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ハイフォールから五百マイルほど東の内陸に位置するニューボストン。霧香はそこにタウ・ケティ滞在用の家を買っていた。ノチカ貯水湖を囲んだ緩やかなすり鉢状の地形に、石畳の入り組んだ路地の街が広がっていて、霧香は一度見ただけで魅了された。水路を跨ぐ小さなアーチ橋や迷路のような階段が続く横丁がとくにお気に入りだった。火星に強制移民させられ祖国に愛想を尽かしたアイルランド系アメリカ人の子孫が築いた、という複雑な経緯を持つ静かな田舎町は、最初の印象の通り住み心地がよく、満足していた。だが街のアパートにはローバー駐機場がなく、仕方がないので山の手の一軒家を購入した。雑然とした街のなかに住めないのは残念だったが、ノチカ湖を見下ろす夜景は素晴らしい。
ローマとふたりで1ポンドものハマグリとタルタルソース、そして山盛りのオニオンリング、ぱりぱりした魚の皮のスナックその他をビールで流し込んだ霧香は、いささか食べ過ぎたと反省しながら、その自宅に向かってローバーを飛ばしていた。有難いことに、太るほど暇になったためしはないので、自慢の健康体はどんなに食べても、余分な贅肉が付いたことはなかった。
今では霧香の自宅に優秀なハウスキーパーが住み着いていて、いつ訪れても居心地のよさは維持されていた。そのハウスキーパーが抗議を表明した。
「ずるいなぁ、ひとりだけ美味しそうなもの食べて」
「ごめんごめん」
「それじゃあ、お姉ちゃんが留守の間に教わったシチューは食べなくていいね」
「えっ……このいいにおいのが、そのシチュー?」
「そうですよ~」
リュートは素っ気ない態度で、お玉を片手に台所に向かってしまった。
義弟を追いかけて台所の椅子ににサッと座った霧香は、テーブルに突っ伏して猫なで声で訴えた。
「ねえ……意地悪しないで、ひとくち味見させてよぅ」
「ワインで煮込んだ柔らかい仔牛だよ。そんなハイカロリーなもの食べたら豚になる」
「ビーフシチューね!わたし大好きなの。やっぱりひとくちじゃなくてお皿一杯食べたいな!フランスパンのガーリックトースト添えて」
「聞いちゃいない」
「ねえったらぁ……すぐ食べたいの?まだ5時半よ。そんなにおなか減ってる?」
「まだそんなに……じゃなくて、あくまで食べる気だな……?」
「分かってくれたようだねワトソン君」
リュートは黙って宙を見据え思案していた。
「なんならあんたがシャーロックでも構わない」
「まあそれほど言い張るなら」リュートは振り返って渋々宣言した。「夕食の予定を遅い夜食にしてもいいけど……」
霧香は腹ごなしをかねて義弟を散歩に誘った。緩い坂道をまっすぐ降りて市街の商店街に向かった。リュートは霧香より街に詳しく、手作りのハムやソーセージを売る店やパンを焼く店を知っていた。
「あの薄暗い棚の並んだ店はなんなの?」
「古本屋だ。たくさん本が置いてある」
「へえ?紙の本てこと?」
「そうだと思うよ、ぼくはよく知らないけど」
「そんなのがたくさん置いてあるならちょっと覗いてみたいわね。あとで行ってみるわ」
ベーカリーのドアを開けて中に入ると、店番の女の子がリュートに気付いて顔を輝かせた。だが続いて霧香の姿に気付くと露骨に顔を曇らせた。
「ハイ、ローレン」
「リュートくん、こんな時間に珍しいじゃない」
「お姉ちゃんが散歩したいって言うから」霧香のほうに顎をしゃくった。棚のおいしそうな焼き菓子を眺めていた霧香は振り返り、会釈した。
「どうも、姉です。マリオン・ホワイトラブ」
「ああ……リュートくんが言ってた人……」ローレンは態度をいくぶん軟化させ、霧香に会釈を返した。
店内は温かい焼きたてパンの匂いが満ちている。霧香はウィンドウに面した棚を注視した。籠のなかにさまざまな菓子パンが並んでいる。
「おいしそうなパイね……マロンクリームが入ってるの?栗をつぶしてフィリングにしたの!?」
「え?ああ、ハイ、それとホイップクリーム……」
「マロンとホイップクリーム……」霧香は有意義な知識を得たように重々しく頷いた。「たいへん結構」
リュートは無視した。「ローレン、フランスパンと……ベイグルよっつに、ホールホイート半切れちょうだい」
「あとこのマロンクリームパイふたついただこうかしら……」
「だーめ!」
「ごはんのあとデザートが必要だと思わない?」
「却下する」
「それじゃあ朝食用にこのイチゴジャムのみっちり詰まったドーナツ――」
「朝用にベイグルを買ったからもうダメだっての」
「それじゃせめてこの板チョコ入りっていう薄いやつ一個!」
「ノーノー!」
「ブーブー」
「面白いお姉さんね……」ローレンが紙袋に包んだ品物をリュートに渡しながら言った。リュートはチラッと決まり悪げな微笑を向けて、お金を払った。
霧香はリュートに文句を垂れながらベーカリーをあとにした。
