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身体が回転しながらなにかの塊の中に突っ込んだ。たぶん下のジャングルの植物だ……ぼんやりそう思ったが、それから木がへし折れるうるさい音と絶え間ない打擲で体じゅう激しくどやしつけられ訳が分からなくなった。
気付いた時にはすべてが停止して、静まりかえっていた。霧香は子供のように身を丸めて地面に横たわっていた。
(生きてる……)
ゴクリと唾を飲み込んだ。喉が渇いていた。しばらくそのままじっとしていた。心臓が高鳴り、耳の中がどくどく脈打っている。
(痛みはない……)
ゆっくり手足を伸ばした。やはり痛みはない。とにかく体中が麻痺したように軋んでいたが、それは緊張のせいで、予期していた骨折の痛みは感じなかった。手足の指を動かして緊張をほぐした。感覚はある。背中も無事だ。ひどい怪我もないようだった。
運が良かった!
いやいや、コスモストリングのフォースフィールドが働いたのだ。
おかげで擦り傷も最小限で済んだ。「制服」の威力を実地で試したのは初めてだが、驚くべき性能だった。母親が見たら嘆きそうな紐ビキニではあったが、霧香は見直した。さすが、GPD発足時に銀河連合が人類に唯一提供したハイテク装備だけのことはある。
またゆっくり上半身を起こした。
マスクが外れていることに気付いた。慌てて捜したが、外れて背中にぶら下がっていた。それでメタンの汚臭がないことにようやく気付いた。
手近な植物に手をかけてそろそろと立ち上がった。膝が笑っていた。そこらじゅう固い枝に当たった打ち身の痛みは感じていたが、ひどい打撲や内出血、裂傷はなく、まずは無事だった。たったいま落ちてきた崖を見上げた。巨大な羊歯の葉が折り重なって空はほとんど見えなかったが、高さ三〇フィートほどもある大きなサボテン植物の上のほうに、剥がれ落ちたマングローブの枝が引っかかっていた。ぞっとするほど高い場所から落ちたのだ。
落ち込んだ場所が高密度の空気溜まりになったのか、とにかく汚臭が無くなっていた。なんらかの理由で谷底の植物は繁栄したらしい。だがかわりに濃密な腐敗臭が漂っており、息が詰まりそうだ。
日が暮れかけていた。とにかく、夜になる前にジャングルは横断したかった。荷物を確認した。奇跡的になにも紛失していない。マスクを被り直し、妙な倦怠感に包まれた身体を無理に動かして歩き始めた。動いたほうが良い。半時間も歩けば対岸の麓までたどり着けるはずだ。それから存分に休む。
予期すべきことだったかもしれないが、谷底は湿地帯だった。足首まで水に浸かりながら慎重に進むしかなかった。足許はふわふわしていた。堆積した植物の絨毯だ。こぶし大の原始的な水棲生物がたくさんいる。たいていは霧香の気配に気付いてのんびり離れてゆく。
地球の分類に当てはめられる生物は少なかった。もちろん、地球だって太古に生息していた生物相の三割程度しか知られていないのだが。
谷の真ん中あたりに差しかかると完全な川となり、腰まで浸かるほどの水流を掻き分けながら進んだ。水は澄んでいて、底まで見渡せた。いまのところ巨大な鰐や蛇が現れる様子は無い。
ジャングルは頭上を被うようにのしかかり、トンネルのようだ。川の対岸は密生したススキのような植物の藪で、掻き分けて岸に這い上がるのがひと苦労だった。湿地帯はそれでおしまいだった。先には固い地面が存在していた。
平らな地面に貧相な植物がまばらに根付いていた。このあたりでは頭上を覆う巨大な木がほとんど空を遮っている。脳髄かもつれたスパゲティの塊のような蔓草がいくつか並んでいた。塊は大きく直径二フィートほどある。日光が一日じゅう差し込まないため葉緑素を持った草は育たず、大木と地面のあいだに空洞が生じていた。大木の根元に地菌類が群生していた。プレッツェルのように垂直に育つキノコ、妙なリング状の模様を描く苔類、ハニカム構造のボール型の植物。見た目は不気味だ。
辺りは暗くなっていたが、断崖はもうすぐそこだ。
植物のトンネルが途切れた先に対岸の岩肌が見えた。だが駆け寄ろうとしたそのとき地面に不自然な畝を発見し、霧香は立ち止まった。地面がながながとえぐられていた。まだ新しい。
いよいよ巨大生物と対面だろうか。霧香はライフルを肩から外して構えた。だが地面にまっすぐ刻まれた畝を辿ったその先に横たわっていたのは、マシンの残骸だった。
(見つけた!)
