15
PC不具合によりしばらく更新ができなかったことをお詫び申し上げます<(_ _)>
キングは一マイルも離れていない場所にいる。ひょっとしたら徒歩で三十秒しか離れていない部屋にいるのだ。
まるでなけなしの勇気を使い果たしてしまったかのようだった。頼もしいコスモストリングを纏ったというのに中身がこれでは情けない。ふと気を抜いたとたん途方もない重圧がのしかかってきたのだ。
1)ロリンズ中佐の支援
2)GPDに通報
3)巡洋艦に対する阻止活動
やることが多すぎるのに、具体的な方策なんか見当も付かないことばかりだ!
なにかしなければならないが、何をすればよいのか思い付かない。
(危機的状況に陥って思考が停滞しているんだ)霧香は腹が立った。(わたしはそんな意気地無しだったのかしら)
ロリンズ教官の言葉を思い出した。
模擬戦闘訓練のあとで、霧香たち候補生は心身ともボロ布になった気分で床にへたり込んでいた。二時間ぶっ続けの訓練直後なのに、教官は新品同様で悠然と腕組みして、打ちひしがれた敗残兵たちを睥睨した。
「いいかい?あんたたちは将来、なにかしなくちゃ、と逸る気持ちを抑えられない状況になんども陥るだろう。だが時にはじっと待つのが最善、という場合もあるんだ。焦って敵の前に飛び出したってなんにもならない状況が。そういう時は待ち続けろ。相手が焦れてくるのを待て。時間はたいがい、あんたたちの味方だ」
いまがその時ですか?
それともわたしは怯えてグズグズしているだけなのか。次の一歩が恐くて踏み出せない弱虫なのか?
携帯端末の時計を見た。信じられないことに、ガーニーのところを離れてまだ二〇分も経っていない。もう三時間前のことのようだ。
船内スピーカーが息を吹き返し、霧香はぎくりと肩を跳ね上げた。
〈ミノタウロス全艦に伝える。艦はこれより稼働体制に移行する……。ドッキングしている船艇は三時間後の第一次加速に備え、順次もやいを解くこと。第二フライトデッキでささやかな祝宴が催されているので、仕事のない者は集合せよ。むやみに艦内をうろつかないように……〉
先ほどの放送と同じ、威圧的な女の声だ。ベス・トルーディかもしれない。殺し屋。
(畜生、いまの飛び上がりかたは格好悪かったわ)
焦るな。
まだ正体はばれていないはずだ。……第二フライトデッキのパーティーに戻るべきだろう。ボビィ・ブーツェンはこのまま寝かしておけばいい。強力鎮静剤と発信器付きの自決装置防止用ナノマシンを飲ませておいたから、しばらく放って置いても心配ない。このまま留まっていても少佐と合流できる見込みはなかった。
キングの顔を拝みに行ってみよう。
先ほどの歩哨の前を通ってエレベーターで下……外壁方向に降りた。人混みのなかにまぎれ込み一息つく。だがまもなく、ガーニーとドレスデンの乗組員たちが姿を消していることに気付いた。どこにも見当たらない。霧香は内心の不安を隠すためにビニールカップを取り上げ、中身を飲み下した。味が分からなかった。
ロリンズ少佐の姿もない。本当に用を足してすぐに戻ってくるとは霧香も思っていなかったが、どうしているのだろう。
壇上には数名の男女が立ち、乾杯の杯を掲げていた。黒のドレスに短い黒髪の女が一歩前に進み、演説をはじめた。
「いまはタウ・ケティ標準時で午後九時……日付が変わるとともにわれわれは出発する。もはや誰もわれわれを留めることはできない。タウ・ケティ防衛軍もGPDも、われわれに手出しできないのだ……安心して欲しい。ここに居合わせた者には多額の報酬がもたらされることを約束する。あなたたちはこの〈ミノタウロス〉をみごと生き返らせたのだ」 聴衆から拍手が沸き起こった。熱狂的とまでは行かないが、たぶん壇上の女があまり人気がないためだろう。壇上の女はベス・トルーディに間違いなかった。若い連中は反体制的な冒険に興奮して腕を振り上げていた。強面の連中は黙って見守っている。
