分を信じさせてほしかった。誰かを信じさせてほしかっただけなのに。
ずっと長い長い時間考えていた。自分が何をどうすればいいのか。
他の子供のように無邪気に何かを傷つけて生きていくのが正しいのか。
男で一つで育てられた俺は大人と関わることが多かった。自然と大人に対する関わり方が俺の基本になり、子供のように無邪気にはしゃいでいる時間は殆ど無かった。
幼年期と言うものをそのまま通り抜けてしまった俺はいつしか学校でもどこでも他人に馴染めない・・・いや、他の子供を見下して自分より程度が低いと感じ、関わるのが不快になっていた。
だがそれは違う。大人だってそうだ。言う事もやる事も自分勝手なくせに、他人のやる事には口を出す。どいつもこいつも残酷で汚い生き物だ。だから自分は綺麗で居たいと思った。汚れたくないと思った。
だからそれが気に入らなくても俺は絶対に口にしなかった。何を言われても言い返さなかった。どんなことになっても他人を傷つけることはしない。それが俺の美徳だった。
自然と友達はいなくなった。大人も俺の扱いに手を焼くようになり、避けられた。親父は新しい女に夢中で、その子供と仲良くなろうと躍起になっている。
誰かと関わることがなくなっていた。それも悪くないかと思った。ランドセルを背負ったままで。
毎日毎日が同じ事の繰り返しで、家に居ても学校に居ても何も何も世界は変わらない。変わるはずがないんだ。そういう風にずっとずっと長い間続いてきたのだから。今更すぐに変わるわけがない。
それは誰もが無意識に世界を肯定してきた証だ。誰もがそうあるように願ってきた希望の欠片だ。
だから俺はそれも否定しない。願いの果てがその世界なら、俺はそれを否定しない。
なら、誰が俺を受け入れてくれるの?
俺の手を引いて歩いてくれるのは姉である愛染ヒイラギだけだった。
明るくて可愛くてどこでも人気者で俺なんかより余程優遇されている姉。
疎ましくて認めたくなくて汚くて気持ち悪くてでもその手が冷たいのに心地よくて。
それは呪いのようなものだったのかもしれない。必然のように、指先からかけられた。
だって仕方がなかった。他に誰も俺に関わろうとしなかったから。誰からも忘れられていた俺の傍に居てくれたたった一人の存在・・・それをどうして嫌いになれるわけがあるのだろう。
強い人だった。どんな事があっても笑顔を崩さない、子供っぽい無邪気な笑顔を浮かべられる人だった。
こんな人ならば素敵だと、こんな風になれたらどんなにいいかと思った。
他の全てはゴミのように何の魅力も感じられないのに、ただその少女だけが神の使いであるように神々しく見えた。
だから好きになった。恋をした。愛してしまった。自分ではどうしようもない感情とやらを知ったから。
それは狂気だった。姉を愛する事など許されるはずもない。それは間違った事だと誰もが言うだろう。受け入れられないだろう事実がいつも俺を責め立てた。
そんな苦しみから逃れるために正しくあろうとしていたのに、その正反対の事をやろうと胸をいためている自分が気持ち悪い。
誰にも相談できない、誰にも打ち明けられない、姉にも、家族にも。
十三歳の時、姉貴は十九歳だった。姉貴はよく俺を抱きしめて泣いていた。
