(4)白い首
産まれて始めて親父にブン殴られた時、俺はどんな目をしていたのだろう。
自分がどんなに間違っていたってそれを認められない俺はどんな目をしていたのだろう。
口の中に広がる血の味。爪を立てた畳。歯軋りすると奥歯がグラグラしていて涙が溢れた。
自分自身の無力さや整理のつかない様々な感情が瞳から零れ落ちてそれを止める手段を知らなかった。
「――――――ッ!!!」
叫んだ。声にならない声で。自分が何を言っているのかも判らないような奇妙な声で。
そうしなければ耐えられなかった。胸からこみ上げる後悔の波と吐き気の中必死で畳を殴りつけた。
体内を駆け巡るおさえ切れない衝動が俺を駆り立てていた。何かを壊したくて仕方が無かった。
子供っぽい、余りにも幼い感情は何もかもをめちゃくちゃにした。畳も、襖も、拳も・・・。
俺のそれまでの人間関係も、俺という心さえ。
頭を抱えて壁に何度も何度も叩きつけた。止めに入った親父を振りほどき這って部屋を出た。
とにかくどこかへ逃げたかった。こんな現実もこんな自分も理解したくなかったから。
叫び声を上げながら雪の降る庭に飛び出し、泥だらけになるのも気にせず塀を越えようとした。
親父に引っ張り降ろされもう一度殴られると自分でも奇妙な事に笑いがこみ上げ、頭の中が真っ白になった。
「―――――?」
握り締めた拳。手の平に滲んだ血が白い雪の上に零れて落ちて染みを作る。
とめどなく零れる涙はそのとききっと彼果てて、流れる血もそのとききっと全て入れ替わった。
心を凍らせて出来る限り何も考えぬように、全てを忘れられるようにとシャツを強く握り締めた。
泣きじゃくっている母さんと俺をまた殴った親父と、雪の上に血を吐き出した俺と。
そんな俺たちの様子を彼女は縁側に座って眺めていた。理解できないといった不思議そうな表情で。
首をかしげたその姿に自分の中にあった何かが音を立てて焼けて落ちて。
手加減も出来ぬまま親父を殴り飛ばし縁側に駆け寄って手を伸ばした。
「――――――!――――――ッ!!!」
そんな俺を優しく微笑んで見つめると彼女は言葉も発しないまま唇をゆっくりと動かした。
「・・・・・・・・ね・・・・・」
細くて白い首に両手をかけた。
「死ね・・・・・・・・・」
哀れむような穏やかな瞳がゆっくりと閉じて。
自分の瞳から零れる何かで何もかもが見えなくなって、叫んだ。
「死ねえええええええええええええええええええええぇぇえええぇえ〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!!」
食い込んだ爪が彼女の喉を引き裂き血を零した時、俺の中の何かが崩れて消えた。
(4)
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
両の目から零れる大量の涙で俺は意識を取り戻した。
さっきまで何かを思い出していたはずなのにその記憶がごっそりと消え去っている。
だというのに次の瞬間にはそんなことは全く気にならなくなっていた。
「・・・・・・・・・あれ?」
今日一日の記憶がすっぽり消えてなくなっている。
気づけば部屋は真っ暗で夜になっていることを嫌でも気づかせてくれる。周囲には人の気配は無くどうやら俺は一人きりでここに寝かされていたようだ。
何も思い出せない頭を抱えて異常な心音を宥めるため深呼吸を繰り返すとようやく布団を抜けた。
「・・・・・・・・・レン?」
部屋を出て寒い通路を歩く。
レンが行きそうな場所が他にわからなかったのでツバキの部屋に行こうとしたところ、階段脇に立っていた女に足止めを食らってしまった。
立ちふさがるように俺の目の前に立った女・・・片瀬カナタは相変わらず何を考えているのかわからない無機質な瞳で俺を見つめている。
「・・・・・・・あの、何か用・・・・っ」
言葉を最後まで口にする前に俺の顔面を強烈に平手打ちしたカナタは驚いている俺に詰め寄り、言った。
「あなたは狂ってる」
「・・・・・・・・は・・・・っ・・・・・はぁ?」
「あなたは狂ってる、って言ったの」
言葉を失った。一体何がどうなっているのか俺にわかるように順序だてて説明してほしい。
女は至って真剣な顔で俺の手を取ると自分の部屋まで俺を引っ張りこんだ。
カナタの部屋は何をどういじくったのか他の部屋の内装とは全く違い、フローリングの床にモノトーン調の家具が並ぶ少々味気のない、しかし小洒落たものだった。
だが狭いのは変わりなく、ベッドの上に座ったカナタは俺も隣に座るように催促する。
「・・・・・・・・で・・・・・俺に何か用ですか?」
「用というか、忠告。あなたはまだ間に合いそうだから」
間に合う?何が?
