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ふと気配を感じて目を覚ました。
(明るい……)
テントの外が明るくなっている。(もう朝か……)携帯端末で時間をあらためると、眠り込んでから四時間、まだ真夜中だった。
霧香は飛び起きて外に眼を凝らした。
雨が降っていた。大きな雨粒がテントを打つくぐもった音が断続的に続いていた。
そしてトーテムポール型サボテンのてっぺんが発光していた。音も響いてくる。ドーンドーンという不気味な低い破裂音だった。
破裂音がひとつするたびに発光体が増えてゆく。どうやら雨とトーテムポールがなんらかの化学反応を起こしているようだ。水分が触媒となり、サボテンのてっぺんが爆発しているのだ。
種子を飛ばしているのか。
自然進化の産物、という推測が成り立つといくらか安心した。遅ればせながら携帯端末でデータベースを当たると、ちゃんと記載されていた。「トーチスティック」という、極めて独創性豊かな名前がついていた。もうすこし事前のデータをあらためるべきだった。ヘンプⅢの生態系については豊富な資料が揃っていたのだ。ただ多すぎて後回しにしていた。
せっかく溜めこんだ知識も活用できなければ意味がない。そう思うとなんだか惜しくてすっかり眼が冴えてしまった。さいわい外の景観はなかなか魅惑的だったので、無理に眠ろうとせず眺めつづけた。青い熾火が揺らめき続けている。なんらかのガス……おそらく水素を幹に溜めこんでいるのか、雨でも消えない。
やがて空がパッと光り、鋭い雷光が頭上の雲海を照らした。稲光は地上に達していた。雷鳴が轟いた。本能の深いところに訴える恐ろしい音だが、反面馴染み深く、妙な居心地の良さを感じる音だった。なぜか母親の胎内を連想した。太古の荘厳なリズムに身を委ねているうちに再び眠りに落ちていた。
枕代わりの丸めたナップサックから頭を上げた。思ったより深い眠りに落ちていたようで、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなっていた。長い夢を見ていたが内容は思い出せなかった。厄介なトラブルに巻き込まれることもなく一晩過ごせたので、気分はすこし楽になっていた。エベレスト山頂や南極ほど過酷ではなさそうだ、という意味だ。定期的に休息可能なら生存率はずいぶん上昇する。
一日二食と決めていた非常食の朝食を済ませ、テントを畳んで出発した。順調なら午後には目的地点にたどり着けるだろう。
トーテムポールの林は夜通し燃え続け、朝になってもまだ燻っていた。幹の半分ほど燃えてしまったようだ。根本には炭化して剥離した幹の一部が堆積している。あれが土になり、いずれ芽吹く次世代の養分となるのだ。酸素を大量に含んだ熱帯気候では腐敗は急速に進む。生命誕生初期の性急でダイナミックな生態であった。
この世界で安全を図るには、食物連鎖の序列を見極めることが重要だ。
つまり簡単にいうと、霧香を昼食と見なしかねない生物の存在を知ることだ。
ところが、携帯端末に納められた科学者たちのレポートは、アカデミックすぎて意味が掴みにくい。ヘンプⅢの生物関連構造を手っ取り早く説明した論文が都合良く見つかる、あるいはこれこれこの生物は危険、近づくべからず、といった親切な説明テキストなんていくら捜しても見当たらず、霧香はがっかりした。ヘンプⅢは古くから律儀に不可侵領域として認定され、旅行者用の現地ガイドは編纂されなかった。同じ地球型惑星でもクエルトベル31やマーハンほど人類の注目が集まらなかったのだ。そして科学者たちははたとえ猛毒の類でも無味乾燥な化学記号で記すのだ。不自然に連なったNやOは身体に毒だ、あるいは六角形をなしていない分子構造式がまずいというのは理解できる。だが異世界の分子記号を含んでいるとなると、霧香の知識では半分も理解不能だ。
だが、こういうのはどうだ。
ダンドリオンロールの球胚は硬殻種子の密集体であり、根核には高密度のメタンが溜めこまれている。高密度ガスの吸収は浮遊胞子と同じくヘンプⅢに生息する高等生物全般に見られる特徴であり、それらは種子をまく際の燃料となる。硬殻種子は爆発的に膨張するガスにより高速度で周囲にまかれる。その初速は最大二〇〇メートル/秒に達する。その構造は昆虫による種子の搾取に対抗する役にも立つようだ……。