だから俺も彼女を抱きしめて目を閉じた。俺たちの関係はすぐに狂って行った。
彼女は暗い部屋の中、俺の布団に潜り込んでは手を取り抱きついた。
誰も居ない帰り道、魅力的な瞳で微笑み、唇を奪った。
どんな事にも抵抗できなかった自分は、願ったことを全てしてもらえた自分は、全ての罪を彼女に擦り付けているようで酷く恐ろしかった。
本当は自分がしたかったことだ。抱きしめることも、唇を重ねることも。
それがおかしいと、狂っていると、いけないことだと知っていたのに、断る事が出来なかった。
まるで人形だった。彼女が愛すと言えば俺も彼女を愛す。彼女が願う事を何でもした。それがどんなに禁じられていようとも構わなかった。
彼女の指先から伸びる巨大で目には見えない糸が俺の全身を縛り付けていた。何の抵抗も出来なかった。
それでもよかった。全身に絡みつく気持ちの悪い糸こそ長い間俺が望んでいたものなのかもしれない。
俺は感情なんかいらない。誰かが願って、俺が叶える。そんな人形でいい。心はなくてもいい。
誰かに求められることは心地よかった。抱き合う事も、他愛のない語り合いも。全てが幸福だった。
彼女もまたきっと何かを求めていた。
俺には想像もつかない、十三歳の子供には理解できないたくさんの事柄が彼女を苦しめていた。
それを理解してやることが出来ない自分が悔しくて、彼女を守りたくて強く抱きしめた。
触れれば吸い付くように指先をなぞる彼女の背中の肌の感触を覚えている。
普段はいつも笑っていたはずなのに、彼女はいつも二人の時は泣きそうな顔をしていた事も。
幸せな時間は長くは続かなかった俺が十五の時、俺は家を飛び出してしまったから。
どうしてそんなことになったのかはよく覚えていない。ただ俺たちの関係を知った両親が俺たちの間を引き裂こうと考えた・・・多分そんな内容だろう。
親戚の誰からもいちいち説教され、姉貴の顔も見る事がままならなくなると、これ以上彼女の人生を汚してはいけないと一人故郷を去った。
誰もをそれを止めなかった。どうせどっちかがそうしなければならなかったんだ。だったら友達も沢山居て全てが上手く言っていた彼女と何もない俺と、どちらが去るべきなのかは明白だったから。
彼女が幸せになれればそれでいいと自分に言い聞かせて逃げたんだ。
自分自身の間違いや過ちやどうしようもない感情から逃げ出したかったんだ。
結局それっきり彼女と顔をあわせる事は無かった。
逃げるように屋敷を去ったあの日、駆け足で飛び出したあの日、涙を零して電車の中で後悔したあの日。
あの日からもう、俺は誰とも関わっちゃいけないんだと・・・・心に決めた。
それから彼女がどんな人生を歩んだのか俺は知らない。
いや、彼女のことをどれだけ知っていたのだろう?何も知らなかった。俺は何も彼女を知らなかった。
何も知らないまま、お互いが傷つけあわない範囲で抱き合い、そうして幸せに浸っていただけだ。
何の解決にもならない、何の進展もない温い関係が彼女の人生を壊すというのなら。
俺はもう、狂っていていい。俺は、そこにいちゃいけないんだ。
一人きりでいい。誰かを愛することも、傷つけることもないのならどれだけいいだろう。
ずっと一人で居られれば、それでいい。
でも姉貴。
あんたは違ったのか・・・・?
