6
ランガダム大佐との打ち合わせを終えた霧香は、はやる心を抑え屋上発着ポートに向かった。
いよいよ宇宙だ。
だが屋上で思いがけない人物と出くわした。
「ロリンズ少佐殿!」
「やあ、マリオン」
私服のジャンプスーツに革ジャケット姿のローマがいた。足下にダッフルバッグが置かれていた。これからツーリングにでも出掛ける風情だった。
(私服……)フェイトの言葉が脳裏をよぎった。
「少佐殿も……ご出発ですか?」
「殿はいいよ」ローマは中身のつまったダッフルバックを軽そうにかついだ。「わたしはタクシーを待ってたんだが、少し早かったようだ……あなたは現場に復帰?」
「ハイ。先ほど、大佐から任務を頂戴しまして」
「そう、わたしは休暇の残りをどこか別の場所で過ごそうと思ってね。これからスペースポートに向かうところだ」
「そうなんですか」
ランガダム大佐は警戒態勢を発令したのに、なぜ少佐はいまだに休暇中なのだろう……霧香は疑念を押し殺した。
「ところで、あれ、なんだと思う?」ロリンズは発着ポートの片隅に鎮座している霧香の宇宙船に顎をしゃくった。
「ああ……宇宙船、ですけど」
ロリンズは霧香に向き直り眉をひそめた。
「あれが?あれが何か承知しているのか?」
「ハイ」
「ひょっとして、あなたが乗ってきたのか?」
「ええ、まあ」
「開発部のコリン・デルスターがなにか取り付けていたようだが……」
霧香は思い切って提案した。「ええと……少佐、わたしは今からあの船で宇宙に出ます。よろしければ一緒に乗っていきませんか?軌道線でのろのろ昇るより早いですよ?」
「それはありがたい。ビーンストークの座席に何時間も座り続けるのは苦手でね」
「ふうん……広々してるじゃない」
短いタラップを昇って内部に足を踏み入れたローマ・ロリンズは、開口いちばん呟いた。
霧香はなんとなくこそばゆい気持ちでローマの後に続いた。自慢の子を初めて披露するのだ。
船内は機体サイズからすれば驚くほど広かった。機首に面した半円形のフロアはふたりくらいならじゅうぶんな居住空間だった。だが長身のローマにとってはやや天井が窮屈そうだ。
人間ふたりが五十日間内部で生活可能……それも最初の二十日間は快適に、という霧香の条件を、設計陣はしっかりと実現している。どうやってか水一.五トンを機体の方々に張り巡らせたインテグラルタンクに収め、閉じたリサイクルシステムを装備している。それプラス人間がひとり一日生存するのに必要な食物と空気が二〇㎏。現在は最低基準備蓄量である五日ぶんを積み込んであった。最大備蓄の場合、がんばれば人間ひとりが丸一年間生存できるだろう。……実際に長くても五日程度だろうが、こういうものはすべての面で冗長性を持たせた設計でないと、肝心のオーナーの気心が長持ちしないのだ。……これもサイモンの受け売りだが。
限られた容積のなかで機能の多くが他のシステムを兼任しており、構造が複雑すぎて、本格的なオーバーホールができるのは、青写真を持っているウィリアムブラザース社だけだ。だがいまのところ欠点と言えばそのくらいだ。霧香は設計チームに敬意を払って船の設計データの所有権までは主張せず、喜んで整備を独占してもらうつもりだった。
寝心地の良さそうなベッド兼ソファ、端末とサブ操縦装置を埋め込んだテーブルを備え、どちらも床と天井にしまうことができる。床には完全装備の折りたたみ式ホバーバイクも一台収まっている。左右の船体の丸みに沿って湾曲した壁の半分は、外からは覗けない強化偏光素材の展望窓だった。エアロック兼昇降ハッチの設けられた左側には小さな机が置かれ、向かいがわが大きいテーブルとソファで、ゆったり座って星々を眺めることができる。
背後の壁左右には折りたたみの調理スペース、貯蔵収納庫、トイレ、シャワーカプセルが収まっていた。シャワー室はステイシスフィールドを装備した緊急救命カプセルを兼ねているので、船が高速でなにかに激突しても乗員は耐えられる。生活用品を収納する方法の多くは、大昔の乗物からアイデアを頂戴しているのだという。
壁の中央は緩やかなドーム状に膨らんでいる。
そのドームの奥、直径一メートルほどのとてつもなく頑丈な容器のなかに、特異点が収まっているのだ。