キングはどこにいる?演説しないのかしら。
敵の姿を見るために五十メートルほど壇上に近寄り、眼を凝らした。周囲は武装したならず者たちばかりだ。
ベスの背後に控えているのは三人。物凄く太った大きな男がいた。あれが少佐の言っていたベビーフェイスだろう。遠くからでも信じられないくらい巨大な体なのが分かる……ガーニーも大きかったが、さらに大きく太っている。たしかに酷薄そうな笑みを浮かべたぽっちゃりした顔は童顔に見えた。残りのふたりも手配書の写真で見覚えがある。この場では奇妙に見える黒スーツ姿で、いかにもマフィア然といった感じだ。
「〈ミノタウロス〉は出航後、直ちにタウ・ケティマイナーに向かって侵攻する。ギルド始まって以来の大胆な襲撃よ。ハイフォールを火の海にして、残った奴らに連邦準備銀行の金塊その他を差し出せと要求する……繰り返すが、奴らはわれわれに太刀打ちできる火力を持ち合わせていない。すぐに従うはずだ。われわれの要求が通り次第ドッキングプールに向かい、辺境に逃走する。光速の壁に阻まれ、情報伝搬には時間がかかる。地球やαケンタウリの国連首脳部が動き出すのに三日……〈ミノタウロス〉に対抗できる艦艇を掻き集めてタウ・ケティにやっと駆けつけるには、最速でも十日かかる……これは奴らが相談に無駄な時間を費やさない場合の数字だ。その遙か以前に計画は達成されるだろう……」
トルーディは嬉々として計画を語った。殺し屋としての腕は知らないがアジテーターとしてはたいしたものだ。なんとなくうまく行きそうに聞こえた。
霧香が危惧していた事態だった。やはり奴らは巡洋艦の主砲を都市に向けるつもりなのだ……。
黒スーツの男に手下がひとり駆け寄り、何か話している。黒スーツは頷いて、手を振って下がらせた。そして続きを喋ろうとしていたトルーディの肩を叩き、なにごとか言った。トルーディは忌々しそうに振り返ったが、話を聞いているうちに上機嫌になった。
「さて、諸君、勝利の栄光に先立って用意したささやかな祝宴を楽しんでくれているかしら。ここでひとつ余興を用意させていただくわ。戦争の前に、戦士たちの戦いを勝利の女神に捧げるわ」
大音響で威勢のいいギターが鳴り響き、場内の照明が落ちた。スモークが焚かれ、色とりどりのライトが明滅した。中央のリングが一筋のスポットライトで照らされた。身なりの良い男がひとり立っていた。
「レディースアンドジェントルメン……今夜は〈ミノタウロス〉特設リングにようこそお集まり頂きました!今宵はキング氏の偉業を称えるためWGFの猛者たちが集結しました。青コーナー……火星のウォーマシーン、クレイ・マードック!」
聴衆から歓声が上がった。
ドックの壁際にスポットライトが集まり、パンツ一枚とブーツだけの筋肉の塊の男を照らし出した。リングの頭上に大きなホロビューイングが浮かび上がり、男のクローズアップを捉えていた。腕を組んであたりを睥睨している。クレイと呼ばれた男は王者のような足取りでリングに向かって歩き出した。拍手が鳴り止まない。クレイはバネの効いた身のこなしで颯爽とリングに躍り上がると、両腕を高く上げて観衆に応えた。
「赤コーナー……αケンタウリの刺客……人間ブラックホール、バーベン・ディスティニー!」
音楽が切り替わり、ふたたび歓声と……同程度の激しいブーイングが上がった。吹き出すスモークの中から黒タイツとサッシュ、黒頭巾の男が躍り出た。「ディスティニー!ディスティニー!」自分の名を叫び、青竜刀を振り回して観客を脅しながら悠然とリングに向かってゆく。