GPDの給料は全額リュートに渡していた。彼はそれを手堅く使い、余計なものは滅多に買わない。どうやらいまもそのようだった。光熱費や市民サービス代金は霧香の莫大な貯金から引き落とされているので、彼が衣食住をまかない家を維持するのには充分な額だ。彼はじつに良くやっていると認めねばならない。ときどきベッドに綺麗なキルトがかけられていたり、玄関に陶器の置物が追加されていたり、霧香が思い付かないことを付け足して家の生活を豊かに彩っていた。家に帰還するのが楽しかった。
「あんた少し背が伸びた?」
「うん?そうかな」
霧香は義弟に頭を寄せて手のひらをかざした。「そうよ。冬服を買わなくちゃね。なにか欲しいのある?」
「そうだなぁ……ジャンパーとスウェット……あと新しい靴が欲しいな。運動靴」
「目当ての店はあるの?」
「あるよ。すぐそこだよ」
奇妙な話かもしれないが、霧香がそうやって買い物を促すと、リュートはいろいろリクエストしてくる。霧香は嬉しかった。遠慮されているうちは気を揉んでいたのだ。姉弟同然になるまでは大変だったが、さいわいリュートは聡明な少年で、新しい境遇に順応するのは早かった……。
彼は「天使」と呼ばれるヒューマノイドだ。六世紀以上まえアメリカ人によって作られた、いわば愛玩用亜人類……その子孫なのだ。惑星グラッドストーンの奴隷市場で彼を助け出したのは4ヶ月前。わずか14歳で、霧香を見返す瞳にはなんの光明も見いだせなかった。彼の種族はきわめて聡明で、生まれ持った中性的美しさのおかげで、哀れみを催す短命種にもかかわらず暗黒時代後の人権意識が発達した世界でもずっと虐げられ続けていた。主人を性的、精神的に満足させることをDNAレベルで条件付けられているため、リュートは新しい保護者である霧香にもいっけんすぐに心を開いたように見えた。
だがその心の奥底はいまだ計り知れない。
彼らが作られた当初、寿命はわずか30年だった。
世代を重ねるごとにじりじりと寿命は延びていったが、それでもやっと60年。
人間の女性と交わって子孫をもうけても、生まれてくるのは父親の性質を99.9%受け継いだ「天使」の、短命な、男の子だけだ。人類の平均寿命が150歳に届きそうな時代にあまりに酷な数字である。遺伝子のわずかな違いのおかげで保険会社の電脳人格コピーサーヴィスも適用できないため、セカンドライフの道も閉ざされている。だから哀れな子孫を増やすのはもうよそうと考える「天使」は年々増加している。
容易に共感、同情したりできない境遇であり、霧香もリュートとそのことを直接話し合ったことはまだ、ない。
そう、たぶん霧香自身はリュートのメンタルケアにたいして役に立っていないのだろう。むしろ精神的に依存しているのは霧香のほうだった。
ニューボストンの家を買った当初は後悔したものだ。誰もいない一軒家に帰るのはとてももの悲しかったのだ。いまではリュートがいて、いつ帰っても明かりが灯っている。そうしたかけがえのない暖かみの引き替えに霧香にできることといったら、ときどきなにか買ってあげることだけだった。
たっぷり時間をかけてショッピングを楽しみ、家に向かう頃には九時をまわっていた。ふたりとも両手に荷物を抱えていた。買い物のあいだにリュートの近況を聞いた。近所のおばさんと仲良くなってレシピを教わったこと。通信教育を四年次まで終えたこと(なんとすごい達成度だ!)。湖伴のジョギングコースを走ろうと思っていること。代わりに霧香は仕事の話を聞かせた。それでまた「助手」として仕事に連れて行く約束をさせられた。
「新しい船のテスト航海が終わったらね」
「ああ、そろそろ完成だっけ。マイ宇宙船かぁ」
「わたしと、あんたも操縦できるようオーナー登録してあげるから。勉強してね」
リュートは戸惑ったような笑みを浮かべた。彼は心から嬉しいときにそんな顔をする、と霧香は思っていた。
「ぼくも?」
「そりゃあね、わたしがなにかあったときはあんたに運転してもらわなきゃ。だいじょうぶ、すごく簡単に操縦できるのよ!ローバーを運転できるならあとは簡単な数学だけだし、あんたならマスターできる」
サイモン・ウッドから連絡があったのは二日後の朝だった。家のターミナルに伝言が届いていた。再生した。
「マリオン、ウッドだ。彼女は完成してる。近いうち、受領しに来れるか?」伝言はそれだけだった。相変わらず素っ気ない。
霧香はリダイヤルした。
「ウィリアムブラザースシップ&デザイン社です」
「ハイ、クレア、マリオン・ホワイトラブよ」
「マリオン!おはよう」
「おはよう。さっきサイモンの伝言を見たの。完成したんですって?」
「そのようね。おめでとう。さっそく今日受領しに来る?」
「うかがうわ。早く見たいもの。今から……二時間くらいで行くわね」
「待ってるわ……サイモンも渡したくてうずうずしてるから、早く来てね」
【惑星グラッドストーン】の名前の元は、かの有名なSF小説『ハイペリオン』シリーズの登場人物、連邦首班マイナ・グラッドストーンから(タウ・ケティ(T2C)に居を構えている)。
【ウィリアムブラザース社】元ネタはアメリカに実在する古いプラモデルメーカー。ろくな新製品もないのに倒産することもなく、50年も昔に設計された味のある航空機のプラモを生産してます。