暗い部屋でレンを抱きかかえたまま目を閉じていた。
様々な想い出や感情が脳裏を通り過ぎていき、胸がずきずき痛んだ。
姉貴は一体この子に何を求めていたのだろう。何をしたのだろう。
涙を止めて静かに俯いているレンは俺の手を強く握り締めて小さく震えていた。
狂った世界で生きてきたのだろう。狂った人間に育てられたのだろう。
何の愛も知らず、何の未来も知らず、可能性も知らず、少女は生きてきたのだろう。
俺を捉えて放さなかった目には見えない無数の糸が、彼女にもまた繋がっているように見えた。
俺たちは同じだ。彼女の呪縛から逃れる事が出来ないでいる、哀れな弱い子供だ。
安心させるように何度も何度もその髪を優しく梳く。何度も何度も、何度も名前を呼んだ。
「レン・・・・・・」
レンは戸惑っているようだった。何に、どうしてかはわからなかったが、とにかく戸惑っていた。
心の中で猛烈に暴れまわる不安を押さえ込もうと、強く俺の手に爪を立てていた。
その痛みも、彼女の痛みを知る事が出来る術となるのならば・・・悪くはない。
「何度も言う。お前はレンだ。ヒイラギじゃない。だから、俺の話をよく聞いてくれ」
「・・・・・・・・・うん?」
「包み隠さず言うぞ。君のお母さんと俺がセックスしたのは七年前。君は何歳だ?」
「・・・・・十歳」
「その後も俺は何回も君のお母さんと寝たが、どんなに早くても七年前。つまりあの時、君はもう生まれてたんだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ、レンはなに?あたしは何なの?愛染レンって何?」
「それはお前が決めることだ。愛染ヒイラギでもなく愛染サクラでもなく、愛染レン・・・君が決めることだ」
「そんなこと言われてもわかんないよ・・・・」
「今はわからなくてもいい。でもなレン・・・・お前はレンでしかない。他の何かには絶対になれないんだ」
戸惑いながら俺を見上げる瞳は壊れてしまいそうなほど綺麗に輝いていた。
あの日の彼女もこうだったのだろうか。そしてあの頃の俺たちの関係も、こうだったのだろうか。
でも、だからこそ、俺はこの子に母親と同じ過ちを犯さないようにさせる義務がある。彼女をちゃんと、愛染レンとして生かす義務がある。
彼女と同じ顔で、声で、けれど不安そうに俺を見るその小さな身体はどうしようもないくらいに幼かった。
そんな子供にどれだけの事実や悲しみが受け止められるというのだろうか。姉貴がこの子に何をしたのかわからない。でもそれは絶対に間違った事だった。
だってこの子はもう、壊れてしまっているじゃあないか。悲しくて悲しくて、狂ってしまっているじゃあないか。そんなふうにしてしまうことは絶対に正しいことなんかじゃない。少なくとも俺が知っている姉貴なんかじゃない。
震えが収まるようにと、静かに強く抱きしめた。レンはずっと長い夜を泣き続けていた。
『そうか・・・レンがな』
翌朝、俺は親父に電話をかけていた。
親父に全てを隠さず話すとため息をつきながらも教えてくれた。
『この間言おうとも思ったんだがな・・・レンはな・・・・なんというか・・・どこかおかしな子なんだ。お前のことを本当に父親だと思い込んでいる。だというのに・・・サクラ。お前のことを愛しているって言うんだからな』
「それは姉貴がやった事なんだな?」
『・・・・・・・・レンにどんな手段を取ったのかわからないが、ヒイラギはレンが産まれたときからずっとそうなるようにあの子を育てたんだろうな。自分が叶えられなかった願いを叶えるために』
「・・・・・・・・・・・・・・・・・俺と・・・・一緒に居るために・・・・・・か?」
『・・・・・・・・・・・・・思えば、今思えば・・・・こんな事になるくらいならばお前たちを・・・』
「・・・・・・・・・・・よしてくれ。過ぎた事を言っても始まらないだろ」
桜の木に寄りかかりながら空を見上げた。
レンは姉貴の願いの結晶。狂った願いの辿り付いた先。自らの願いを忠実に遂行するための人形。
自分の感情、狂った感情を教え込み、それだけが唯一の真実だとレンに信じ込ませた。
レンは自分の生きる意味が俺と共にあることのみだと信じている。それどころじゃない、あの頃のまま、あの頃の俺たちの関係を再現するように教え込まれている。
つまり俺に抱かれるようにと、それくらいまで仕込んであるのだろう。その彼女の全身を覆っているのはやはり目には見えない糸で、俺にそれを切除する方法はまだ見えてこない。
たった十歳の女の子が、本当はそんな悲しい事やつらい事とは関係なく無邪気に笑っていていいはずの少女が、何故あんなにも悲しい事にならなければいけないのだろう。
