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嗜虐日和  作者: 腐滅
2/2

類は友を呼ぶ

 教室に着くと、静紀はぐったりと自分の机に突っ伏した。

 今朝は散々な目に遭ったものだった。まさかあのような事になるとは夢にも思っていなかったが、過ぎた事を悔やんでも仕方がない。幸い、あの少年は静紀と同じ学校の生徒であるようだが、クラスまでは同じではない。そもそも、学年すらも定かではない。今後、廊下で偶然すれ違う事すらないかもしれない相手だ。そう割り切って、もうあの事については考えないようにした方がいいだろう。

 それはともかくとして、そもそも曲がり角で人と衝突するような失態をしでかしたのは、ひとえに静紀が寝坊して余裕を失くした所為である。通常通りの時間に起きられてさえいれば、あるいは昨夜、通常通りの時間に布団に入ってさえいれば、あのような醜態を晒さずに済んだ筈だ。

 元を辿れば、要は静紀の自業自得である。後の事を考えずに一時の快楽に身を任せていれば、その先に破滅が待っているのは自明の理である。ここは被害が軽度で済んだ事を僥倖に思い、これを教訓として胸に刻むべきだ。節度の取れた生活習慣の維持は、年齢や国籍を問わずに重要な課題だ。

 とはいえ、頭ではそう潔く割り切る事が出来ても、やはり感情的に自分の失敗を引きずってしまうのが静紀だった。自分のものであるとはいえ、心とはままならないものである。

“ああ……なんでこんな事に……どうしよう……変な噂を立てられなきゃいいけど……”

 見事な土下座でもしているかのように額を机に押し付け、1人煩悶とする静紀。尤も、椅子に座っている為、土下座のような状態にあるのは上半身のみである事は言うまでもない。

 鞄の中身を散らかしてしまった時、道路に散らかったのは教科書やノートといった教材の類だけではなかった。静紀のごくプライベートな物もまた、文字通り白日の下に晒されたのだ。無論、それも元を辿れば、鞄の中にそのような私物を入れていた静紀の自業自得である。

 しかし、事の責任が誰にあるにせよ、晒した恥に関して言えば、やはりいたたまれない思いがするものだ。

 いつまでも落ち込んでいても仕方がない。しかし。そう頭では分かっていても失敗を引きずるのが心である。ならば、その心とやらを上手く誘導してやればいい。調教と言えば飴と鞭の使い分けが必要だが、ここは心に飴を与えるのが得策だと静紀は判断した。調教相手は自分の心である為、どのような飴ならば効果的なのかという事は熟知している。

“……うん。妄想でもしてるか”

 頭の中で空想の世界を広げるだけのつもりだったが、静紀は無意識的に、手にシャープペンシルを握っていた。

 気付いた時には、静紀の机にはひとつの絵が出来上がっていた。自分でも中々の傑作だと思えた為、それを消さねばならない事が残念でならなかった。やはり、絵は紙に描くべきものだ。

「朝から何描いてんの、静紀?」

 突然横から声を掛けられ、静紀は咄嗟に手に持ったシャープペンシルを置いて、その手で机に描いた絵を隠した。そのまま、さりげなく母指球で擦って絵を掻き消す。

「お、おはよう、啓那(あきな)ちゃん」

 級友の花岡(はなおか)啓那に朝の挨拶をし、静紀は適当に質問をはぐらかそうと試みた。

 それを許すような啓那ではないが、既に静紀の右手の下では、机に刻まれた炭素の粒は、記号としての意味を為さない程に配列を崩している。この手をどけてみたところで、どんな絵が描いてあったのかを推し量る事は不可能だ。

「おはよう。さて、隠しても無駄だぞ? 一体何を描いていたんだ?」

 そう言って、啓那は容赦なく静紀の右手を掴んで引き上げた。机に描かれた絵を覆い隠していた防壁は脆くも敗れ去ったものの、不埒な賊に奪われるくらいならといった調子で、自ら全てを消し去った後である。そこには、薄汚れた鉛筆の跡があるだけだった。