それが通称『メインドライブ』であり、600年ほどまえに核融合推進に取って代わった星間宇宙船の動力源だ。
ニュートリニティーマイクロトロン、分子一個の大きさにも満たないが二千トン近い質量を持った底なしの重力井戸。重力子を操って次元チャンネルを開き、DDMと呼ばれる量子的エネルギーを取り出す……ブラックホールに吸い込まれ、押しつぶされ引きちぎられたかつての通常物質のなれの果て……それははじめて理論的に存在が仮定された21世紀には、ダークエネルギーと呼ばれていた。宇宙のどこにでも存在するそのエネルギーを利用できるために、宇宙船に燃料を搭載するスペースは必要はなくなり、補給無しで無限に噴射し続けられるのだ。
操縦席はフロア前半部の一段高く、機首から大きく張り出した類滴型キャノピーに収まっている。まるで銀細工のような構造材に支えられた前後配置のシートは本革製で、新品独特の匂いがした。シートに身を収めると、ほとんど体が寝る格好になる。フロントシートは霧香の体に合わせた特注品だった。「太ったら後ろのシートを使うといいよ」とはモーグの言葉だ。そちらはヴァリアブルシートで、誰の体にも自動的に合う。そちらのほうが座り心地が良いよ、となんども説得されたが、霧香は頑として認めなかった。
操縦装置は肘掛けから手首が動く範囲にすべて収まっていた。特にこだわった二本のコントロールスティックとアナログスロットルレバーは、真鍮削りだしで、滑らかな光沢を放っている。……実際にはキャノピーの内側に投影されるコントロールアイコンによって航法コンピューターに指令して操縦するのだとしても、手動操縦装置を付けずにはいられなかったのだ。
"宇宙船を両手で操縦するために"スロットルレバーをわざわざ取り付けるなどおよそバカバカしく、そのわりに難しい注文だったが、意外にも、サイモンとモーグは装備することに躊躇なく同意した。しかもそれだけに留まらず、深宇宙から大気圏内までを、たった一系統の、それも大昔の航空機なみに単純な操縦システムで、滑らかに移行できる航法オペレーティングシステムを嬉々として作り出していた。つまりこの船は直感で操縦できる船なのだ。これはシンプルな操縦感覚に反して恐ろしく込み入った宇宙船コントロールプログラムなので、それ自体を売り物にできるほどだった。
「可愛い船だけど、なにに使うんだろうね?外洋航海するならともかく、こんな連絡ボートにベッドまで積むなんて、調達部の考えは理解できん」床1/3を占領したベッドを不思議そうに眺めていた。
「ああ、いま畳みます」ベッドをポンと叩くと自動的に縁がせり上がり、ソファーに変形した。
「ほう」
しかしベッドがソファーに変わったからといって違和感は変わらない。床には鮮やかな黄緑色のカーペットが敷かれている。せいぜい一時間か半日過ごすだけで実用一点張りなシャトルの船内とは根本的に作りが違うのだ。
ロリンズ少佐はまだ、この船がGPDの新装備だと思い込んでいる。地上と衛星軌道を結ぶシャトル、もしくは月に行くだけの連絡艇だと。
(おいおい、様子を見て真相を打ち明けよう)
パイロットシートに収まると、銀細工の構造材が自動的にせり上がってキャノピーの高さに押し上げた。ソファを薦めたにもかかわらず、ローマも後席に収まっていた。
「いい座り心地。新品なのね!」嬉しそうに言った。その気持ちは霧香も分かる。GPDの装備はどれも中古なのだ。
コントロールシステムが息を吹き返し、キャノピーの内側がアイコンで満たされた。すでにランガダム大佐が手を回して、船はある企業の備品として登録されている。……言い換えるなら、ある船舶会社の備品としてたしかに登録されてはいるが、その記録は似ても似つかないチャーターシップのもので、実体はない……GPDの装備としても登録されておらず、事実上存在していないも同然だった。大佐は擬装するための偽登録書を何枚も用意してくれた。船がいずれどこかに寄航する際は、それらを使い分けることになる。非公式装備なぶん、いざトラブルに見舞われてもGPDの法的庇護を受けるのは難しい、と大佐に釘は刺されていたが、秘密兵器とはそういうものだろう。
新型機がタウ・ケティの大気圏を飛行する許可もWB社のクレアが取得済みだ。