「このまま行くと、あなたレンちゃんを殺してしまうだろうから」
「・・・・・・・・あ?」
何を訳の分からない事を言っているのか。
いきなりそんな話をし始めるあたり前々から思ってはいたがこの人は電波なのだろう。
全く真に受けずさっさと部屋を出て行こうとする俺の手を引き、カナタはあろう事かカッターナイフを俺の首筋に押し当てて来た。
その一連の動作が何故か洗礼されていて、まるで今まで何人もの命を奪ってきた熟練の暗殺者を前にしたかのように俺は何も言うことが出来なかった。
電灯もつけない暗闇の中、窓の向こうに浮かぶ満月とその光を反射して輝くナイフだけが静かに存在を誇示している。
「・・・・・・・・・冗談はやめろ・・・・そんなもん取り出してどうする気だ・・・・」
「わたしの目を見て、まだ冗談だと思えるのならあなたは才能ないわ」
「何の才能だよ・・・っ」
「殺しの、よ」
「・・・・・・・・・・・・・っ!!」
手の甲でカッターを弾いて後ろに下がる。
だというのに手には傷一つなかった。まるで吸い込まれるようにカナタの手を離れることなく静かに彼女のもう片方の手の中に飛んで収まったナイフは血の一滴もついてはいなかった。
なんだかわけがわからなかったがとにかく只者じゃないことは間違いない。それに何をどうしたらこんなサイコなやつが産まれるのかわからないが、まともじゃあない。
「狂ってるだと・・・・そりゃアンタの方にこそお似合いだよ・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふう」
小さくため息をついたカナタはあっさりナイフを収めると先ほどまでの恐ろしい空気はどこへやら、緩やかな瞳で俺の肩を叩いた。
「ついてきて。レンちゃんが待ってる」
「・・・あ・・・・あぁ?」
わからない。何がどうなっているのか、さっぱり。
多分一生、この女の気持ちはわからないのだろうなと・・・何となく思った。
連れて行かれたのは当然ツバキの部屋だった。ただし一つ記憶と違ったことは俺が部屋に入るなりツバキはまるで怯えるように瞳を揺らしていたことだ。
レンはコタツに入ったまま寂しそうに俺の顔を見上げている。
「調子はどう?レンちゃん」
「カナタさん・・・・うん、だいじょうぶだよ」
「レン・・・・・・!?どうしたんだ!?」
慌てて駆け寄ってレンの身体を調べる。
レンの首には白い包帯が巻かれていた。他にも怪我をしている箇所があるのではないかと思い見てみたがそんなところはなかった。
それには安心したが何故怪我をしてしまったのか・・・・首筋に触れるとレンの表情が少しだけ強張った。
「大丈夫か・・・・?まさかカナタ・・・あんた・・・・レンに何かしやがったのかっ!?」
「何かしたのはきみ」
「・・・・・・・・・・は?」
「もっと判りやすく言わなくちゃわからないか」
俺の手をレンの首に当て、細くて白くて・・・少し力を入れたらぽっきり折れてしまいそうなそれに手を当て、それから俺の耳元で静かに囁いた。
「きみが、レンちゃんの首を絞めて殺そうとしたの」
息を呑んだ。
「覚えてない、じゃ済まないんじゃない?」
「か、カナタさん・・・いいじゃないですか、大事にならず済んだんですから」
慌てて仲裁に入ったツバキの一声でカナタはコタツに入った。
自分の手を見ると小刻みに震えていた。何も覚えていないのに確かに手が、指先が、爪が覚えている。
何か大事なものをごきごきと、ごきごきぼきぼきと、折ってしまいたいと思っていた事を。
寒いはずなのに大量の汗がじっとりとシャツを濡らしていた。腰が抜けるように俺は腰を下ろす。
呼吸をする事すら忘れたままレンを見上げるとその目は不安そうにゆらゆら揺れていて。
「あっ・・・・くっ・・・・・・・・」
慌てて下がった。どこまで下がればいいのかわからないまま壁に激突し頭を打ち付ける。
片手で頭を抱えながら、しかしレンから目を逸らす事が出来ないまま、俺は思考を整理する。
そんな記憶なんてない。今日の記憶なんてない。何もない。だからやってない。
なのに覚えてる。今日の記憶を体が覚えてる。何もないはずなのに。
「ごめ・・・ごめん・・・レンごめん・・・何で俺そんなこと・・・・ごめん・・・・ごめん・・・・・っ」
逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。レンが何を考えているのかわからないのが恐ろしく不安だった。
あんなに優しかったはずのツバキも、あんなにふざけた目をしていたカナタも、今はただ俺を静かに見つめている。
こんなことが前にもあった気がする。だからそれが恐ろしくて恐ろしくて部屋を出ようと立ち上がった。
「どこに逃げる気なの?」
足が止まる。カナタの言葉が杭のように俺の足を大地に打ち付けて歩く事を許さない。
全身を駆け巡る悪寒と様々な暗い感情の嵐の中、ゆっくりと振り返った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
震える手を心臓に押し付けて必死で目を瞑る。
心を落ち着かせろ。凍らせてしまえばいい。どんな感情も必要ない。
今まで出来たんだ、やれ。やるしかない。今やらなくていつやるのか。やれ。
心を止めろ。感情を凍てつかせろ。何もかもを止めて冷静になるんだ。
「・・・・はあ・・・・・はあ・・・・・・・・」
ゆっくりと瞼を開ける。
「ふう・・・」
全身を駆け巡っていた感情はいつの間にか消え去り俺はいつもどおりの自然体で振り返る事が出来た。
ああ、そうさ。所詮こいつらは俺にとってはただの他人に過ぎないし、レンを殺そうとしたなんて何かの間違いだ。
だからこいつらに嫌われても俺は別に何ともないし、レンが不安がっているならもっと優しくすればいいんだ。
そんな簡単な事に慌てているなんてなんとみっともないことか。
「すまないレン・・・・・・・でももう大丈夫だから」
「・・・・・・・・・サクラ・・・全然大丈夫って顔してないよ・・・?」
「俺が大丈夫って言ったら大丈夫なんだよ」
「うそ」
レンは相変わらず不安そうな瞳のままコタツを抜け出して俺の前に立っている。
その不安の矛先は自分自身の安全ではなく、
「サクラ・・・・そうやって笑ってる時はいっつも悲しそうだよ・・・・」
俺の心の心配をして、それを不安に思ってくれていたのだ。
「・・・・・・・ありがとうレン・・・・でも本当に大丈夫だ」
足にしがみついたままズボンに顔を埋めているレンの髪をわしわし撫でる。
それから恐らく迷惑をかけてしまったのであろう二人に頭を下げた。
なんでも放心状態で部屋に戻ってきた俺とレンだったが、庭先で突然俺が無言でレンの首を絞め始めたんだとか。
なんのそぶりも無く、まるでそうすることを最初から決めていたかのような動作に始めは俺が明確な殺意を持っているのかと思っていたらしいツバキは俺の頭を持っていた竹箒で叩いた。
すると大して威力も無いはずのそれで俺は気絶してしまい、現在に至る。
「サクラ君が唐突にレンちゃんを殺そうとした時はすごくびっくりしたけど・・・もう大丈夫なんですね」
「はい・・・・・・・なんか治療までしてもらったみたいで・・・すいません本当に・・・・」
「いいのいいの、これもね、ちょっと首に爪で傷がついちゃってたからそのためであって折れてるとかそういうのじゃないから」
「そうですか・・・・」
不幸中の幸いといえばその事だろう。
レンにたいした怪我がなかったこと・・・それが何よりも俺の心を落ち着かせた。
相も変わらずレンは俺に懐いてくれているし、ツバキも俺を責め立てたりしなかった。
ただ一人何を考えているのかわからない自称探偵だけが俺にとっての気がかり・・・。
「それじゃ部屋に戻るから、お大事にね」
「へっ?あ、はい、おやすみなさ〜い」
気がかりはツバキに見送られてあっさり帰ってしまった。
彼女の事に関しては何か考えるだけ無駄な気がしたので俺は思考を切り替える。
「それでサクラ君は本当に何にも覚えてないのね?」
「はい・・・・・・・何も・・・・・・・」
「・・・・・・・うーん・・・・本当なら警察にでも電話したほうがいいんだろうけど・・・・」
「だめえっ!!」
俺とツバキは驚きながらレンを見た。
レンは目に涙を溜めて俺の腰にしがみついていた。
「・・・・・・・・・と、本人も言っていることですし・・・・私はサクラ君を信じますね」
「・・・・・いいんですか?こんな怪しいやつをアパートに入居させたままで」