霧香は思わず心の中で叫んだ。
駆け寄ってみると、大型のフローバイクだった。少なくともその残りカスだ。機械部品の類が抜き取られているのがひと目で分かった。ところどころ穴や裂け目のある薄いケブラー強化成形のカウルだけが転がっている。GPDの標準装備車両だった。
霧香はフローバイクの残骸から目を逸らし、あたりを見回した。
「ランドール中尉!」
マスクを脱いで再び叫んだ「ランドール中尉!いますか!?」
なにかが這ったあとを見たような気がして地面を見回した。辺りは暗くなりかけていて、霧香は気を急いた。苔生した地面が一部、枯れているような気がした。その痕跡は途切れながらジャングルに続いている。
百ヤードも行かないうちにランドール中尉とおぼしき女性を発見した。彼女はサボテンの大木に保たれて横たわっていた。
死んでいる。最初に見たときはそう思ったが、駆け寄って確かめた。うな垂れた顔は青ざめ、ピクリともしない。剥き出しの頸部に指を触れると、まだ温かかった。脈も感じられる。体温を失い脈も弱かったが、生きている。
霧香ははやる気持ちを抑えてナップサックを側らに降ろし、緊急医療パックの封を開けた。気付け薬のアンプルを一本注射して、次に簡易治療パッドを取り出した。白い布製パッドの片隅にインジケーターのコードを差し込み、診断モードにセットして手首に巻き付けると、一分ほどで結果が分かった。右大腿部骨折。肋骨二本単純骨折、脳震盪、脱水症状。
なるほど、右足のブーツが硬化していた。骨折したので応急処置モードになっているのだ。
できるだけ慎重にランドール中尉のGPDブーツを脱がすと、彼女がかすかに呻いた。しかし目は覚まさなかった。いちばんひどいダメージを負った箇所にもう一個の簡易治療パッドをあてがって、集中治療モードにセットすると、ストラップとそのへんの枝や剥がれた木の皮を掻き集めて簡単なギプス代わりに太腿に巻き付けた。
折りたたみバケツを掴んで先ほどの川に駆け戻った。浄化処置した水を温めた。
テントを張り、ランドール中尉の身体を抱え上げてテントの中に運んだ。今度も彼女は呻き声を上げ、ついでかすれ声で呟いた。
「痛い……」
「ランドール中尉、もうだいじょうぶですよ、喉が渇いてます?」努めて平静な声で語りかけた。
「……うん……」
テントに横たえて保温シートをかけ、上半身を支えながらひび割れた口元に水筒をあてがった。
「落ち着いて」
ゆっくり水筒を傾け、口の中を湿らせた。ランドールは弱々しく片手を上げ、水筒をもっと傾けようとした。霧香はその手を取って水筒にあてがい支えた。彼女は長い時間をかけて水筒に残っていた半分ほどをすべて飲み干した。
「水はたっぷりありますから。食べ物もありますよ。その前にまず飴をなめてください」
ランドールの口にエメラルドブルーとレッドの飴玉を差し込んだ。彼女は素直に舐め始めた。ひとつは塩の錠剤で、もうひとつはブドウ糖と栄養剤、それに抗生物質の塊である。
コスモストリングの首に携帯端末のソケットを取り付け、解除コマンドを打ち込んだ。コスモストリングはふつう着ている本人しか脱がせられないのだ。彼女の胃袋がいくらか回復するまでのあいだに、汚れた身体をできるだけ拭った。それが終わるとほかに為すべきことは思いつかなかった。ふたたび保温シートをランドールの体にかけた。
しばらくすると、彼女はだいぶましになってきた。再び眠りに落ちたようだ。霧香はようやくひと心地つくと、容体に注意しながら自分用のコーヒーをつくり、コンロを挟んでテントの向かい側に腰を下ろした。ランタンの素朴なともしびとコーヒーの香りがひどく心を落ち着かせる。任官以来ようやく仕事をした実感を味わった。
二時間もするとランドール中尉は復活祭シーズンを迎え、血色の戻った顔に汗をかき始めた。簡易治療パッドが効果を現し始めたのだが、痛めつけられた身体の毒素をナノユニットが攻撃しているあいだはけっこう辛いのだ。
霧香には応急処置の心得しかなかったので、携帯端末を通して伝えられる簡易医療パッドの情報と指示に従うしかない。その結果ランドールのこめかみや腕にチューブがいくつも取り付けられ、見た目だけは治療中の重症患者らしくなっていた。煮沸した上にさらにフィルターで濾過した蒸留水で生理食塩水を作り、水分不足の肉体に点滴した。脱水症状、熱、ショック症状、感染症、血栓、敗血症の兆候に注視すべし。
赤血球にエネルギーが注入され、造血作用が促される。損傷した組織は簡易治療パッドの中に収められている代替組織と交換される。骨も急激な細胞活性で治癒されるため、痛みを取り除かれても肉体の負担は相当きつい。よい知らせと言えるのは単純骨折だったことと彼女が健康体だったことぐらいだ。三日以上治療せずにいたので骨折部分の筋肉組織がだいぶダメージを受けていたが太い血管は損傷しておらず、神経にも異常はない。