慣性制御で機体をゆっくり上昇させ、高度と速度を上げた。慣性航法システムは質量に関係なく原子ひとつひとつに影響を及ぼすため、二千トンの機体はスムーズに言うことを聞いてくれる。
都市上空を過ぎて洋上に出たあたりでサイクロンバレルが働き、船を包み込んだフォースフィールドが大気分子を圧縮して周囲に気流の流れを作りだした。機体の周囲に一種のラムジェットエンジンが形成されるわけだ。そのため空気抵抗が障壁となるタイミングは遅れ、音速の三倍に達するまで衝撃波が発生しないのだ。
速度はたちまち音速を超え、さらに加速を続け……高度六万フィートに達したところでメインドライブに点火した。
機体はほぼ垂直に上昇し続け、まっすぐ虚空を目指した。
霧香の背後わずか二十フィートに収まっている人工特異点が、宇宙空間に満ちているDDMを異次元から引き出し運動エネルギーに変換している。宇宙創生のそれに近い凝縮されたエネルギーだ。恐るべき出力だが、慣性ダンパーの働きによって電磁場容器に収められ何重にも被覆された人工特異点からも、推進力を噴射する反動ティッシュからも、音も振動も伝わってこない。……そんなものが僅かでも船体に伝わっているとすれば、シールドに致命的な欠損があるということだった。メインドライブの爆音と振動が一パーセントほど直に伝わっただけでだけで、船内の全員がショック死するだろう。ゼロ距離で核分裂反応を眺めるようなものだ。
霧香の背後でローマがピューと口笛を鳴らした。
霧香も同じ気持ちだった。
高度十五万フィート。
船は脱出速度に達し、さらに易々と加速を続けていた。キャノピーの外は半分漆黒に満たされ、明るいタウ・ケティマイナーの弓形が足元に広がっていた。その美しい弦張もみるみるうちに縮まってゆく。
「こいつは何か変だな、少尉」
「なにがです?」
「加速性能がよすぎる」
「おかげで、すぐ旅客船乗り換えステーションに着きますよ」
「ひょっとして、ドッキングプールにもすぐ行けるんじゃないか?」少佐はもうこの船の正体を見破っていた。
「よければお送りしますが?」
「そうだな……」ローマはなにか考え込んでいた。「旅行はやめた。あんたに付いていくことにした」
「えっ」霧香は思わず振り返った。「わたしは仕事に向かうんですが……」
「いいじゃないか。わたしも具体的に予定を立ててたわけじゃないんだ。気が向いたらどこかで降ろしてもらうよ。邪魔はしない」
「邪魔だなんて……」
「それじゃあいいね?」ローマは大きく笑みを浮かべた「ついでにせっかくだから少し、あなたの任務について教えてくれるかな?」
重力圏を脱したところで自動操縦に後を引き継がせ、ふたりはフロアに降りた。すでに0.8Gの人工重力を発生させているので、昇降バーを使わず飛び降りた。テーブルを用意しながら任務の内容を伝えた。大きなワンピースのソファをさらに変形させ、テーブルを囲むふたつのソファに変えた。ローマは大柄な肢体をどっしりソファにもたれかけ、長い手足を投げ出した。
「テーブルに足を載せても構いませんよ」
ローマは笑った。「悪いね。お言葉に甘えるよ」ごついブーツのかかとをテーブルに載せて足を組んだ。霧香も向かい側のソファーに座った。
「この船は見た目通りじゃないのだな?」
「はい」
「いい船だ」
「ありがとうございます」
「名前は?」
「実はまだできたてホヤホヤで……どんな名前を付けるか迷ってるんです」
「その気持ちはなんとなく分かる……本当にあなたがオーナーなの?個人用宇宙船なんてただでさえ高価な贅沢品なのに、特注ですって?」
「はあ……」
「あんた面白い娘だと思ってたけど、本格的にイカレてたのね」
「それほどでは」霧香は誉められでもしたかのように赤面した。
ローマが述べた感想はそれで終わりだった。いくら金を払ったとか、本当に野暮なことやつまらないことをいわない人だ。すでにランガダム大佐に承認されているらしいから余計な詮索は時間の無駄、と判断したのだろう。
霧香はますます尊敬の念を強めた。見習うべきかっこいい女性だ。
立ち上がって壁の保冷庫を覗き込んだ。一応食料品のカートンが積まれていた。飲物を捜したが、どこかで補給するまでソフトドリンクと水で我慢するしかないようだ。