「ふふふふっ・・・怪しい人しかこのアパートには居ませんので大丈夫ですよ」
そうなんだ・・・。
何はともあれ様子見ということで俺たちはまだ辛うじてここに居られるようだった。
レンは最初からそんなつもりはなかったのか俺を気遣いながら一緒に歩いてくれた。
部屋に戻って時計を見ると時刻は既に午前零時を回って日付が変わってしまっている。
布団の上に腰掛けると盛大にため息をついてその上に寝転んだ。
記憶は完全に消滅していた。一体どんな風に衝撃を与えれば記憶がこんなさっぱり消えるのだろうか。
「もしかしてツバキちゃんのせいか・・・?」
「ねーサクラ、だいじょうぶ?まだ顔色よくないよ?」
「そうか?じゃあ今日は早めに寝ようか」
「うんっ!不安にならないようにあたしが隣で寝てあげるからね!」
その笑顔と気持ちは嬉しかったが、自分でもわからないままに凶行に及んだという事実からむしろ隣に居られると不安でしかたがなかった。
自分自身の気持ちをきちんと把握できるよう、心を沈めながら暗闇の中目を閉じ続けた。
やがて疲れていたのかあっさり寝付いてしまったレンの様子を確認しその髪を撫でてから部屋を出た。
誰も居ない夜の街を一人歩きながら携帯電話を取り出す。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
何故か知らないうちにボタンを押していた。
呼び出し音が止まると不機嫌そうな親父の声が俺を出迎えてくれた。
「もしもし?俺・・・サクラだけど」
『サクラか・・・まあそんなこったろうと思ったが・・・なんだ?こんな遅くに』
「単刀直入に聞くけど・・・・姉貴って何で死んだんだ?」
そんなことも知らなかった自分と、そんなことも知ろうとしなかった自分、そしてそれを急に知りたくなった自分に気味が悪くなったが、その質問をする口調に戸惑いは無かった。
親父はしばらくの間悩んでいたのか間を空けるとやがて重苦しく口を開いた。
『自殺だ』
「自殺・・・・・・?」
『自殺、としか言いようがなかった。全身燃えて燃え尽きて死体で見つかったんだよ』
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
『お前は死体を見ていないからわからないだろうがな、あれはもう見ただけではきっとヒイラギだと判断出来なかっただろう』
「そう・・・・か・・・・・・ありがとう」
『おい、そんなことよりサクラ・・・・レンのことだが、』
なんだか面倒くさそうな話になりそうだったので即刻通話を中断した。
冷え込む夜の街の中一人きり携帯電話を握り締めて思う。
何故姉貴は自殺なんかしたのだろうか。何故レンを残して死んだのだろうか。
今はそれどころではなくて、俺自身のほうが問題で、不安でたまらないのに・・・何故かそんな事を考えている。
そうだ。昔からそうだった。
俺は自分でも理解できない様々な感情を持っている。人ってのは多分そんなものだと思う。
時々それが所構わず暴れまわって何もかもめちゃくちゃにしてしまうこともある。
そしてそれが、そんな自分でも理解し難い心の中にある何かが・・・知らなければならないと囁いたのだ。
「なんで死んだんだ・・・・・姉貴・・・・・・・・?」
そうして俺とレンの奇妙な共同生活が始まった。
互いに正月休みである俺たちは朝から晩まで時間を共にした。
俺は出来るだけレンに優しく出来るように、彼女を傷つけないようにと必死で気をつけた。
これ以上何かあったらレン自身も、レンと俺とのハリボテの絆もぶち壊してしまう気がして恐ろしかったから。
夜はろくに眠れなかった。眠ってしまったらレンをまた殺そうとしてしまうのではないかと思うと眠るどころか目が冴えて仕方が無かった。
昼間、レンがツバキと一緒に居る間・・・読書をするフリをして少しずつ眠った。
穏やかな時間が続いた。何日も。自分自身の感情の謎も姉貴の存在も何もかもが少しずつ薄れて滲んでいくような静かな時間に身を任せていた。
色々な事を考えなくてはいけないのに一行に思考は働かず、何もせずただ何もしないまま時間だけが過ぎて。
まるで夢を見ているようだった。こんな時間がずっと続けばいいと願った。