そしてどうして俺は、レンに何もしてやれないんだ。
「ついでにもう一つ聞きたい事がある。レンの出生についてだ」
『あぁ・・・・・父親は誰なのか俺には本当にわからない。だが、あの子が子供を持っていたことは俺も知っていたよ。母さんも知っていたことだ。出産にも立ち会った。お前の知らない場所で全てが終わっていた・・・そういうことだ』
「・・・・・・・・・・・・・・・そうか」
確かに当時はまだ俺も十歳くらいの子供だったはずだ。
そんな事を、俺に話すわけにもいかなかったのはわかる。
「でも、だったら俺が出て行くまでの間・・・・レンのことはどうしていたんだ?」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
親父は何も言わなかった。長い沈黙が続き、それからようやく口を開いた。
『親戚に預けていたよ。事情を説明してね・・・そこでどんな扱いを受けていたのかは知らん。俺もそのとき、レンのことをとてもじゃないが好きにはなれなかった。愛娘がどこの男のものかも思えない子供を宿してきたんだ・・・冷静になれなかった』
「・・・・・・・それで、レンはその後どうなったんだ」
『お前が出て行った直後にヒイラギもすぐ出て行ってな。レンもそのとき引き取っていったようだ』
「・・・・・・・そうか」
怒りのような、悲しみのような、たくさんの絵の具をキャンパスにぶちまけた様な曖昧な感情が渦巻いていた。
自分がそんな事も知らなかったことが、知ろうとしなかったことが、何よりも悔しい。
自分たちも接し方がわからないという両親と、そこで行儀よく笑っていたレン。
全てがハリボテで、全てが壊れてしまいそうな狂気の上に成り立っていた。
だから俺は親父を責めなかった。それに気づけなかったのは俺の落ち度だから。
電話を切るとレンは庭先でツバキと一緒に何かお菓子のようなものを食べていた。明らかにレンの元気はなかったが、明るいツバキちゃんと一緒に居る事で少しだけそれが和らいでいるようだ。
それを確認して俺は二階へ移動する。レンが持っていたいくつかの私物を紐解いて調べる。
レンの私物は極端に少なかった。おもちゃもゲームも本もない。大人用のブランド物の財布が一つ、それから彼女がぶら下げていたハンドバックが一つ。
それから・・・・子供の頃の俺と姉貴の写真がいくつか。そして一冊の手帳だった。
「この写真・・・・」
それは古いものから新しいものまで、姉貴が手に入る範囲の写真があった。
どれも姉貴と俺が並んで立っていてあの頃の楽しそうな雰囲気が滲んでいる。
けれどこれを娘にいつも携帯させるのはどうなのだろう。少なくともまともじゃない。
手帳を手に取った。窓辺に腰掛けてそれを開くと、それはレンの日記になっていることがわかった。
ページを捲る。これが何冊目なのかわからないが、大体ここ半年分くらいの日記だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
1ページ目から早速もう目を逸らしたくなるような内容だった。
俺は一度それを閉じてきつく目を瞑る。
「逃げるな・・・・逃げるな、愛染サクラ・・・!」
レンのこと、もっとちゃんと知らなくちゃならないんだろう。
だったら、逃げるな。
「レン・・・・・・!」
きょうもママはレンをぶつ。
でもすぐにあやまってくれた。だからレンはゆるしてあげた。
ママはすぐぶつけど、すぐあやまってくれる。すぐいいこいいこしてくれるからだいすき。
ひっこしてからママはすこしやさしくなった。となりのへやの人とおはなししたからかな?
きょうもままはサクラのことをはなしていた。まいにちまいにち、サクラのことをはなしている。
レンはサクラのためにいきるんだとなんかいもいわれた。ママがかなしそうだったから、レンはちゃんとおへんじした。
ママがないてたからこえをかけたらぶたれた。
きょうもあのひととけんかしていた。レンのパパはサクラなんだってママはいっていた。
あのひとがくるとママがなくからきらいだ。レンもすぐママにぶたれるからきらいだ。
でもままはかわいそうだった。だからだきしめてあげた。けられたけど、だきしめてあげた。
そしたらままはわらってくれた。またサクラのはなしがはじまった。なんどもきいたはなしだったけど、ちゃんとおへんじした。
ちかいうちにサクラがあいにくるわ、とママがいっていた。けど、いままでそういってきたことがない。
サクラはレンのことがきらいなのかな?まいにちまってるのに、ぜんぜんきてくれない。
ママとサクラはあいしあってたはずなのに、ぜんぜんきてくれない。どうして?
