この露見は自業自得
後ろ手で慌ただしく玄関の戸を閉め、天野静紀はトーストを片手に走り出した。傍目に見ても、寝坊して学校に遅刻しそうになっている高校生そのままの風体である。
苺のジャムを塗った食パンのトーストを加えながら、静紀は小走りに道を急ぐ。この行儀の悪い行動も、ありふれたシチュエーションなようでいて、存外中々現実にお目に掛かる事は無いものだ。事実、静紀にとっては幸いな事にも、この醜態をその目で見届けている者は居なかった。
左手で肩に掛けた鞄の紐を押さえ、右手で持ったトーストを口に運ぶ。その間にも両足は忙しなく前後して体を前に進めさせ、口は右手から運ばれて来たトーストを噛み千切って咀嚼する。まさに全身を稼働させ、あらゆる動作を並立して遂行していく。それを熟せないのであれば、静紀は学校に遅刻するしかない。
“ああ、もう……なんでもっと早くに切り上げなかったのかな、私”
内心で自堕落な自分に対して愚痴を零しつつも、静紀は昨夜の行動に加えて今朝の行動もまた後悔した。
トーストを口に詰め込みながら走るような事はせず、ラップに包んで持っていくなりして、後で教室などで食べればよかったではないか。走りながらの食事というのは消化にも良くないだろうが、それ以前に非常に食べ辛い事この上ない。噛み砕き唾液で溶かしたパンを嚥下するだけの行為すら、小走り程度とはいえ走行中では困難だ。
また一口噛み千切り、唾液と混ぜ込ませながら前歯で細かく刻み、奥歯で磨り潰す。小さな閉鎖空間ではあるが、小刻みに揺れている為、危うく舌を噛んでしまいそうになる。その僅かな可能性を拡大させている静紀ではあるが、やはり自分の舌を噛みたくはなかった。
右手に持ったトーストは、既にその体積を半分程にまで減らしている。まだ少々大きいが、一気に口の中へ詰めてしまいたくなる。口の中に広がる苺ジャムの甘味を飲み込むと、静紀は空になった自身の口へ、右手に持った全てを放り込んだ。口の中がパンとジャムでいっぱいになり、ふとコーヒーが欲しくなった。
一応、鞄の中には昼食時や休憩時に飲む為のお茶が入っているので、それを飲んで口の中を洗い流す事は出来る。とはいえ、おにぎりならともかくパンにお茶というのは、組み合わせとしてはよろしくないだろう。これが米粉パンや黒糖パンならいざ知らす、苺ジャムを塗った食パンのトーストである。セットメニューの企画としては下の下だろう。
しかし、この際は選り好みしてもいられない。飲み物があるだけまだいいというものだ。これで鞄の中に飲み物が無かったら、学校に着いてから水道の蛇口を捻るくらいしか方法が無かった。今直ぐ飲めるというだけで十分だろう。
一口で食べるには些か大き過ぎた為、頬を内側から圧迫する程の体積が口内で暴れている。それを少しずつ嚥下しようとし――
「――んぐっ!? んむぅ……」
静紀は走りながらトーストを飲み干そうとして、それを喉に詰まらせた。
アニメなどではよく見かける光景なので出来るだろうと思ったのだが、どうやら無理だったようだ。一旦立ち止まり、噎せそうになりながらも口に詰めたパンを飲み込む。先程感じたよりも輪を掛けて、静紀はコーヒーが欲しくなった。むしろ、飲める液体であれば何でも構わないと思った。
ふと、静紀は中学時代の部活動を思い出した。
ソフトボール部に所属していた当時は、よく部員全員でグラウンドを走ったものだ。特に活動の最初は、声を出しながら一定時間グラウンドをランニングするのが通例のウォーミングアップだった。
あくまでもウォーミングアップに過ぎない為、当然ながら全力疾走ではない。しかしやはり、発声と走行を同時に熟すというのは、存外やたらと体力を消費するものだ。仮に叫び声を上げながら全力疾走したとすれば、その時の消耗は無言の時の比ではないだろう。
食べる事と声を出す事は違う行為だが、口を動かすという点と、息を吸ったり吐いたりし辛くなるという点では共通である。やはり、食事は走りながらするものではない。異様に体力を使う上に、このように噎せる危険性もある。
「……アホだ。かえって余計な時間を食っちゃた」
息を切らせながら自嘲し、静紀は一度呼吸を整えた。
浪費した分の時間は惜しい。辛うじて朝のHRには間に合うかと踏んでいたのだが、これでは本当に遅刻してしまいかねない。もうそれでいいやと開き直る程までには、静紀も自堕落な人間ではない。