そんなつかの間の日常が崩れ去ったのは、それから一週間ほど経ったある日の午後の事だった。
「やあどうも、始めまして」
男だった。
スーツ姿の男。爽やかな印象を受ける短髪と大人びた笑顔。少々胡散臭くはあったが第一印象は良好。
そんな男が庭先に居た俺に声をかけてくると、俺もまた何も言わないわけには行かない。
「はじめまして・・・・ところであなたは?」
「ああ、すまないね・・・僕は里見シンイチ。東京で開業医をしている者だ。君がサクラ君、でいいのかな?」
「・・・・はあ。確かに俺がサクラですけど・・・・何か?」
「いや・・・娘がここにまだいると聞いてね」
「は?」
耳を疑った。
男は笑顔を浮かべたままその名前を呼ぶ。
「レンがここに居るんだろう?愛染サクラ君」
全身がざわつくのを感じた。
何か訳のわからないものが張り裂けて噴出してドロドロと全てを塗りつぶしてしまいそうな感触。
返事が無い事を不思議に思ったのか無防備に首を傾げている男に俺は、
「・・・・・・・・・」
肩を、叩かれていた。
黒いコートを着たカナタは俺の肩を叩いて目を覚まさせる。
いつからそこにいていつから見ていたのかわからないが、とにかく心のざわつきは収まっていた。
「はい、確かにレンはここにいますけど・・・・あの、娘っていうのは?」
「ああ・・・・・・・・まあ、娘になってほしい・・・と言うのが本音なんだけどね・・・むしろ僕の願望だよ」
男はネクタイを緩めて苦笑する。
「生前から顔を出してはいたんだが、どうにもレンには嫌われていてね・・・」
と言っている傍からツバキの部屋から飛び出してきたレンが里見の顔を見るなり足を止め固まってしまった。
敵意、という表現が一番しっくりくるだろう。レンはそんな目を、俺が見た事もないような目を里見に向けていた。
「久しぶりだねレン。会いに来たよ」
「帰ってください!」
それだけ大声で叫ぶと再びツバキの部屋に飛び込んでしまった。
鍵を閉める音が聞こえると里見はため息を付いて笑った。
「いやはや・・・こんな具合でね」
「随分と嫌われてるんですね・・・・・・・」
「あの子はむしろ誰にも懐かないよ。だから君は大した物さ・・・一体どんなテクニックを使ったらあの子の心をキャッチできるのか、ぜひご教授願いたいものだよ」
「いや・・・・そんなんじゃないですけど」
何故かざわざわしている感情を抑えながら出来るだけ冷静に答える。
男は思い出したようにポケットから封筒を取り出すとそれを俺に手渡した。中身は大量の一万円札。
「レンの面倒を見てもらっているようだからね。これで足りると思うが」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
それは、男がポンと取り出したその金額は、俺が一生懸命に働いてきた金額なんかよりずっと多くて。
何も考えられなくなる。きっと色々な感情が胸の中に渦巻いているのだろうけれど、それを凍らせて止めてしまっている今の俺にはわからないから。
「とりあえず今日は出直すとするよ。それじゃサクラ君、しばらくレンをお願いしていいかな」
「・・・・・・・・・はい」
男は去っていった。
自然と男に手渡された封筒を強く握りつぶしていた。
冷静な思考と心の中、何となく湧いて出た言葉を無意識に口にしていた。
「あいつ・・・・殺さないとまずいか」
「サクラ」
「え?」
振り返るとまだいたのか、カナタが立っていた。
そういえばレンに事情を聞かなければならない。こんなところでぼーっとしている場合ではなかった。
「悪い、ちょっとレンに話を聞いてくる!」
「・・・・・・・・」
腕を組んだまま無言で俺を見送るカナタ。
中に居るレンに声をかけて鍵を開けてもらうといじけてそっぽ向いているレンの頭を撫でる。
「さっきの人はなんだったんだ?親父は父親はわからないっていってたぞ」
「・・・・・・・・・・・・・しらない」
「でもレンのこと娘だって・・・・」
「しらないってばあっ!!!」
一瞬だけ俺にも敵意のような感情を見せ、レンは部屋を飛び出して行ってしまった。
「レン・・・・・」
追いかける事も出来ないまま立ち尽くす。
手にした膨大な万冊の重さだけが酷く不快に手に残っていた。