それでも救出の望みもなく絶え間ない激痛に苛まれていた時間から解放されたランドール中尉は、夜中には見るからに元気になった。まだ憔悴して顔は汗にまみれ、眼のしたに隈ができているが、空腹を訴えるほど快復している。目を覚まして温めたレーションのシチューを平らげ、再び水を大量に飲んだ。
翌日には彼女はもう意識もはっきりして、霧香と話ができるようになった。携帯端末で治療の経過と新しい対応を確認した。空になった代替組織のアンプルを取り替え、手持ちのぶんでなんとか組織が快復するように祈った。熱があるが、それは普通だ。少なくとも深刻な合併症や臓器不全は見当たらない。血栓も無し。
ランドール中尉はヘンプⅢに降下した六時間後には攻撃を受けたらしい。正体不明のメカに襲われ、傷ついたフローバイクでここに墜落した。しばらくするとメカたちが再び現れ、フローバイクを破壊して去っていった。
「夜だったから相手はよく分からなかったけど、かなり強力な実体弾で撃たれたのよ……一メートルくらいの無人ドローンだと思う……たくさんいた。群体を作って行動していた」
「それでこの森の中になんとか這って……」
「そう。……そうだ。あいつらは機械に興味を持っているようだったから、残った装備を埋めたんだ……」
「どこに?」
「墜落した場所からここまでの、草むらなんだけど……」
「捜してきますよ」
霧香はテントから這い出し、パルスライフルを携帯して断崖の方に歩いて行った。ランドール中尉の装備はすぐに見つかった。穴の空いたナップザックとライフル一丁だ。ナップザックの中身は半分こぼれ落ちたらしく、残っていたのはわずかな食料とサバイバル装備がいくつか、それに携帯端末がひとつだけだった。
それでもランドールはひどく喜んだ。
「携帯端末が無事だった!これでロボットを呼び寄せられるかもしれない」
「ああ、なるほど!」ここに降りて初めて聞いた良い話のようだったので霧香も喜んだ。
「まあ……あの子たちが無事ならだけど……」
「わたしが確認したときはまだ何体か無事だったようですわ。展開開始地点に戻って待機モードになっているようでした」
「空を飛ばすとあいつらに感知される気がするわね……。陸を伝って呼び寄せられるか、やってみましょう。そうすればこの谷底から抜けられるかもしれない」
携帯端末を操作してホロディスプレイを浮かび上がらせた。霧香も見られるように大きくオープン表示させ、ヘンプⅢのマップを呼び出した。
「問題は電波が届くか、だけど……」
ロボットたちは意外と近くにいた。わずか3マイル離れた場所に待機していた。四機が健在で、短いシグナルを送ってきた。あまり電波を使いたくなかったが、念のためロボットのカメラでかれらが待機している場所の周囲を確認した。怪しい動きはないようだった。
「どうする?少尉。ロボットを呼び寄せるとあの正体不明のメカが襲ってくるかもしれない……」
「一体を囮にして、残りを呼び寄せたらどうです?念のため離れた場所……墜落場所のあたりに呼び寄せ、様子を見る……しかし、できれば夜か明日まで待ちましょう。中尉の身体がもうすこし回復してからのほうが良いですよ」
「良い考えね少尉。それで行きましょう」
ランドールはコマンドを打ち込んだ。
「これで良い……」
ランドールは残りの装備をあらためた。レーションがふたつ。ライフル用のクリップがひとつ。サバイバルナイフ一丁。それに側面のポケットからごく何気ない動作で指輪を取りだし、左手の薬指にはめた。霧香はその様子を目の隅で見ただけだ。
彼女は溜息を漏らした。少し疲れたようだ。ゆっくり横になり、ブランケットを引き上げた。額に汗が浮いていた。
「これでスコッチの小瓶があれば……」
「ははは……ブルックス船長の船にはたくさんあるんですけど」
「あら、ブルックスじいさまと知り合い?」
「彼のメアリーベルも一緒だったんですよ。いまごろはオンタリオステーションに帰ったかもしれないけど」
「あ~、たしかあなた、環境テロリストの船でここに連れてこられたと言ってたわね……シャトルを攻撃されて不時着したと。そいつらはなにが目的だったの?」
「わたしの推測ですが、この惑星にあるなにかの機械を探しに来たようでした。その機械に関する情報をシンシア・コレットに横取りされたらしいです」
「おお、あの愛すべきシンシア・コレット嬢……」
「会ったことがあるんですか?」