厳かな演舞でも始まるのかと思っていた霧香は、ぽかんと成り行きを見つめていた。マードックは両腕でロープを掴んで屈伸している。バーベンはその後ろ姿に罵声を浴びせて挑発していた。
「制限時間無し一本勝負……レディーゴー!」ゴングが鳴り、試合が始まった。
少佐が言っていた「プロレスリング」という競技がどんなものなのか、だんだん分かってきた。なんと単純でアナクロなのだろう……仕掛けも何も無く、体と体がぶつかり合っているだけだ。しかも芝居がかっている。まわりの華客たちは楽しんでいるようだ。盛んに野次や声援を送っていた。
やがて決着のゴングが鳴り、クレイ・マードックが勝利した。
いつの間にか霧香も試合に見とれていた。
アカデミーで習ったような一撃必殺の実戦技にはほど遠い見せ物だが、面白いのは認めるしかなかった。次の対戦相手ふたりがふたたび派手な演出で登場するあいだに露天指揮所を振り返ると、いつの間にかベス・トルーディ一行の姿が消えていた――。
突然、いくつものスポットライトが霧香を照らし出した。
霧香はとっさに闇に飛び退こうとしたが遅かった。いつの間にか小銃を構えた男たちに包囲されていた。
まるで悪夢でも見ているようだ。
背中に回された腕を拘束され、コスモスーツを引き剥がされた。スーツの下からコスモストリングが現れると、男たちは醜悪な勝ち誇った表情を浮かべた。
長い棒の先に吊した首輪に賭けられ、牛のように引き出された。空気がねっとりと密度を増し、体は濃密なスープのなかをふわふわ漂っているようだった。小突かれ、なんども足がもつれた。
霧香には為す術もなく、長い長い30メートルをようやく歩き終えてリングの傍らに引き出された。海賊たちは捕虜をいたぶることにたいへん長けており、隙はなかった。
トルーディが待ち受けていた。霧香の姿を満足そうに見据えている。
「なんて可憐な女の子なの!」女幹部は素っ頓狂な声で叫んだ。両手を組んで手もみしている。「見なさいよ!子供じゃないさ。キュートだわ!キュートキュートキュート!」
野卑な叫び声が上がった。「殺せ!」
女幹部は霧香の乳房を無造作に掴んだ。
「痛いッ……!」
「この忌々しいストリング……ぜったい脱げないのよね……いったいどういう仕掛けなんだか」紐を引き剥がそうと爪を立ててもまったく引っかからず、すり抜けてしまう。
「バラバラにしちまえ!」野次が飛んだ。
トルーディは笑った。「そうすれば脱がせられるわね……それとも自分で脱ぐ気になるまで痛めつけたほうが良い?」
「……」気の利いた減らず口が思い付かなかったので、霧香は黙って女殺し屋を見つめた。
その結果平手で頬を殴られた。
「あたしにガン飛ばすなんざ10年早いんだよこのガキ!」
まるでむかし見た古い映画のシーンだ……こいつの言うことやることったら、まるで独創性がない。こんな人が実在するとは驚きだわ……
「なに笑ってるんだこのくそ娘!」また殴られた。「そういうバカにした態度が取れるとは良い度胸だわ……」平手が飛ぶ。もう一発。口の中を切った。血の味。戦闘訓練以来だ。銃弾を防ぐコスモストリングなのに、ビンタも防げやしない。
なぜかいまは落ち着いていた。どうすることも出来ないと、人間はこうもあっさりあきらめの境地に達するのか。
「低重力で殴るのってまったく疲れるわね!……せっかくの綺麗な生け贄だから顔はもう許してあげるわ……」
それにしても、なぜばれたのだろう……霧香は不思議に思った。どこでドジを踏んだのだ。ひょっとしたらガーニー船長が気付いたのかもしれないわ……わたしたちの嘘を見抜いてキングに売ったのか。それともやはり少佐の元部下……なんて名だったっけ?あいつが裏切っていて、わたしたちはずっと、バカみたいに泳がされていたのだろうか。