突然弾けて弾丸のように種を飛ばす植物が存在するわけだ。天然の対人手榴弾である。気をつけなければコスモストリングでも防ぎきれないだろう。
ヘンプⅢの植物がどうやって高密度の水素やメタンを溜めこむことが可能なのか、それだけでも理解できれば、ヤバそうな植物を見分けて危険を回避する術もあろうが、それもまた極めて専門的な論文にまとめられている。読んでみても、ある種の寄生バクテリアを介して水と激しく反応する触媒……たとえばマグネシウムを精製するように進化したらしいと言うこと、圧縮されたガスによる冷却(と大気との温度差)をエネルギーとして利用しているということを漠然と理解できただけだ。
(キリが無い)
結局はフィールドワークでじかにヘンプⅢ生態系の驚異を体験するしかないわけだ。そんなのは命が九つあってもおぼつかない。
霧香はそれでも口端に笑みを浮かべていた。古典SFのステージツリーを思い出していたのだ。天然のロケットによって宇宙空間に種子を撃ち出す植物、というのが大昔のSF小説に登場する。ヘンプⅢもそんな進化を辿っているように思えた。ただし残念ながらステージツリーらしき植物は発見されていない。
(たとえ存在したとしても、都合良く人間ひとりかふたりぶんの余分なペイロードを乗せて飛ぶのは無理だろうけど……)生物の進化とは必要ギリギリに発達するのであり、無駄な助長性を獲得する余地はない。
もっともステージツリーが存在していたとしても、そんなものを利用するつもりはない。ただ打ち上げの瞬間を見てみたいだけだ。大昔の固体燃料ロケットのように壮大な花火……さぞ興味深い眺めだろう。
霧香はまだそれほど切羽詰まっていないと思っていた。
それはまちがいだった。
歩き続けているうちに緩やかな起伏の丘陵地帯に迷い込んだ。シダ植物がめっきり減り地形の見晴らしがきく。足元に黒く平たい石がいくつも転がっていて、霧香の注意を引いた。直径四インチほどの積層模様の殻で、地球の牡蠣に似ている。歩を進めるごとに数が増えてゆく。それがかさかさと音を立てていたため生物だと気付いた。霧香は立ち止まり、あたりを見回した。
よく目を凝らすと石は動いていた。
ごくゆっくりと身じろぎしながらわずかに進んでいる。霧香は誤って踏みつぶさないよう注意した。この地に留まり続けていることで世界を汚染しているという罪悪感が募る。おかげで移動は遅くなった。この牡蠣をひとつ潰すことでヘンプⅢのアインシュタインの祖先を殺したかもしれない、というのは極端な考え方だろうが、地球人が持ち込むバクテリアや雑菌が壊滅的な影響を及ぼす可能性は常にある。
霧香はなんとなくもの悲しい気分になった。ヘンプⅢが蹂躙を免れたのは、その頃の人類が非常に豊かで、居住可能惑星ひとつを諦めても痛くも痒くもなかったからに過ぎない。つまり、もっと余裕がない時代だったら、人類はこの世界に容赦なく入植していたかもしれないのだ。ヘンプⅢの生物たちを見下ろしながら霧香は侵略者になった気分に苛まれていた。
牡蠣たちはすべて同一方向に移動しているようだ。行く手に水場でもあるのだろうか。それとも産卵期の集団行動なのか……。霧香は緊張した。GPDアカデミーの実地訓練の半分は、未知の状況でどんな事態に遭遇し命を落とす可能性があるか、徹底的に叩き込むことだった。異世界の自然が造り出した思いがけない罠を知らしめ、呑気にタウ・ケテイの都会の常識を引きずっているとどんな致命的事態に陥るか、そういったことをシミュレーションで際限なく『体験』させるのだ。信じられないようなばかばかしい状況をいくつも体験させられたが、その喜劇的状況訓練で最初の「死者」が出ると、候補生たちの真剣味は増した。
たったいまも霧香は地雷原に足を踏み入れているのかもしれない。その想定をばかばかしいとは感じなかった。シャトルを一歩踏み出した瞬間からそうした緊張状態は維持し続けている。だが気を張り詰めすぎれば早く参ってしまうだけだし、緊張の糸が切れたときに悲劇に見舞われるのだ。訓練の成果を初めて実感していた。あらゆるところに注意を払うことがなかば習慣となっていた。おかげで過度の緊張状態に苛まれることなくこうして歩き続けられるわけだ。