「自分で消したか。そうまでして隠そうとするとは……気になるな」

「ちょっと失敗したから、他人には見られたくなかったんだよ。啓那ちゃんは何か描かないの?」

「私は別に……。それより、そんなに絵描くのが好きなら、もっとちゃんと部活に顔出せばいいのに。静紀って、部活だとあんまり絵を描かないよね」

 ふと思い出したように素朴な疑問を投げ掛けられ、静紀は笑って誤魔化す。

 部活動として所属している漫画研究会では、静紀は主にアニメチックにデフォルメされた少女の絵を描いている。それらは静紀の絵の好みと一応は合っているものの、本当に描きたいものかと聞かれれば頷き難いところが多分にある。とはいえ、本当はどんな絵を描くのが一番楽しいかという事は、口外出来る筈もない。

「いやぁ……。私って結構気分屋だから、思い付いた時に思い付いたものを描く自由な人間なのだ」

 尤も、流石に描きたいものを人目を憚らずに描く程には、静紀も自由な人間とやらではない。もしそうであれば、先程も隠したり消したりする事なく、啓那が来てからも絵を描き続けていただろう。

「締切はちゃんと守るのはエライと思うけどね。それを見越して初めから仕事量を少なく見積もっているあたり、ちゃっかりしてるけど」

「ははは。こう見えて賢いところもあるからね、私」

「どっちかって言うと、ズル賢いって感じじゃないの?」

 冗談めかして自慢する静紀だったが、啓那はそれを容赦なく切って捨てた。

「手厳しいなぁ、啓那ちゃんは」

「はいはい。いいからたまには部活に顔出しなよ」

「まるでヒトを幽霊部員のように言うね。そこまでサボってはいないでしょ」

 そう言ってふくれっ面をして見せる静紀は、これ以上朝の失態について余計な考えを巡らせるような事はなかった。


 そうこうして気持ちを取り直した静紀だったが、早くもその日の内に、再び気分が急降下する事となった。

 時刻は午後4時過ぎ。その日1日の授業が全て終わり、言わば放課後となった頃の事である。その時ちょうど静紀は、珍しくも漫画研究会の活動に赴こうとしていたところだった。

「……え、えっと……その……」

 しどろもどろになって口ごもる静紀。動揺が露骨に表れてしまっている顔で不自然に目を逸らす少女に、少年は眼鏡の奥から冷ややかね目を向ける。

 彼こそ、今朝静紀が真っ向からぶつかりに行ってしまった相手だ。しかし、彼は何も、今朝の粗相を詰りに来た訳ではなかった。本人は友好的に接しようとしているつもりらしいが、生まれ以ての仏頂面の所為でそう見えないだけである。

 とはいえ、この男子生徒が口にしているのは、静紀にとって尚更追求を避けたい話題だった。その手の中で、とある絵の描かれた紙がひらひらと舞っている。それから目を離そうとしても、静紀の目はその絵に釘付けだった。

「いや……それはその……ちょっと、ヒトに頼まれたもので……あ、私、漫研だから、それでね……」

 そう言って誤魔化そうとする静紀だったが、それが嘘である事は誰の目にも明らかである。いくら初対面に等しい相手だとはいえ、少年もまたその言葉を額面通りに受け止めて信じる筈もなかった。

「それにしては、随分と動揺してるね。別に隠さなくてもいいよ、今更。誰かに言いふらすつもりもないし」

「いや、だから、その……別にそういう訳じゃなくてね……えっと……」

 何故このような状況になっているのか、その説明は一言で済む。即ち、今朝ぶつかった際に散らかった私物について、静紀は彼に言及されているのである。

“あうう……最悪だ……。やっぱり家に置いて来るべきだった……なんで鞄の中になんか入れたんだろ、私。ホント馬鹿なんじゃないかな”

 内心で後悔の言葉を呪詛の如く自らに投げ掛ける静紀とは対照的に、少年はまるでどう話を切り出せばいいか決めあぐねているかのような顔をしている。無論、その奇妙な様子に気付くだけの余裕は、今の静紀にはない。それにさえ気付けていれば、こうも動揺する必要もないというものなのだが。


 話を遡る事、僅か5分程前。部活に出席しようとした静紀は、廊下にいたところを後ろから呼び止められた。

「――あの、すみません」

「はい、なんでしょ――う……」

 振り返った先に待ち受けていた顔に、静紀は硬直した。そこに居たのは、なんと今朝衝突した男子生徒である。クラスどころか学年も部活も分からない相手だった為、相手もまた自分の事はまるで知らないだろうと思い、今朝の事件も数日とせずに忘れてくれるものと思っていた。