「姐さん、そのガキ尋問しますか?」
「そんな手間いらないんじゃない?張り切りすぎてこんなとこまで来ちまっただけだろ……それよりこいつの仲間を捜すんだ。もうひとりかふたり紛れ込んでるかも知れない」
「分かりやした」
「逃走した船はどうしたの?」
「追っ手を寄こしましたが……加速はとんとんです。とらえるには時間がかかります……」
「クソッ。なにひとつまともに出来ないのね……輸送船なんて簡単に破壊できるでしょ。〈マイダス〉を出せばいいのよ。ボスももうあの船には用がないはず……」
霧香はうなだれたままその会話に耳を澄ませた。では少佐は逃走することに成功したのだ。よかった……少佐なら逃げ切れる。これでキングもお終いだ。結末まで見届けられなくて残念だけど。
「さっGPD、ちょうどおあつらえ向きに海神ポセイドンに供える処女の生け贄が飛び込んできたことだし、さっそくリングで戦ってもらおうかしら」
「なにを……」
霧香は背後から肩をど突かれ、強引にリング上に引き上げられてしまった。リング上は1Gだ……やけに身体が重く感じた。
「あたしは知ってるんだ。そのストリングは銃弾やレーザーは跳ね返すけどさ、素手の相手にはたいして役に立たない。じっくり時間かけて殴り殺してやんな!」
縞柄のシャツ姿のレフェリーが舞台から降り、変わってマスクで顔を覆ったレスラーふたりがリングによじ登り、霧香に対峙した。口元に下卑たにやにや笑いを張り付かせていた。女の子を痛めつけることに躊躇するようではない。視界の隅でベス・トルーディが司会者になにか言い渡している。
「エー……それではここで予定を変更して、我らが地下プロレスリング同盟の勇士対、GPD保安官のデスマッチ、無制限一本勝負……」ゴングが高らかに鳴り響いた。「レディ――ゴーッ!」
殺気に満ちた歓声がリングを包み込む。
骸骨模様のマスク男が軽やかにステップしながら接近してくる。霧香は両腕を顔のまえに構え、攻撃を待った。相手は霧香をチョロい相手だと踏んでいる。警戒する様子もなく無造作に右ストレートを繰り出してきた。霧香はその打撃を片腕ではねのけ、相手の懐に飛び込んで渾身の力を込めた肘をあごに叩き込んだ。
男は派手に倒れ込んだ。
「ノー!」観衆から喘ぎ声とヤジが飛ぶ。
男は倒れたものの、それだけのことだった。バネの効いた動きでサッと飛び起きると、あごをさすりながらふたたび霧香に向きなおった。さっきより警戒して腹も立てている。
霧香は前より不利になっただけだ。
骸骨マスク男がスペイン語かなにかで罵りながら襲いかかってきた。猛ダッシュしてくる相手の傍らを転がって避け、素早く立ち上がって相手の背中に飛びついた。男の腰に両足を絡め、両腕を首に回して締め付けた。骸骨マスクは激しく身をよじって霧香を振り払おうとしている。霧香は渾身の力を込めて男の首を絞め続けた……が、突然脇腹を背後から殴られ、霧香は息を絶たれた。
「ぐはっ!」
骸骨マスクの相棒――こちらはワシの模様のマスク――が加勢に入ったのだ。そいつに組んだ拳を後頭部に叩きつけられて、霧香の視界に星が散る。骸骨頭の背中から落ちて頭からリングに叩きつけられた。それでもなかば習慣化した身のこなしで横転して敵の攻撃範囲から逃れた。
リングサイドのロープにしがみついてなんとか起き上がった。そこにワシ模様マスクが回転キックを見舞って霧香はポールに叩きつけられ、ロープにぐったりもたれかかった。骸骨マスクが間髪入れず腹にパンチを叩きこみ、霧香は身体をくの字に折ってリングに倒れた。
(こんな筋肉バカふたり相手に無理だって……!)