やがて小高い丘の峰に立つと、牡蠣たちの目的地と思われる場所に辿り着いた。
「おお……」
地面が広範囲にわたって陥没しているように見えた。その陥没した穴いっぱいに植物が生い茂っている。マングローブに似ている。曲がりくねった太く白っぽい灌木がのたうち絡み合いながらどこまでも続いていた。地面はまるでマグローブに浸食されたように落ち込んでいた。それが何百ヤードも広がっていた。
生育が進むとともに土壌を掘ってしまうのだろうか。だとしたら進化の方向性としてはだいぶまずい方向に向かっている気がする。牡蠣たちは続々とマングローブが生い茂る窪みに向かっていた。なにかに引き寄せられているのか、霧香には見当も付かないライフサイクルを形作っているようだ。
どのみちこのマングローブは迂回するしかない。窪地に落ちたら抜け出すのは容易ではなさそうだ。霧香は窪地の縁を歩き続けた。
マングローブをあとにして間もなく、地形は平地になった。植物もまばらだ。だが喜びも束の間だった。前方の地面に筋が横切っているのが見え、近づくにつれてそれが巨大なクレバスだと気付いた。
崖縁に辿り着いた霧香は途方に暮れた。ちょっとした渓谷だ。垂直に二〇〇フィートくらい落ち込んでいる。谷底はジャングルのようだ。渓谷の幅は一〇〇〇フィートあまり。
この世界に橋は存在しない。
必要な装備はすべてメアリーベルの船倉にあるのだ。
どこか谷底に降りられる場所を探すしかないだろう。霧香はふたたび歩き始めた。目的の場所は谷を越えた数マイル先だ。だが崖沿いを進むうちに徐々に遠ざかる。
(急がば回れ……)
性急になりがちな気持ちを抑えた。できれば谷底のジャングルには降りたくなかった。見るからに鬱蒼として巨大な植物群が栄えていた。大気が濃くなっているのだろうか。
二マイルほど歩くと、崖に例のマングローブが群生しているのを見つけた。数メートル落ち込んだ地面に密生する灌木が崖に到達して、そのまま岩肌に張り付いていた。見たところもつれ合った灌木は谷底まで届いているようだった。
やるしかないようだ。
陥没した斜面をズルズルと滑り降りて灌木に足を乗せてみた。見た目どおり固かった。慎重に体重をかけてみたが、かすかに軋みたわみながらなんとか支えていた。じゅうぶん丈夫に思えた。
さいわい手掛かりには事欠かない。マングローブの上をほとんど四つん這いで崖縁まで這い寄った。
もつれ合った幹を足がかりに崖をくだり始めた。灌木の表面は滑らかで滑りそうだったが、手で捕まるにはちょうど良い太さだ。慎重に足がかりを探り、一歩ずつ……
崖のなかばまで達した。霧香はストラップを組み合わせて灌木に巻き付け、ひと休みした。マングローブは幾重にも重なっているため、その気になれば幹の中に潜りこんで身体を支えることもできた。だが崖の表面自体は一ヤードも離れていて、霧香は宙ぶらりんでぶら下がっているに等しい。必要以上に気を抜いて、自分はこんなところでなにをしているんだろうと真剣に考え始める前にくだりを再開すべきだろう。水筒の水で喉を潤し、単調で気の抜けない作業に戻った。
日頃鍛えているにもかかわらず、使い慣れない筋肉が悲鳴を上げている。〇.八Gでもきつかった。
どこかでブチッという鈍い音がした。
霧香は身を竦めて上を見上げた。土くれが振ってきた。霧香は唾を飲み込んだ。身体が不意に数フィート落ち、霧香は慌てて幹に腕を巻き付けてしがみついた。地面まであとわずか建物五階ぶんだった。だが落ちたら確実に死ぬ。額に汗が滲んだ。再び勢いよく数フィート落下して、止まった。マングローブは確実に岩肌から剥がれ落ちようとしていた。下は得体の知れない植物群が密生している。地面はほとんど見えない。霧香は横にマングローブを伝い、しっかり張り付いているところを探った。もうなりふり構わず、とにかく降りるしかない。剥がれた幹が放物線を描いて反り返り、霧香の肩を打った。衝撃で足が滑り、ズルズルと落ちた。賢明に手掛かりを掴んで落下を食い止めたが、その際に加わった衝撃がマングローブを大きく引き剥がすことになった。
数秒間、まるで悪夢のようにゆっくりと後ろ向きに身体が倒れ、幹にしがみついたまま大きく落ちていった。180度回転して逆さまに二〇フィート下のマングローブに叩きつけられ、霧香はそのまま落下した。