どうしてきてくれないの?ってママにきいたらぶたれた。サクラはやくきてほしい。ママをたすけて。
ママといっしょにおかいものをした。なんでもすきなものをかってあげるというのでいっしょにごはんをたべたよ。
ままはいっぱいわらってて、レンもいっぱいわらった。ちょっとけががいたかったけど、とてもたのしかった。
ママといっしょにごはんをたべて、それからママがいつもつかっているものがほしいっていったら、おさいふをくれた。
デパートのおくじょうでアイスをたべたよ。ママがかみをむすんでくれて、いっしょにあそんだよ。
ままは「いつもごめんね」となんかいもいってないてたから、だいじょうぶだよ、ってなんどもいった。
たのしくおうちにかえったのに、あのひとがいてまたけんかになった。ママもおこって、とめようとしたらぶたれた。
もらったおさいふがよごれちゃってかなしかった。あのひときらい。あのひとがくるとママがおこるから。
ママ、やさしいママでいて。
サクラってどんなひとなんだろう?すごくやさしいひとだってきいたけど、みたことがない。
サクラにあってみたいけど、むかえにくるのをまってなくちゃいけないからレンはおうちからでない。
ママといっしょにごはんをたべてテレビをみた。いっしょにアニメをみて、たのしかったよ。
でもママはなきだしてしまって、せなかをなでなでしてあげたら「ありがとう」ってわらってくれた。
わらってるママはだいすき。でもどうしていつもわらってくれないのかな。
はやくきてサクラ。ママずっとまってるんだよ。
ママにぶたれた。どうしてこないのサクラ?レンのことがきらいだから?
いいこになるからむかえにきてほしい。ままがおこるからむかえにきてほしい。
ママがいなくなった。かえってこないけど、ちゃんとおしごといってかえってくるからねってやくそくしたからまつ。
おなかがすいたけどままといっしょにたべたいからまつ。ママはやくかえってきて。
ママかえってこない。ずっとまってるのにかえってこない。いつになってもかえってこない。レンのこときらいになったのかな?
サクラにあいにいったのかな?そしたらママはわらってくれるのかな?そうしたらきっとレンのこともむかえにきてくれるよね?
おなかがすいたけどままといっしょにたべたいからまつ。ママはやくかえってきて。
ママがかえってきた。でもレンのことをぶった。ごはんもいっしょにたべられなかった。
おこってるママはレンのことをいじめる。おこってるママはきらい。サクラ、はやくきて。
サクラ・・・・レンのことはやくむかえにきて。ママのことをはやくたすけて。
「あっ、サクラ!夕飯は何がいい〜?ってツバキがいってたよ?」
庭に出るとレンはいつもどおりの笑顔を浮かべて俺を待っていた。
にこにこと、子供らしい純粋な笑顔を浮かべて。
「レン・・・・ごめんな」
「ひゃあ!?な、なに?どうしたのサクラ・・・・?」
しゃがんでレンを抱きしめると恥ずかしそうに身をよじりながら首を傾げた。
「ごめん・・・・」
「変なさくらー・・・?」
この子の笑顔を曇らせないために何が出来るのか。
手を取り一緒に微笑み、それから歩き出した。
俺に出来ることは限りなく少ないだろう。でもこの子はずっと俺を待っていてくれた。
だから俺は応えなくてはならない。それがどんなに狂った関係でも。
この子を守るために、俺に何が出来るのか。
「遅れてごめんな、レン」
「なにが?夕飯まだだよ?」
「いや・・・・そうだな」
俺がうだうだ迷ったり不安になってる暇なんかない。
この子を守るためなら俺はもっと強くなれる。
「今夜のメニューはシチューになりました〜!」
ツバキ『ちゃん』の頭の悪そうな笑顔にレンが拍手を向けている。
妙にテンションが高い二人をコタツに入ったまま眺める。
二人はエプロンをつけて台所に立つと料理をはじめ・・・・っておうい、レンもやるんかい!?