それでも立ち上がるしかない。
萎えた両足をなんとか踏ん張って立ち、ロープで身体を支えた。
「ゴホッ」痛めつけられた腹の筋肉をなんとか動かして呼吸した。
マスクふたりはなにか談笑する様子で次の手を相談している。主催者はじっくり時間をかけてなぶり殺すつもりのようだ。なまじ暴力に対して耐性があるだけに、やつらをじっくり楽しませてしまいそうだった。霧香としてはもはやさっさとケリをつけて欲しいくらいだったが。
「ああっと、ここでもうひとり乱入するようだ!」遠くで司会者が叫んでいた。「暗黒のケープを纏った破壊の女神、シャーリィ・ハードケース登場だあ!ミス・トルーディの慈悲によりとどめは女の手でということか!?」
真っ黒なローブを怪鳥の翼のように拡げながらリングに飛び乗り、新しい対戦相手が観衆に片腕をあげ、声援に応えた。
芝居がかった大仰な動作でケープを振り払うと、現れたのはがっかりするほど立派な体格の女性レスラーだった。前のふたりと大差ない。金モールで縁取られた黒いマスクとブルーブラックのぴっちりしたレオタード……
あの体つきには見覚えがあった。
確信を欠いたまま、そろそろと痛む身体を伸ばして相手と対峙した。マスクの女と霧香はリングの中央で対峙した。真っ赤な口紅に縁取られた唇が笑みを形作っていた。
「ホワイトラブ少尉、待たせたね」
「少佐……」
「ずいぶん痛めつけられたようだ……辛いだろうが、もう少しの我慢だ」
「はい」
「わたしのうしろにぴったり従うんだ、着いてこられる?」
「はい!」
「よし」
ロリンズ少佐はそういうなり、身を翻して背後に控えていたワシ模様マスクに回し蹴りを食らわせた。
男は棒立ちのままポールに激突してそのままばったり倒れた。首が妙な角度に折れ曲がっていた。リングを囲む観衆のあいだに戦慄的な沈黙が落ちる。
ロリンズ少佐はマスクをはぎ取った。
相棒を倒された骸骨マスクが襲いかかってきたが、少佐は繰り出されたストレートパンチを難なくブロックして相手に右ストレートを叩きつけた。ぐらりと倒れかけた骸骨マスクの首とパンツを掴んでリングの外に思い切り投げ飛ばした。
「可愛い部下を痛めつけてくれたお返しだ!」
「ロリンズ!」女の声が少佐の名を叫んだ。ベス・トルーディだ。「ローマ・ロリンズ!」
少佐はそんな声などお構いなしにリングを飛び越え、小銃をぶら下げた兵隊のただ中に着地した。
霧香は少佐の背中を追った。
信じがたい体験だった。ローマ・ロリンズが行く先、人の壁が紅海のように左右に割れて道を造ってゆく。正確に言えば左右だけではなく地面にも大勢が横たわっていた。怒声が飛び交う喧噪の中、少佐の進路をたまたま塞いでいた運の悪い連中が次々倒されてゆく。少佐は素手で、あるいは奪い取った小銃を炸裂させ、おかげで数歩遅れて少佐を追う霧香の行く手を塞ぐものは一人もいなかった。
「ロリンズを追え!構わないから撃つんだ!撃てェ!」マイクで拡大されたベス・トルーディの声が聞こえた。しかし仲間を撃ってしまう可能性のほうが高い状況でみな躊躇しているようだ。
少佐が走りながら、木箱の上に置かれた白い円筒形のバッグふたつを拾い上げた。そのひとつを霧香に放り投げた。簡易気密服のケースだった。霧香はそれを背中に背負った。背中のケースから伸び上がった伸縮繊維が走り続ける霧香の身体を覆って気密服を形作ってゆく。
奇跡のように無事、パイプが縦横に走る支柱の影に隠れたときには気密服を装着し終えていた。
ようやく気を取り直した敵が発砲を始めていて、散発的な銃声のスタッカートが格納庫内に響いてた。少佐は物陰に火器の詰まったバッグを置いていた。パルスライフルを一丁霧香に放り投げ、次いで破砕手榴弾ふたつをバックトスで投げた。爆発を確かめることもなくもう一丁のライフルをセッティングし始めた。
バン!という鋭い破裂音が響くと同時に少佐が物陰から身を乗り出し発砲した。霧香もすかさずそれに倣う。二人ともすぐに身を伏せ、となりの支柱に移動した。
「遅くなって済まなかった」言いながら手際よく弾倉を交換していた。
霧香は首を振った。「逃げなかったんですか?!」