しかし、朝の貴重な時間を失ってしまった反面、目下のところ最大の問題であったものはこれで解消された。静紀の手と口を塞ぎ、それに付随して呼吸その他を妨害していた朝食のトーストは、既に静紀の胃の中に収まっている。最後の一口は未だに食道の辺りを通過している最中かもしれないが、そのような細かいところはどうでもいい。とにかく、もう食事に手間を割く必要は無い。
最後に息をひとつ吐くと、静紀は地面を蹴って走り出した。左手で鞄をしっかりと抱え、揺れて邪魔になる事を未然に防ぐ。
流石に全力疾走では体力が持たないにしても、今トーストを咥えていた時の倍の速度であれば安定して出せる。それで何とか、朝のHRに間に合わせる事が出来るだろう。
万が一にも車に撥ねられないように交差点で信号と左右を確認しながらも、静紀は軽快に通学路を駆け抜ける。焦る心に余裕は無いが、なんとなく童心に帰ったような気分でもある。家から持参したペットボトルのお茶を口に含みながら、静紀は時間との戦いに没頭していた。
そうやって余裕の無い状態で走っていた所為だろう。いつしか、静紀の注意力や観察力は散漫になってしまっていた。
そして今度は交差点で左右を確認する事もせず、ほとんど速度を落とさずに飛び出した。
「……!! ――ふわっ!?」
一先ず飲み終わったペットボトルの蓋を閉めて再び鞄の中に仕舞おうとした、まさにその時、静紀は死角から飛び込んで来た人影と勢いよく衝突した。
より正確に言うなら、常識の範囲内の歩行速度で曲がり角を曲がった非のない人影に、静紀は真正面から突っ込んで行った。
「む、むぅ……」
強かに尻餅をつき、静紀は尾骨に走る鈍痛に耐えた。そこでようやく、自分の不注意故に通りすがりの通行人と衝突した事を悟る。これが、衝突した相手が人間ではなく車だったら、今頃静紀は赤い血と臓物を辺りにぶちまけていただろう。
「――わ! ご、ごめんなさい」
起き上がり様に慌てて謝罪する静紀だったが、被害者たる通行人は当然ながら憮然とした面持ちでいた。
縁の細い眼鏡を掛けた、理知的な印象を与える少年。静紀の知らない顔だったが、制服を見る限りでは、どうやら静紀と同じ高校に通う生徒であるようだ。
だとすれば、彼もまた遅刻寸前の状態にあったという事だろうか。それにしては、余り急いでいる様子もない。
「ああ……うん。……大丈夫?」
不機嫌そうな表情を浮かべながらも、少年は静紀の身を案じるような言葉を掛けた。社交辞令そのものといった心の籠っていない質問だったが、その物腰はとりあえず丁寧である。
「あ……はい。すみません」
「……」
再び謝罪する静紀の顔も見ず、少年はそっぽを向いて沈黙した。
「……」
反応のない少年の様子に不安を抱いた静紀だったが、ふと、少年が静紀のすぐ傍を注視している事に気付いた。気のせいか、先程の不機嫌そうな表情は緩和しているようにも見える。
不審に思った静紀が少年の目線を追って自分の足元を見ると、そこには教科書やノートやルーズリーフ等が散らかっていた。ちょうどペットボトルを仕舞おうとして鞄を開けていたので、ぶつかった際に中身が零れてしまったようだ。身体の中身はぶちまけずに済んだものの、鞄の中身は見事にぶちまけてしまっていた。
親切にも拾ってあげようともせず、かといって無視して直ぐにその場を立ち去る事もせず、少年は散らかった鞄の中身を興味深げに見ていた。
“……! げ……やば……”
不幸にも、散らかった鞄の中身は教材だけではなかった。弁当の中身が拡散していなかっただけまだよかっただろうが、あるいはその方は、静紀にとってはよかったかもしれない。
慌てて中身を回収し、静紀は散らかった私物を鞄に仕舞う。手伝うでも無視して立ち去るでもなく、その様子を少年は黙したまま眺めていた。
中身を鞄に戻し終えると、静紀は立ち上がって少年に向き直った。
「えっと……すいませんでした!」
最後にもう一回、今度は頭を下げての謝罪。一瞬で頭を上げると、静紀はそそくさと駆け出した。
「……そんなに急ぐ事ないだろうに。何をそんなに慌てているのやら……」
呆れた風な少年の呟きにも、現在の時刻にも、静紀は気付く事が無かった。
急いで走って来たおかげだろう。朝のHRの開始時刻まで、まだ10分程時間がある。流石にこの少年は些か呑気過ぎるだろうが、それでもそう慌てるような時間でもない。ここまで来れば、早歩き程度でもHRに十分間に合うだろう。
実にありきたりで使い古されたようで、存外現実には中々お目に掛かる事のないような出会いだった。
同好の士というものは、どうやら意外なところに居るものであるようだ。