まあ・・・何が飛び出してきたとしてもシチューならそこそこ食えないことはないだろう・・・うん。
待機中、テレビを眺めながら考え事をしていると扉が開いてカナタが姿を現した。
夜は帰ってくることが余り無かっただけに意外だったが、普通にコタツに入ると声をかけてくる。
「調子はどう?」
「まずまずだ」
「それはよかったわ」
数時間ぶりに再会した女はにこやかに微笑んで言った。
「それで、これからきみはどうするの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・なあ、あんた探偵だったよな?」
「そうよ」
「だったら頼みたいことがある」
「そうね」
カナタが鞄から取り出したのは書類の束だった。ずっしりと重量感のあるそれを俺に手渡した。
それは俺が今正に頼もうと思っていたもの・・・・姉貴の個人情報の塊だった。
「・・・・・・・・どうやって手に入れるんだこういうの?」
「ヒミツ」
余り詳しくはつっこまないほうがよさそうだ・・・。
それにしても事前に用意しているとはなんともサービスのいい探偵さんだこと。
「つーか、アンタ最初から知ってたんじゃないのか?姉貴のこともレンのことも、俺がここに来るってことも」
「言ったでしょ?ヒミツ、って。あとそれタダでいいわ。サービスしとくから」
「いいのか?」
「どうせ大してお金持ってないんでしょ」
「うっ・・・」
こいつ只者じゃないな・・・・やっぱり。
悪い意味では電波な、良い意味ではミステリアスな女は豪勢なコートを脱ぎ捨て、しかしこの純和風のボロいアパートには似合わない美しい容姿のままコタツでテレビを見ていた。
何ともいえないこの違和感をどう伝えればいいのか俺はよくわからない・・・。
結局書類を足元に脇に置くとテレビに集中することになった。
二人が作ったシチューが登場したのはそれから一時間近く経った時だった。
「サクラ、あ〜んして」
「・・・・・・・・・・マジか?」
見た目は普通のシチューだったがまさかこう来るとは思わなかった。
仕方なく食べさせてもらうとレンは満足そうに微笑んでそれから俺の口にあらゆるメニューを突っ込みたがった。
あんまり調子に乗るとアレなので頭を拳でグリグリすると大人しくなる。
アンバランスな四人で夕飯を平らげ、お開きとなった。
さっさと寝るというツバキと夜中まで起きているらしいカナタと別れ部屋に戻るとレンはすぐに布団に潜り込んでしまった。
仕方ないので俺も布団に入って考えることにすると甘えるようにすがり付いてくるレンの頭を撫でながらやっぱり考えるのは明日にしようとただレンを愛しむため彼女が眠りにつくまでの間ずっと傍で彼女を抱き寄せていた。
昼が来て夜が来て、そうして普通に目覚めることがレンにとってどれだけ幸せなのか。
その幸せをもっともっとレンにわかってほしくて、俺はずっと彼女の傍に居た。
しかし幸せな生活は長くは続かない。
俺とレンの関係にも、終わりの日が近づいていた。
あとがきおまけまんが
〜それいけ!アウグストス〜
ツバキ「出番とセリフがすくなあああああああああああああああああああいいっっっ!!!」
レン「それただの魂の叫びぢゃん!」
ツバキ「いいなーカナタさんいいなー・・・出番あっていいなー・・・」
カナタ「前作ヒロインだと出番が増えるのよ」
ツバキ「・・・・・それは何気に嫌味ですか?」
レン「け、けんかしないでーっ」
二人「はい、すいません・・・」