「……キングが動き出したのか。それで、この新型で追跡するわけだ」
「大佐が慣らし運転にちょうどいいだろうって」
「フム……」ロリンズは足を降ろし、テーブルに身を起こして端末を起動させた。テーブルの上にオープン表示の立体ホロディスプレイが浮かんだ。
霧香は飲物を渡して向かいのソファーに腰を下ろした。
アイコンを操作してタウ・ケティ運輸局の航路図を呼び出した。指先で内惑星航路がいっぱいに表示されるまで拡大した。バーチャルコンソールになにやら打ち込むと、航路図が船の航跡で一杯になった。
主星を中心として、いっぽうにタウ・ケティ・マイナー、同じ軌道のもういっぽうに双子星グラッドストーンが浮かんでいた。タウ・ケティ星系の内側は太陽系よりずっと立て込んでいる。金星より内側の軌道に地球の二倍の質量を持つ岩石惑星グレーボルトとラムゲン。そして主星から半径五千万~八千万マイルのゴルディロックスゾーンにやはり超巨大岩石惑星アルゴンとイジェラ、その軌道の外側にタウ・ケティマイナーとグラッドストーンがある。タウ・ケティマイナーとグラッドストーンはもともとイジェラの衛星だったが、テラフォーミングの際に分離され、現在の軌道に遷されたのだ。
タウ・ケティ星系に木星のような巨大ガス惑星は存在せず、第八惑星ブルーミストまでが硬い地殻を持つ。それがタウ・ケティの富の源泉だ。大量の地下資源がいくつもの惑星に埋蔵されている。アルゴンとイジェラ、第七惑星メルクリウスには大気層さえあり、液体の水がある。人間には耐えられない高重力でなけれは格好の植民地になったはずとだれもが惜しむが、実際には地殻変動が激しく高気圧で、天候もダイナミックすぎてとても都市など築けない。それらの星ではロボットだけが採掘や開発をおこなっている。
タウ・ケティ星系独自の生命活動はついに発見されなかった……イジェラだけに複雑な分子組成の痕跡が確認されていて、かつて生命体が発生した可能性がある。だがそれは数十億年前の話だ。タウ・ケティ星系は太陽系よりずっと古いのだ。
内惑星群のあいだを結ぶ数え切れないほどの白い帯が表示されている。すべて現在航行中の宇宙船……というか、事前申請された航路と、今現在確認されている最新位置、光速ラグを加味した予想位置が表示されている。少佐は考え込んだ表情でホロを見つめ、更にいくつかキーを打ち込んで余計な航跡を省いてゆく。データベースに要注意船の候補がインプットされていますが……と霧香は言おうとしたが、そんな余地もないほど確信的にキーを操作し続けている。どのみちそのデータの存在を示すアイコンがホロ画面の目立つところに浮かんでいるのに、少佐は眼もくれない。
やがて数本の線だけが残った。
「キングの〈マイダス〉は、ここだ」ローマは断言した。その船は霧香が予想したところよりずっと進行している。眼を凝らすと、ありふれた貨客船のコードと〈アンカレッジ〉という船名が記されていた。むろん、堂々〈マイダス〉と表示されている船はない。
霧香の記憶によれば、タウ・ケティ運輸局によって〈要注意〉タグが貼り付けられた船、つまり〈マイダス〉は、グラッドストーン側、つまり主星を挟んで反対側を大きな弧を描いてアルゴンを通過しつつあるはずだった。ガムナーの目的がドッキングプールであったとしてもまっすぐそこに向かうはずはない……情報部はそう読んでいた。妥当な考えである。
その船名は〈カプリス〉。GPDの主力監視部隊は当然そちらに張り付いている。
「カプリス」は第一目標であり、そのほかにもマークされている船が二隻。都合三隻をGPDが全勢力を差し向けて追跡中だ。
ランガダム大佐の説明を受けたときに薄々気づいていたが、霧香に振られた仕事は「保険」に過ぎないのだ。つまり本命を追跡させるつもりはなく、怪しい、しかし優先度の低い船を念のために調査させる……。速度を生かし、経済航路を行き来する何隻かを追跡調査して、そののちドッキングプールで次の命令が下るまで待機せよ……それが大佐の命令だ。完成したばかりの信頼性のかけらもない宇宙船と新米少尉に任せられる仕事はせいぜいその程度……大佐がそう考えても無理はない。
しかし「カプリス」は偽物だと少佐は確信しているらしい。霧香が半信半疑でも無理はなかった。その根拠は?