 その矢先にこれである。わざわざ声を掛けて来たという事は、即ち相手が自分に何かしら用件があるという事に他ならない。

 静紀の思い付く限りでは、その用件とは今朝の衝突に関係する事以外には無い。そもそもそれが互いに初めて顔を合わせた機会である為、全く無関係という訳がないだろう。委員会の仕事といった他の用件で偶然静紀に声を掛ける事になったという可能性もないではないが、それは極めて低い。

「急にすみません。今朝の事なんですが――ああ。俺は2年の八雲(やぐも)奈沖(なおき)っていいます」

 そう考えていた静紀だったが、奈沖と名乗った男子生徒の一言で、現実に直面させられた。

 無論、賠償などの問題が発生するような事故ではなく、今更蒸し返すような話でもない。それをわざわざ持ち出すという事は、その先は自明である。

「あ、はい。今朝はすみませんでした……。えっと、私も2年生で……天野静紀っていいます……」

 混濁した思考が荒波を打っていたが、自己紹介だけは滞りなく出来た。しかし、静紀の目は不自然に泳ぎ、内心の動揺が表に出ている。

“いや、まさか……ね。ナイナイナイ。いくら何でも、そんなわざわざ声を掛けて来る程の事じゃ――”

「これ。回収し忘れてましたよ」

 そう言って、奈沖は鞄から一枚の紙を取り出した。

 その手に差し出されたのは、他でもない、静紀の描いた絵だった。そして、その絵の内容は、如何にも戦いに負けたような様子で血塗れになってぐったりと倒れている、アニメチックな衣装に身を包んだ1人の少女である。

“終わった……。どうしよう……”

 奈沖は親切に拾ってあげたつもりだったのだろうが、むしろ静紀としては、取り零した絵の存在には気付かずにいてくれた方がありがたかった。漫研で描いている絵ならばまだしも、個人的な趣味の範囲で描いている方の絵は、出来れば人に見られたくはなかった。

 その趣味とは即ち、少女が傷付きもがき苦しむ様に快楽を見出すというもの。人間ならば誰しもが多少は持っているであろう加虐嗜好を推し進めた、ある種外道とも言える悦びのカタチである。

 静紀自身、この嗜好が一般的に好まれているようなものではない事は弁えているので、この趣味嗜好・性癖に関しては友人にも秘匿しておこうと決めていた。

 それが、互いにまるで知らない赤の他人に対してとはいえ露見してしまった事は、少なからず恥ずかしかった。それに加えて、彼が静紀の周囲の人間にこの事を伝えるという可能性を否定するだけの論拠はない。

 静紀の趣味嗜好が全開になった絵が、今こうして、奈沖の手元にある。この奈沖なる少年はこれを使って自分を脅迫でもしようと言うのだろうか、などと考えが及ぶのは、日頃の妄想の賜物だろうか。少女が苦悶する姿にはつい恍惚としてしまう静紀だが、当然ながら自分がそのような立場にはなるのは願い下げである。

「この絵……君が描いたんだよね?」

 単刀直入に質問を投げ掛けられ、静紀はどう答えればこの場を無事に切り抜けられるのか、咄嗟に分からなくなった。


 そして、現在に至るという訳である。実際にはものの5分程度のやり取りだったが、静紀には小1時間近い拷問にも感じられた。

「いや、だから、その……別にそういう訳じゃなくてね……えっと……」

 言葉を探しても見付からず、すっかり静紀は迷子になっていた。その羞恥に赤面した様子を見て、奈沖は些か呆れたように溜め息を吐く。

「別に隠す必要はない。さっきも言ったけど、誰かに言いふらすつもりは毛頭ないから、その辺は安心してくれていい。他人の趣味についてどういう言うつもりもないしね」

 その言葉に、静紀は少しばかり安堵の息を漏らす。しかし、まだ完全に警戒を解いた訳ではない。なぜなら、まだ相手の意図がまるで読めないからだ。

 とはいえ、素朴な疑問がひとつ、頭に浮かんだ。そちらを解決する方が先決である。

「ヘンじゃない……かな……? いや、別に、こういうのが好きだっていう訳じゃないんだけどね。もし、こういうのが好きな人がいても、別にその人はヘンな人じゃないのかな、って――」