「ちょっとだけ。とんでもないじゃじゃ馬よ。だれかれ構わずマイクを向けて話しかけてた。竜巻みたいにオンタリオステーションをかけずり回ったあげく勝手に惑星に降りて、そのまま音信不通……。おかげであたしまでこのざまだわ」
「災難でしたね」
「まったく……もうダメだと思ったけど、助けてくれて感謝する、ホワイトラブ少尉」
「どういたしまして先輩。もっとも、ここから抜けだす当てはないんですけれど……」
「あなたも災難ね……任官したてか」任官後最初の一年がもっとも損耗率が高い、という言葉が浮かんだが、そんな考えを振り払うように言葉を続けた。「候補生教育もあたしの頃とはだいぶ変わったんだろう?」
「さあ……四ヶ月の訓練と半年の見習い期間、シミュレーション漬けの毎日に厳しい軍事教練でしたよ」
「あたしは軍隊の引き抜き組でね。もともと下士官だし、たぶんあなたほどみっちり教育されていないわよ。GPD設立当初はそんな人材ばかりだった」
「そう聞いてます。わたしたち訓練小隊のロリンズ少佐も、たしか元軍人でした」
「ああ、ロリンズ少佐殿に教わったんだ。あの人が教育者とはね……」ランドール中尉は面白そうににんまり笑った。「……おたがい無事抜け出せればいいけど」
「われわれを襲ったメカ……プラネットピース一行やシンシア・コレットが捜していた代物と関係あると思います?」
「残念ながらそのようね。なんだと思う?」
「異星人……いえ、違いますね。おそらく人類のものでしょう」
「だとするとよほどのヴィンテージテクノロジーかなにか……」
「いくつか見当付きそうですね。やたらと敵対的ですけど」
「それがヒントかも……」
ランドールは急に眠気を催したらしい。空のナップザックを枕にして、たちまち眠ってしまった。
再び夜を迎えた。それといってすることもなく、霧香はあたりを警戒し続けた。ランドール中尉は眠っていた。大腿部の腫れはほとんど引いて、痣が残っているだけだ。明日にはなんとか骨折部分が癒着するらしい。それでも無理はさせたくなかったが、どのみち谷から出られなければどうにもならない。ロボットさえあれば、短波無線が使えるはずだった。軌道上まで電波が届きさえすればヘンプⅢ上空の人工衛星がどこかに中継してくれる。状況さえ伝えられれば……。
霧香は溜息をついた。仕事は山積みだ。まだシンシア・コレットを見つけていない。プラネットピースのふたりも連れて帰らなければ。それに正体不明のメカがいる。正体を暴くことまで霧香に求められているとは思えなかったが、どのみちそうしなければ同じことが繰り返されるかもしれない。
だがそんな義務感よりも、相手の正体を見極めたいという思いのほうがずっと強かった。好奇心は猫を殺す、と言うがどのみち敵との対面は避けられないような気がした。みんな襲われたのだ。接触しないで済ませるほうが難しいかもしれない。
食料はあと二日分。霧香はある程度切り詰めるとしても、ひどい状態から回復中のランドール中尉に出し惜しみはできない。
かすかなざわめきが聞こえた。
静かだった森の中で不自然な音だった。霧香はパルスライフルを両手に構え、耳を澄ました。足音を忍ばせて野営地まで後退した。
テントは無事だった。ランドール中尉は眠っている。テントの中に顔を突っ込んで彼女に言った。
「ランドール中尉!目を覚ましてください」
彼女は眼を開け、なんだというように顔を向けた。
「なにか気配がしました。ライフルをお願いします」
「了解……ちょっと待って」
ランドールはライフルを霧香に放って寄こし、テントの入口に這いずってきた。
「立たせて……」
霧香はランドールに肩を貸し、なんとか立ち上がらせた。
「あまり役に立ちそうもないが、テントの外の木立を背にしていたほうが良い」
ライフルを杖代わりに、霧香の肩に捕まってなんとか十歩ほど歩いた。太腿はだいぶ回復して腫れも引いたので、彼女はふたたびブーツを履いていた。ギプスの代わりになるのだが、足は自由に動かせない。サボテンの大木に背もたれ、慎重に腰を下ろした。それだけでランドールは額に汗を滲ませていた。
背後はジャングルの植物が密生していて、悟られずに背後を取られる可能性は低そうだった。とにかく、相手が少なくともイグナト人兵士でなければ。
「ランタンを消した方がいいですかね?」
「相手が機械なら関係ないでしょう……あたしたちのほうが不便になるだけだ」
「なるほど、それではランタンはそちらに預けます。もし必要なら消すということで。わたしのマスクは赤外線に対応しています」
「わかった。あたしはここで待つ。あんたは対面側を。頭上にも注意して」
「了解」