「アンカレッジはカプリスの三十分後にグラッドストーンの駐留軌道を出航している。タイミング的に、キングが根城から停泊軌道まで追跡をかわしながら乗り込める船はごくわずかだが、この〈アンカレッジ〉はその条件に当てはまる。慌てて加速しているようだ……。根拠はそれだけだ」
「それだけ……」霧香はまごついた。
「どうしてこの船が監視網に引っかからなかったのかが疑問だがな……おそらくほかの船が何隻も欺瞞に関わって、その間隙を縫ったのだろうが……」
「でも、その予測が間違っていたら……?」
「なに、〈マイダス〉とされている船にはほかのパトロール艦も注意を向けているんだ。偽物だったらすぐ分かるさ」
霧香は愕然とした。「要するに、賭けなんですね」
ローマはにやりと笑った。「分かってきたな」
「はあ」
優先度の低い任務とは言え、大佐の指示を無視して特定目標を追い、それがまったく見当違いであったら……少なからず隊内の笑いものになるのは間違いない。笑いもので済めばいいほうだ。ロリンズ少佐の言う通り「アンカレッジ」がマイダスであれば話は別だが、そんなドラマチックな展開は万にひとつも無さそうだった。
「そんなに心細そうにするな。キングはいろいろ抱き込んでいる。タウ・ケティ運輸局のデータといえども当てにならないんだ。表向きGPDに進んで協力しているようだが、担当者は嘘の情報を掴まされたか裏切り者なのか分からない。もちろんその程度はマルコも承知しているだろうが……。このゲームは面倒くさいんだ。そういう考えで事に当たらないと」
そう言われても霧香はひどく不安だった。追跡開始早々難題が降りかかってきたのだ。霧香はゴクリと喉を鳴らし、言った。「……分かりました。われわれはこの、〈アンカレッジ〉を追跡しましょう」
ロリンズはホロを注視したまま頷いた。
「そうか。……それでと、〈アンカレッジ〉がこのまま加速し続けるとすると、予定より早い恒星間連絡船とランデブーするつもりのようだ」
「しかし、この船なら二十時の恒星間連絡船にはギリギリ間に合いますよ」
「ほう、そんなに加速できるのか?」ローマは感心した。
「とはいえ……もともとマイダスがランデブーされると目されていた二十四時出航の恒星間連絡船はアークトゥルス辺境方面行き、二十時出港の〈ルルダク号〉は太陽系、αケンタウリを回る近隣循環航路です……行き先がまるっきり逆です。……変じゃありません?キングがなにか目的を持ってるなら、行き先ははっきりしているはずなのに」
「うん、そうだ。どう思う?」
「追跡してみれば分かるでしょう」
「だが……ちょっと見て。これを」別の光点のひとつを指さし、データを呼び出した。
「タンカーですね。スミトモ鋼船の中型輸送船」
「うん、このタンカーの進路、〈アンカレッジ〉……いや〈マイダス〉と交差しそうじゃない?」
「そうですね……」霧香は二本の航路を呼び出し、予定進路を拡大させた。出航から現在までの動きを早送りの動画で再生した。「……このままだと四時間後、約五百㎞以内で交差します」
ローマは動画をもう一度再生した。「タンカーのベクトルを見てみろ。経済軌道を外れて、わざわざ速度を合わせてマイダスとニアミスするように加速しているだろ?」
「そう言われてみると、たしかに……でもなんのために……」霧香は少佐の探るような目つきを直視した。「まさか……この二隻が入れ替わるつもりだと言うんですか?」
「そうだ」ローマは満足げにソファにもたれた。
「まさか……そんな安直なトリックを?」