「だから、隠さなくていいと言ったろう。というより、今更誤魔化しても遅い。君にそういう趣味がある事は、こっちももう分かっている。

 ――だから、こうしてわざわざ声を掛けたんだよ」

「……ふえ?」

 奈沖の言った事が咄嗟には理解出来ず、静紀は忘我の呟きを漏らした。数秒遅れて、頭の中にひとつの可能性が浮上する。

「八雲君、だっけ? もしかして……君も、こういうのが好き……なの?」

「そういう事だ。同じ穴の狢なんだから、隠す理由は何もない」

 その言葉を聞き、静紀は拍子抜けしたように呆けた表情になった。足から順に、奇妙な脱力感が湧き上がって来る。どうやら、朝の後悔と煩悶も、先程の混乱と動揺も、全てが杞憂だったようである。

 事実を認識すると、静紀は照れくさいような表情ではにかんだ。

「なぁんだ。声掛けて来たから何かと思ったら、君もリョナラーだったんだ。1人で色々と心配してた私が馬鹿みたい」

 表情をころころと変える静紀とは対照的に、奈沖は冷めた表情で相手の様子を窺っている。

「それで、何? リアルでリョナ友になろう、って話?」

「リョナ友って……まあ、当たらずとも遠からず、といったところだな」

 その奇妙な言い回しを若干不審に思ったものの、静紀は生まれて初めて同好の士に出会った為か、些か有頂天といった調子になっている。

「わぁ……! 私、初めてだよ。他にこういう趣味を持ってる人に会ったの。

 ネットにリョナ絵とかリョナゲーとかが上がってるから、それを作る人がリアルにも居るんだなって思ってはいたけど、こうして直接会えるとは。意外と近くに居るもんなんだねー!」

 1人でさも和気藹々としているような気分になり、静紀は満面の笑みで機関銃の如く喋り出していた。先程までの不安から、一気に話の分かる相手との出会いへと、状況が変わったのだ。地獄から天国までとはいかなくとも、相当の差がそこにはあった訳である。

 対して奈沖の方は、打って変わって饒舌になった静紀の様子に、些か辟易しているようにも見える。眼鏡のレンズの奥では、その猛禽のような鋭い目に、若干の困惑の色が滲んでいた。

「こういう絵ももっと描きたいっていうか、やっぱり女の子を描くならダメージ演出とかは絶対に必要だなって思うんだよね。というより、それこそ描きたいし。ただ可愛いだけじゃつまんないよ。でも、流石に漫研でそこまでハードなものを描く訳にもいかないし、妥協して戦闘モノとかを描いてみてるんだよね」

「……思った通り、君の頭が相当イッちゃてるのはよく分かった。どうせ、昨日も徹夜でリョナゲーして朝寝坊したとか、そんなところなんだろう?」

「うわ、よく分かったね。そうなんだよ。日付が変わる前に切り上げるつもりが、ステージ攻略が難しくって何回も死んじゃって、つい、ね。クリア出来ないと意地になっちゃうし、死ぬ度に悲鳴のボイスとダメージ演出が愉しめちゃうから、やめられなくてさぁ」

 すっかり気分をよくした静紀は、さりげなく侮辱の言葉を投げ付けられた事にもまるで気付いていなかった。奈沖は、これで本日何度目になるか分からない溜め息を吐く。

「そろそろ、本題に入っていいかな?」

 早くも疲労が滲んで見える目で見られ、静紀は笑って誤魔化す。

「あ、ごめんね、私ばっかり喋っちゃって。――それで、何?」

 屈託なく笑う静紀に、奈沖は落ち着いた声で言った。

「俺の友達――そいつも所謂リョナラーって奴なんだが、PC部の部長をやってる。そいつがアクションゲームを作りたがっていて、今、絵師を募集中だ。君、興味ないか?」

 断片的に与えられた情報が、静紀の中で一瞬の内に連結した。自分と同じ趣味の者がいて、その人物はゲームを作ろうとしている。そして何より、自分の趣味嗜好を知った上で、あえて自分に直接話を持ち掛けて来た。その意図するところは明白である。

「つまり……一緒にリョナゲーを作ろう、って事?」

「そういう事だ」

 その簡潔な答えに、静紀の目は無垢な子どものように輝いた。

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