「ひとりだけ逃げるわけがないでしょう」銃撃戦の最中にもかかわらず落ち着いた声で、バイザーの奥でニヤリと笑うのが見えた。
「ベスゥ~!」
頭上から野太い声が響いた。霧香が壇上を振り仰ぐと、巨大なまるいからだが柵を乗り越えフライトデッキに飛び降りてきた。低重力とは言え軽やかな身のこなしだ。ベビーフェイスだ。部下を引き連れて気密扉の奥に向かうトルーディと入れ替わるように立ちふさがり、霧香の腰ほどもある太い腕を威嚇するように振り上げた。間近で見るベビーフェイスはほとんど怪物だ。並んだらイグナト人でさえ小柄に見えるだろう。
「あいつとまともにやり合うのは無意味だ」
ベビーフェイスは白痴的なニヤニヤ笑いを浮かべてブツブツ呟いている。海賊の兵隊たちも後退し始めていた。少佐と同様にこの戦いに巻き込まれてとばっちりを食らうのは無意味だと考えたのかも知れない。
「エへへ……ベスはやらせねえど……へへ」
雑に刈り込んだ短い金髪を頂いた丸顔は、子供のように無邪気な表情を浮かべていた。福ふくしい笑顔だ……それが普段の顔つきなのだろう。肉に埋もれた小さな眼には知性の煌めきが無く、狂っているように見えた。
ベビーフェイスは巨体からは想像も出来ない素早さで襲いかかってきた。あっという間に間合いを詰めると霧香を抱きかかえるように両腕を振り下ろした。霧香は躱そうとしたが、相手のリーチはあまりにも広く、逃げ切れなかった。片足を掴まれ、軽々と振り上げられてしまった。少佐が実弾のありったけをベビーフェイスの腕に叩き込んだ。……だが切断には至らない。わずかにたじろいで手を離したので、霧香は空中高く放り投げられてしまう格好になった。着地の衝撃を和らげるためにゴロゴロ転がり、その勢いのまま立ち上がって身構えた。
「あははあ、腕がこわれちまったよ……」怪物は血まみれになり肉が垂れ下がった右腕を気にするでもなく、標的にのんびり向き直った。
なんて奴……痛くないのか?
こんどは霧香が発砲した。片膝を突いて狙いを付け、ベビーフェイスの体にありったけの銃弾を叩き込んだ。
「手榴弾!」少佐がそう叫んで肩ストラップからむしり取った手榴弾をベビーフェイスの足元に転がし、手近な木箱の影に身を伏せた。霧香もそうした。
手榴弾がベビーフェイスの両足のあいだを転がり、背後で炸裂した。怪物は足をすくわれ、ほとんど一回転して仰向けにひっくり返った。少佐が使用したのは地上戦用の破砕手榴弾ではなく熱反応手榴弾で、急激な熱膨張で相手を吹き飛ばし、爆発地点にいた運の悪い人間をこんがり焼き焦がす。いわばハンドナパームだ。宇宙船内で無駄にあたりを破壊しないように出来ている。炸薬の匂いがあたりに充満した。
スプリンクラーが作動して蒸気が立ち昇った。
霧香は遮蔽物から立ち上がり、屈んだままローマの側らに駆け寄った。
「まだ終わっていないからね」
霧香が振り返ると、ベビーフェイスが頭を振りながら半身を起こしていた。
「まだ生きてるなんて……」
「あいつはサイボーグだ。無茶な改造を施しすぎてほとんど狂っている」言いながらふたたび発砲した。こんどは脚を狙っている。ベビーフェイスがよろめき、また派手に倒れ込んだ。
「気密扉まで20ヤード、わたしが援護するから走れ。100ヤード先の荷揚げハッチにリトルキャバルリーが駐機してあるからスタンバイして。OK?」
「了解……少佐」
「なにか?」
「パイロット控え室の奥、通路を曲がって右側の個室にボビィ・ブーツェンが寝ています。奥のエレベーターで一ブロック上がったフロアです。発信器を取り付けてあります。控え室にキングたちもいるかもしれません」
「奴らは艦橋に上がった。いまごろ出発の準備中だろう。わたしがボビィを連れてくるから5分だけ待て……さあ行け!」
有無を言わさぬ口調に霧香は考えることもなく従った。
しまりかけた隔壁扉を力一杯こじ開けながら背後を振り返ると、信じがたいことに血まみれのベビーフェイスが立ち上がっていた。成型炸薬弾を叩き込まれ、頭の一部が吹き飛んでいるのに。あの頭には脳味噌が詰まっていないらしい。
「来なよデブ。あんたの相手はこのわたしよ」少佐の威勢の良い声を聞きながら扉を跨いだ。