「ああ、単純だけど、事実一度、その方法で出し抜かれたことがあるのだ。追跡していた我々が気付いた時には、相手は悠然と恒星間連絡船とドッキングして何光年も遠ざかっていた。とんだお笑いごとだった」言葉とは裏腹に冷厳とした口調だった。
「たしかに、タンカーの動きは、予定を早めたマイダスに必死に合わせようとしているみたいですけど……あからさますぎませんか?」
「老いぼれたのさ」
「えっ?」
「タンカーの寄港先はどこかな」
「ええと」霧香はアイコンをいくつか捜査してデータを呼び出した。「事前に申請されたフライトプランによると……外惑星系を転々とするようです。ドッキングプールには向かいません!」
「なんの変哲もないタンカーが、目的地を往復するでもなく外惑星を巡ろうとしているなんて、おかしいだろう。どうする船長?」
霧香は戸惑った。
「どうするって……わたしが決めるんですか?」
「当たり前だ。船長はあなたで、わたしはただの見物人」
「ええと……」霧香は緊張した。いつもならさっさと決断してしまうところだが、こうしてロリンズ少佐に眺められていると気後れしてしまう……まるで訓練生時代に戻ったようだ。
もし仮にGPDの予測がすべて間違っていてロリンズ少佐の考えが的中しているとしたら、もうすでに一度任務を失敗しかけていることになる。少佐の前で無様な結果を出したくはなかった。
「まず、ドッキングプールに向かいます……そこで〈マイダス〉が現れるか待ちましょう。現れなければ、急いで追跡を再開します」声に迷いが生じないよう言い切るのになかなか気力が要った。
ローマは頷いた。その表情から霧香の案に賛成かどうかは伺い知れなかった。
「了解、本当にこの船はそんなに足が速いのか、見せてもらおう」
タウ・ケティマイナーはすでに一千万キロ後方に遠ざかっていた。霧香はふたたび操縦席に着くと、ヘッドセットを装着した。アンテナをタウ・ケティマイナーに向けてバースト通信を送った。
「モーグ、こちらマリオン・ホワイトラブ、WBS―001は現在処女航行中。まだ発進したばかりだけど、ドライブの加速レスポンスは上々よ。これより長期慣らし運転に出かけます。定期的にデータを送るので、気が向いたら参照しといてね……帰ったら点検のためそちらに戻るから、タウ・ケティ気象省に再突入の許可を申請して、お願い」
「マリオン、ドレッサーをちょいとお借りするよ」
「どうぞ」霧香は座席越しに振り返って応えた。ローマはダッフルバックから上等なドレスを取りだし、折りたたみ式のハンガーに吊していた。
「わあ……素敵なドレス!」思わず声に出していた。
ローマがやや決まり悪げに振り返った。
「ありがとう……着る機会はなさそうだが、高い服なんだ。皺になるといやだからね」
●「ダークエナジー」と「ダークマター」をどう呼ぶか?「ダーク○○」という呼び方は欧米の科学者が正体不明の事象につけるいわば仮名だそうで、少なくとも32世紀には正体が判明しており別の呼称がつけられているに違いなく(実際30世紀が舞台のCG映画「キャプテンハーロック」で「ダークマター」が使われてるのを見て正直ぞっとした)……大いに悩みましたが、結局ステキな名前は思いつかず、ややはぐらかした感じです。
「携帯端末」もできれば変えたかったですが、「コムナントカ」みたいな未来のコミュニケーションツールにリアリティを感じた例はプロのSF作品でも稀と言って良いでしょう……ということで筆者の手には負えず放置した次第(泣)